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誰かの時間の中の私の時間。

こうやって文章を書いて公開するということは、少なからず誰かに時間を使ってもらいたいということで、誰かの時間に私が登場することを望んでいるのだと自覚する。

私はただ一人で自分の自分だけの時間で過ごすことがとても好きだけれど、

"誰かの時間の中で私の時間(私が登場している時間)”が増えることもとても好きである。

総じて “私の時間”が増えた気がするからだ。

とはいえ “誰かの中の私の時間” は、今ここにある私とは別の場所にある切り離されたものであり、そしてそもそもは他人の時間であるので、基本的には良い意味でどうでもいいとも思っている。

一番大切なのは、 “いかに今この身体がある場所での身体感覚を大事にしていくか”であり、 “やっぱり私の時間は私だけのものだ”とも強く感じたりする。


要は両方の時間が好きなのだ。


誰かの時間の中で自分の時間を増やしていくのが好きな人。
ただ一人で自分だけの時間を過ごすのが好きな人。


好みは人それぞれで、そこに良し悪しもないのだけれど、

個人的には後者がベースにあると時間を濃く生きる感覚は強いと思っている。

人の中の私の時間は、想像できても本当には体感できない。
でも、身体がある今この時間には体感が存在するからだ。


そしてそもそも両者は同時に存在したりする。自分に没頭していると、いつのまにか他者の時間の中に登場していたりといったように。


考え出すとキリがないし、要は今回の記事にオチはないってことなんだけれど、

それでも私は “誰かの中で増えていく私の時間”が自分の時間が増えていくようで好きなのだ。


で、もしも “誰かの中での私の時間を増やす”ことに遠慮しているなら遠慮を捨てた方がいいとも思っている(自戒)。

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