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パレット

八月。じりじりと照り付けるような暑さの中、僕は石でできた階段を上がっていた。右手には吹き出る汗を何度も拭ったハンカチ。そして左手には赤い彼岸花を汗ばむ手で持っていた。
長い石段を登り切り、来た方向を振り返る。眺めた先には青く澄んだ海が広がっていた。太陽が水面を照らして、キラキラと光っている。
――懐かしい。あの日もこんなだったかな。
なんて感傷に浸りながらつま先を半回転させ、前へ歩きだす。
なんだろう。もうずっと前の話なのに、ほんのちょっと前だと勘違いしてしまうような感覚。でも、この感覚は正しいのかもしれない。きっと何度も夢で見たから。
だけど、もしかしたら暑さの中で見た蜃気楼だったのかもしれない。
 僕は足を止め、墓前の前でつぶやいた。
「久しぶりだね」

 窓を見る。葉桜が茂り、紫陽花のつぼみが膨らみ始めている。グラウンドでは他の学年がサッカーをしていた。
「はい」
前の席の女子からプリントを渡され、内容を見る。紙には〝進路希望調査〟の文字があった。僕は小さくため息をついて、また外を見た。そして目線を上へ向ける。
今日は雲一つない晴天で、それが僕みたいで嫌になった。
 周りの人たちが流れるようにシャーペンを動かす中、僕は最後の一分で、傍から見た自分らしいのであろう、国語教師と書いた。

梅雨も終わり、夏休みも目前にした7月。
夏休みに学校で行う夏期講習のガイダンスが講義ごとに行われていた。今日は古文演習のガイダンスの日で、昼休みに聞きに行くことになっていた。
指定された教室へ向かうとすでに何人かいた。黒板に貼られていた座席表を見て、席に座った。窓側から二番目、後ろから三番目の席。最初は外をぼけーと見ていたが、次第に手持無沙汰になり、持ってきていた英単語帳をめくって待った。
しばらくすると先生がやってきて、他の受講生も続々とやってきた。しかし、僕の左隣だけは埋まらない。時間になり、そろそろ始まろうとしたとき、後ろのドアからバタバタと音が聞こえてきた。
「遅くなってすみません!」
「渡さんは一番端の後ろの席ね」
わたりと呼ばれた女子は、ロングヘア―をなびかせながら席に向かってぐんぐん進む。色白で、身長は僕よりは低いものの、女子にしてはすらりとしている。黒い瞳に力強さを感じた。
教室に入ると同時に申し訳なさげに、でも勢いよくそういうと僕の隣の席に座った。それと同時にふわりと甘い匂いがした。
彼女が教室に入ったことによってパッと空気が変わった気がして、そのまま目で追っていた。すると目が合い、彼女は僕にニッと笑いかけた。
この時初めて、渡という人を認知した。

「えー、明日から夏休みということで……」
 勉学に励めというオチが分かりきった面白くもない校長の話を聞き流し、通知表を受け取って夏休みに突入した。
 と言っても高三の夏休みだ。用事は特になく、学校と塾と図書館とを行き来し、たまに息抜きで出かける。代り映えのしない毎日にうんざりしていた。

 お盆が終わったころ、一週間の古文の夏期講習が始まった。
 『……年月も記さで、三十一時に末期の心を哀れにも述べたり。〝さりともと思ふ心にはかられて 世にも今日まで生ける命か〟 ここに初』
突然、トントンと左肩を叩かれた。
「ごめん、消しゴム二つ持ってない? 忘れちゃって!」
 授業中だから声を潜めているのに、勢いは普通の人が普通に話すぐらいあって、そのアンバランスさが可笑しかった。
 僕は自分の筆箱にある少し大きめにちぎれてしまったものを渡した。彼女はありがと! と言って受け取るとまた問題を解き始めた。

 授業が終わると僕は荷物をもって中庭へ向かった。夏休みの間、中庭で昼食をとることにしていた。夏に中庭で食べるのは嫌がる人も多いが、木の下にあるベンチに座り、木陰特有の涼しさを感じるのが好きだった。でも一人になれるという理由が一番だった。
「あ、いた!」
 駆け足でやってきた彼女は、ありがとう、と言って貸した消しゴムを返しに来た。そしてそのままおもむろに僕の隣に座った。
「いつもここで食べてるの? 暑くない?」
「暑いけど、日陰ならそこまでじゃないし、一人の方が落ち着くから」
「ふーん。そっか~。じゃあ私も食べよっと」
「ここで?」
「もちろん。なんかダメだった?」
「いや、ダメってことはないけど……」
 なぜわざわざ僕と食べようと思ったのだろうか。思考が読めない。
「渡さんは」
「渡でいいよ」
「……渡、はさ、一緒にご飯食べる人とかいると思ってたんだけど、行かなくていいの?」
「別にいないし大丈夫。そもそも一緒にいなきゃいけないわけじゃないし」
 そういうと卵焼きを一口食べた。そして続ける。
「そっちこそ、一緒に食べるお友達はいないんですか~?」
 煽るような物言いにムッとしつつも、わざわざ対抗することないと抑えて、いつもつるんでいる奴がいないから。と答えた。
「じゃあ、私と話しますか」
「え、なんでそうなる?」
「だって、お互いしゃべる人いないし、君なんか面白そうだし」
「というか、僕のこと知ってる?」
「知ってる。三組の伊藤くんでしょ」
「合ってるけど……」
「もう私たち知り合いじゃん。じゃ、話そう」
 彼女の勢いに飲まれる。僕に手綱は握らせないと主張するがごとく質問をしてくる。
「誕生日は?」
「……四月二十二日」
「血液型は? あ、待って、当ててみるよ。うーん。A型に見せかけてのO型?」
「残念B型」
「へえ、意外。兄弟は?」
「兄一人と妹一人」
「うーん、そうだなー。あ、座右の銘は?」
「触らぬ神に祟りなし。かな」
「なんてネガティブ」 
 このまま彼女のペースに合わせていたら本当に飲み込まれてしまう。
「ちょっと待って。自分のことを話さないのはフェアじゃなくないか?」
「えー。私のことはいいんだよー。そもそも私に質問してないじゃん」
確かにしていない。正論を正論で返されてしまい、ぐうの音も出ない。
「……じゃあ、誕生日は?」
聞かれたことを聞き返す。
「当ててごらん」
「めんどくさ。八月?」
そういったところでチャイムが鳴った。
「残念。時間切れということで、また明日」
次の日。彼女は昨日言った通り、講習の後に僕についてきて一緒にお昼を食べるようになった。本当に来ると思わなくて正直驚いた。こんなに空気を読まない人がこの世には存在するんだ。と。
毎日質問をされ続けるのも人間嫌になってくるものだ。僕はされた質問をそのまま返したり、どうでもいい質問を「渡質問ストック」というフォルダにメモしたりして話した。
話していると渡は自分が勝手に想像していたイメージよりも群がるのを好まない人間だと分かった。嫌いな野菜は人参とピーマンで、見た目の大人っぽさに反してずいぶんと子供らしかった。
三日目からは昼休みだけでなく、午後の講習が終わるとまた合流して話した。
これだけ話していれば初日のような速いテンポでの会話はなくなっていった。間をとりながら話す。言葉を交わさない時間もそれはそれで居心地がよかった。
渡というピースが加わったことで、僕は変化させられたらしい。今まで変化を頑なに避けてきたが、初めて面白いと思えた気がした。

 とうとう古文の講習も最終日を迎え、結局この一週間ずっと彼女と一緒にお昼を食べていた。
「夏も終わるね~。何一つ夏らしいことできなかったな」
「受験生だし、こんなもんじゃない」
「冷めてるね~。何かやり残したこととか、ないんですか?」
 レポーターのようにマイクを向ける仕草をして聞いてきた。
やらないといけないことはたくさん見つかるけど、これと言ってやりたいことはない。熟考したが結局見つからなかった。
「ない気がする」
「え、ほんと? 行きたいところとかも?」
 行きたいところ……。少し思考を巡らして、あ。と声を出した。それに対して彼女は、お? と声を弾ませながら応えた。
「海、行きたいかも」
「じゃあ行こう」
 彼女は間髪入れずにそう答えると広げていたお弁当を素早くしまい、当たり前のように、さ、行こう。いった。僕はあまりにも突然のことで微動だにできなかった。
「ほんとに行くの?」
「当たり前じゃん」
「この後の講習は?」
「サボるに決まってるでしょ!」
 そう言って幼い子供のような顔をして笑うと、彼女は僕の手を力強く引っ張ろうとした。僕は慌てて持っていたものをしまい、歩き出した。
 僕たちは最寄りの駅へ向かい、電車に乗った。夏休みとはいえ平日のため人は多くない。特に会話をすることもなく並んで座った。
 いけないことをしている。その事実だけでワクワクしていた。
 
僕はどちらかと言えば優等生の部類で、ルールに反することをしたことはなかった。したくなかったというより、することが億劫という表現が正しい気がする。悪いことをしなければ怒られることも、咎められることもない。
逆もしかりだが、自分のしたことを否定されることが何より怖いことだと思っていた。だから興味を持たないように、何事も七割の力を常に出せるようにすることだけを考えてきた。
だけど、今、午後の講習をサボって海に来ている。
今までに体験したことのないスリルに高揚している。
今なら何でもできそうな気がした。
 
下車した駅から歩いて五分。駅の時点でも見えていた海の浜辺についた。
「海、きれいだね」
「すごく澄んだ青だね」
「私ね、色がはっきり分からないの。見えないわけじゃないけど」
「……そうなんだ」
 突然言われた言葉に、なんて返していいのか分からなかった。
「でも、君といると少しだけ濃く見える。なんでだろ? 実は魔法使いだったりする?」
 くすりと笑いながら彼女は言った。
「僕そんな力持ってないよ」
僕はそんな力を持っていない。むしろ、彼女の方が持っている気がする。彼女と出会えてなかったら今こんなに周りに目を向けられていない。こんなに海が青いことも、空に飛行機雲があることも、光が眩しいことも感じられていない。
「渡が僕の魔法使いなんだよ」
 黒い瞳が丸く大きくなったかと思うと、なにそれと言いながら目をそらす。その行動でようやく、なんだかクサいことを言ってしまったと気づき、羞恥心で死にたくなった。
 多分、ほんの一瞬だったであろう沈黙が永遠に感じられた。さっきまで聞こえていた波音が自分の心音でかき消される。
「……りたいな」
彼女のつぶやきが永遠に終わりを告げた。
「え?」
ううん、なんにもない。と言ってまた空を見つめていた。
「なんかさ、こんな日が続けばいいのにね」
僕は間が持てなくてそう話を切り出した。彼女が答える
「そうだね。でも、ずっとはないのかも」
「そうかな」
「だって、ずっと同じなら、私たちは会えてなかったよ」
「そう、かも?」
「なんで疑問形なの」
 と言ってけらけらと笑う。なにかつぶやいた時の彼女と、今彼女の雰囲気の違いに、違和感を覚えた。だけどそれを悟られるのは違う気がして、会話を続ける。
「うまく言えそうにないから」
 今の自分は自分ではない誰かの視点にいて、それを上から見ているような感覚。いつも自分が生活しているところが世界なら、異世界に行くような、もしかしたら存在しえないどこかを旅しているような。
「永遠って不自由なのかもね」
 不自由だなんて考えたこともなかった。
「君って、やっぱり面白いよね」
「ちょっと、今私のこと馬鹿にしたでしょ」
してないよ、した、という言い合いを何回かして、お互いくだらないことに気が付いて笑いあった。
夕日が差してきた浜辺を二人で歩いてから、家路についた。

夏休みが終わり、新学期が始まった。休み前と同様、面白くない校長の話が続いた。僕はそれを一つも聞かず、周りの人に不審に思われない範囲で彼女を探した。
教室に戻る途中も、十分間の休憩も、トイレに行くふりをして探した。だけど彼女は見当たらなかった。
次の日も探したがやっぱり見つからない。彼女がいないからと言って、僕に問題はないのに、無意識に彼女を探してしまう。彼女がどこで何もしていたって僕に関係はないし、彼女の行動を制限する力を持っているわけでもない。そもそも僕たちは普通にしていたら交わることのない人だ。でも、彼女が今何をしているのか知りたいという衝動に駆られて抑えられなかった。
彼女は今、どこにいるのだろう。

「こっち向いて! じゃあ撮るよ~!」
「ほら、はぐれるなよ」
「やばー! めっちゃきれいなんだけどー!」
赤、青、黄とカラフルな色で囲まれている。周りには風船やカチューシャを持っている人がたくさんいて、どの人も着飾っている。少し視界を広げると観覧車やメリーゴーランド、ジェットコースターがあった。どうやら僕は遊園地に来ているらしい。
でも、どうして?
僕はとっさに隣を見た。すると、彼女が不思議そうに覗き込もうとしている。僕は状況が呑み込めていなかった。
もう一度周りを見る。しかし状況は変わらない。
 行こ、といった彼女が僕の手をつかんで駆け出す。はずだった。
彼女と手が触れた瞬間、すべての色がはがれ落ちた。植物は枯れ、建物は錆び、人間は崩れていく。それは彼女も例外ではない。
「いかな――」

――ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ、ピピッ。

「はぁ、はぁ……」
アラームを止めて、呼吸を整える。
無心になるようにと言い聞かせる。しかし、時々、白と黒の世界に一人きりになった映像が脳裏にちらつく。その度にまた無心になるように意識を向ける。
しばらくすると荒れた呼吸は元に戻ったが、胸騒ぎは止まらなかった。

 僕は先生に彼女の行方を聞いた。あまりにも日常生活では接点がなかったため、先生は不思議そうな顔をしていた。借りた消しゴムを返したくて。と、苦し紛れに過去の事実でごまかした。
 すると僕を捉えていた先生の視線は一度はずれ、揺れた。わずかに逡巡を巡らせ、もう一度僕を捉えた。そして、まだみんなに言っていないからと前置きをしたうえで言った。
「……渡さん、昨日、亡くなったの」

 あれから僕はどうしたのか記憶にない。多分、普通に授業を受けて、電車に乗って、家に帰ったんだと思う。でも涙は出なくて、ただやるせない気持ちに苛まれて途方に暮れる。
ぐちゃぐちゃだ。
彼女と出会ってから、パレットに丁寧に色を置いてきた。赤、青、黄、緑……。必要な時に必要な色を取り出し、色を重ねる。時にはいろんな色を混ぜて、新しい色を作って、まっさらなキャンパスを彩ってきた。だけど今、パレットの色は灰色に染まり、彼女と描いたキャンパスだけが輝いて見える。
絶望した。こんな言葉、今まで子供じみていると思っていたけど、これ以上にお似合いな言葉を僕は知らない。
 そんな状態が二日、一週間、一か月と過ぎていった。
時間は無慈悲に、刻々と流れていく。三か月が過ぎた。僕は大学受験をした。それから数日して高校を卒業した。それからまた一か月経った。僕は大学に入学した。
 僕はとにかく時間が流れるように、考える暇を与えないように努めた。予定はなるべく入れるようにした。授業を受けて、サークルの活動をこなし、バイトに行く。休日は友達を誘って一日中遊びに行った。
 ある日、友達に誘われて同じサークルの人たちで食事に行くことになった。雰囲気のいいイタリアンレストランで、大勢の人たちが語らい合っていた。
僕はそこで二つ上の女の先輩と話していた。この人は面倒見が良くて、僕ら後輩はよくお世話になっている。
 先輩はいきなり話しを止めた。そして、
「今、違うこと考えてるでしょ? いつも心ここにあらずって感じ」
 違う? と言っていじわるっぽく笑い、ワインのグラスに口付けた。その笑顔がどこか〝彼女〟に似ていて、ドキッとした。
 暑い夏の日だった。

「あれからもう十年か……」
 彼女は交通事故にあって亡くなったらしい。だけど、それが事故死なのか、自ら命を絶ったのか今でも分からないそうだ。
短い彼女との思い出は今でも鮮明に思い出せる。
僕は彼女の墓石をきれいに拭き、新しい花を添えた。安息香と書かれた箱から線香を取り出した。先に火をつけて焚き、手を合わせる。
「君を忘れた日はないよ。ずっと僕の中には君がいて、君の笑顔を忘れられなかった。……ずっと」
 こんなに執着したことは今まで一度もなかった。彼女が初めて僕に色を見せてくれたからどうしても縋りたくなってしまったんだと思う。
「あのさ、僕、結婚するよ」
 また彼女と出会えたら、なんてたくさん考えたけど、もういない。いつまでも囚われていたらどこにも行けないんだと、ようやく気付いた。
「今までありがとう。……忘れないよ」
 目を開け、彼女を見る。もう振り向かないと決めて階段へ向か合って歩き始める。
 一歩前へ進んだ時、堪えきれずにポロリと涙が出てしまった。
ふわりと彼女の香りがしたから。



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