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存分に享受するには。


常に与えられている私たち。
それらを存分に享受できているのだろうか。


受け取る力


推しのライブに行ったとする。
最高の音、演出、空間。

聴覚、視覚、触覚、嗅覚などの五感は刺激され使われる。あとはファンを含むその会場全体の何かしらの雰囲気(バイブス)を捉えている第六感みたいなものももれなく使われる。

でも、私は存分にそれらを享受できているだろうか?

ベース音を拾えているか、パーカッションの細かなテクニックに気づくか。ステージ上のダンス、モニターの映像、それぞれの演出が何を意図しているのか分かっているだろうか。


存分に享受するには “準備”が必要なのである。


感覚と思考を育てる


推しのライブだけと言わず毎日の食事やコンビニでの買い物、ちょっとした同僚からの差し入れをもらった時や家事育児などのあらゆる場面で享受の力は試されている。

その “物”や “出来事”をぐっと捉え享受できているかは、五感と思考の成熟度に左右される。

そしてこの五感と思考は育むことができるのだ。

例えば、ベース音は聴く練習をすれば聞き取れるようになるし、食事もしっかり味わえば隠し味のスパイスに簡単に気づけるようになる。その他の感覚もそう。練習し備えることができるようになるのである。

また、ライブの演出の意図は、ライブ前のミュージシャンの動向を追っていれば事前に知ることができたり、食事に関してはどのような生産者さんや料理人さんの意図があるかも調べれば知ることもできたりする。

ただ、もしそれを知る術がなかった場合でも思考を使い「どのように?なぜ?」という “問いからその過程(意図や意味)を想像する”ことは誰にでも可能なのである。


感覚に気づき、意味を見つけることは、それを一層味わい深くする。


なぜ享受する力は必要か?

私にとって存分に享受することは、日々や瞬間を楽しむことであり、濃く生きることである。

これまで「単純作業、流れ作業、やっつけ仕事」で時間を潰せていた人も、これからの時代は間も無く時間が与えられていく。

そうなると、このちょっと持て余した時間に人は何を取り入れ、どんな意味付けしていくだろうか。それぞれの「好きや価値観」が試されていくとも言える。そして、感覚と思考を育んでいなければ「退屈、空虚、虚無」を感じる人も出てくるだろうとも思える。

「物や出来事」そのものが時間を埋めるのではなく「物や出来事」をきっかけとして内的な感覚が時間を埋める。それが、私は私にとって正しい時間の埋め方だと思っている。

身体の感覚に気づいたり、思考を使って意味を想像することで動く感情を楽しむことができる人ほど生きやすくなるのかもしれない。 “気づく癖や想像力”を持っていればいるほど生きやすい世の中になるのかもしれないと思っている。

これが私の理由

これが私のヨガをやっている理由であり、noteを書いている理由でもある。(そして日々の生きるベースの価値観でもある)

ヨガでは身体感覚に気づいていく癖をつける練習をしているし、noteでは “どのように?なぜ?”という問う姿勢を常に保ちながら文章を書いている。


存分に享受するには “準備”が必要である。
だけれども、そもそもその準備こそまた楽しい。目的であって過程であるし、過程であって目的でもある。そんなことに気づいたらもっと楽しい。




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