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日本文学を学んでいた私が、言語聴覚士に出会ったきっかけ

言語聴覚士として、
高齢者に元気な未来を届けている
八田理絵のこれまでのストーリーです。
(#1〜#6まであります。)
 

〜私の簡単なプロフィール〜
八田理絵(RieHatta)
富山県高岡市で生まれ育つ。次女。両親が共働きのため、祖父母に育てられた。大学から京都で1人暮らしを始める。現在は、静岡在住。2児の母。言語聴覚士というリハビリの仕事をしている。性格は、社交的。特技は早起き。好きなものは、ドラえもんとコーヒー。

言語聴覚士に出会うまで


高校生の時は、教育か福祉関係の仕事に就きたいという気持ちはあったが、将来、何になりたいかはまだよくわからなかった。ただ、ずっと「言葉」や「コミュニケーション」に興味があった私は、念願叶い、京都の大学で、日本文学や日本語教育を学ぶことになった。
 
大学2年生になって、いよいよ将来の事を真剣に考えないといけない思った時に、大学の図書館で、1冊の本のタイトルが目に飛び込んで来た。『言語聴覚士になるには』という本だった。

この本を手にした時、「これだ!」と思った。私の祖父は、脳梗塞で言葉が不自由であったため、同じように困っている人の役に立ちたいと思い、この時、図書館で、将来は「言語聴覚士」になろうと決めた。 

今から考えると、「言語聴覚士」が国家資格になったばかりのタイミングで、それで、このような本も出たのだと思う。富山県には、言語聴覚士の養成校ななく、私はこのような仕事があるのを知らなかった。インターネットもまだ始まったばかりの頃だ。
 
一方、本によると、言語聴覚士になるためには、今の大学では無理だということがわかった。他の大学に3年次編入をするか、卒業後に、もう一度大学か専門学校に入り直す必要があった。

そうこうしているうちに、大学生活が楽し過ぎて、あっという間に4年生になってしまった。のらりくらりと就職活動もしていたが、既に内心は進学をするつもりだった。ある時に、正直に、親に再度学校に行きたいと伝えた時には、猛反対にあった。

さすがの私も、やはり就職しなければなるまいと思った。そして、就職先は全く関係のない業界ではない方が良いと思い、大学病院の事務職として就職をした。この時に、既に私には、計画があった。2年間でお金を貯めて、専門学校に入り直そうと思ったのだ。
 

2年後、大卒2年課程の言語聴覚士の養成校「大阪リハビリテーション専門学校」(現:大阪保健医療大学)に進学した。毎日、京都から大阪に一時間かけて通った。子どもの頃から物覚えの悪い私は、勉強には相当苦労したが、先生や同級生の心強く温かいサポートがあったおかげで、この濃密な2年間を何とか乗り切る事ができた。


3回の臨床実習、国家試験を経て、2007年に無事に言語聴覚士になる事ができた。卒業後も、困った時には相談に乗ってもらえる母校に今もとても感謝している。
 

次回からは、私の臨床の経験を何回かに分けて書こうと思う。

(第2回に続く)


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