ブラウワーの不動点定理の話

 前回、『数理経済学の方法』のレビューを投稿したところ、ツイッターで第九章読みたいなーと言っている人を見つけた。
 第九章……いや、正直第九章に限定するなら、『経済数学』の第五章と第六章の方がいいんじゃないかな……と思いつつ、ぼそっと「ブラウワーの不動点定理について記事書いた方がいいかな」みたいなことをつぶやいたら、イイネがついてしまったので、諦めて書きます。
 まあでも、僕のこの定理に対する態度はわりと冷めてるのよね……「なんだかわからんけど使えるから使っとこう」的な。実はこの定理に対する態度にはかなりの温度差があって、経済学者でも大好きな人がいる一方で嫌う人はとことん嫌う。面白いのは、ブラウワー自身がこの定理を嫌っていたらしいことなんだけど(!)、とにかく人による好き嫌いが激しすぎるので、論争に巻き込まれないようおとなしくしとこ……という感じ。こういうのも処世術である。大人ってずるい!
 そんなわけでずるいすたりむのずるいなりの知識を披露するのがこの記事です。だいたい「歴史」「同値性」「応用」について語ればいいかなあ。


ブラウワーとヒルベルト

 ブラウワーの不動点定理について語る前に、ブラウワー自身についてちょっと語っておきたい。まあとりあえずこういうときはwikipedia見るかな、ということで日本語の記事をぺたり。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%92%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%AF%E3%83%BC

 はい、見ればわかりますね。記事の内容、うっす!
 というわけで英語版を見よう。英語が苦手な人はDeepLを使って読むといい。ぺたり。

https://en.wikipedia.org/wiki/L._E._J._Brouwer

 こんなに情報量が違ってていいんですかって感じ。
 まあしかし、ともかくざっと上の英語版記事を見てもらいたい。「すげえ変な奴だ」ということがわかると思う。ただ、専門用語も多めでわかりにくいので、まずLaw of Excluded Middle、つまり排中律の話をしよう。これは簡単に言うと、「AまたはAでない」という命題を論理の中で無条件で使ってよいという考え方のことである。もうちょっと言うと、この話はヒルベルトが作った命題論理の三公準の3番目、

(A⇒B)⇒((¬A⇒B)⇒B)

と関係している。ヒルベルトは三公準からなる論理は完全性を満たす、つまり恒等的に真なる命題はすべて証明可能であることを示したが、ここで扱われている上の公準を、命題Bを次の問題として適用することを考えてみる。

B:「a^bが有理数となる無理数a,bのペアが存在する」

 さて、これを議論するために、Aを次の命題としよう。

A:「√2の√2乗は有理数である」

 もしAが正しければ、a=b=√2としてBは正しいことがわかる。Aが正しくなければ、aは√2の√2乗とし、bを√2とすれば、やはりBは正しいことがわかる。したがってどちらにせよBは正しい。
 もうおわかりだろう。この考え方の前提にあるのは上で挙げたヒルベルトの公準である。そして、ブラウワーはこのような証明を嫌った。彼に言わせれば、Bを証明するときには、Bで出てくるa,bがなんであるかが特定できる証明が作られなければならないのである。この考え方は大論争を引き起こし、結果としてヒルベルトの方が支持者が多かったことで、ブラウワーの考え方はマイナーな話となって数学の分野ではあまり顧みられなくなっていくのだが、ブラウワーはこのように、数学の命題は明示的に結果を構成できるものだけを扱わなければならないという信念を持っていたようである。この信念はいまでは形を少し変えて、直観主義論理という名前で論理学の中に残っている。(なお、現在は上のAが偽であることがわかっているが、これは1930年代の結果だったと記憶している)
 さて、ブラウワーの不動点定理を見てみよう。これは不動点、つまりf(x)=xとなるxの「存在」定理であるが、存在する不動点がどこなのかについての情報がどこにもない。実際、ブラウワーの不動点定理で存在が保証された不動点を計算するためにどうすればよいかという問題はけっこう深刻で、たいていの場合は計算できない。ブラウワーがこの定理を嫌ったという逸話が流れているのも、上の哲学的立場を念頭に置くと一定の理解ができる。
 ただし、ブラウワーとヒルベルトの論争については一応の追加説明が必要である。まず、ブラウワーがこの直観主義の考え方を議論しだした時代、まだ計算可能性問題は存在していなかった。現代の計算機科学では、effectively computableという言葉でもって、自然数から自然数への関数fが「nを与えたときにf(n)を計算する手続きがある」ことを表す。この言い方は数学的に厳密なものではなく、どちらかというと理想的な関数とはなにかを表す用語だが、チューリングとチャーチがそれぞれ、「チューリングマシンで計算可能」「再帰的という条件を満たす」という、数学的に定義された「計算する手続きがある」関数のクラスを提唱しており、これらは後に同値であることがわかっている。現在の数学者はチューリングマシンで計算可能、あるいは再帰的であることが``effectively computable''という観念の数学的表現だということでだいたい意見の一致を見ているが、ブラウワーとヒルベルトの論争(1920年代)よりずっと後になって出てきた概念なので、ブラウワーはこの話を知らないままヒルベルトと言い争っていた。それどころか、述語論理で命題論理と同様の完全性を示したゲーデルの完全性定理すら、彼は知らなかったのである。最初からこれらを知っていたら、ブラウワーはもうちょっと別の議論をしていたのかもしれない。しかしそれは仮定の話でしかないので、誰にもわからない。

不動点定理

 さて、不動点定理について話をしよう。不動点定理として知られている定理で有名なのには3つあって、それぞれバナッハ、タルスキ、ブラウワーが証明したことがわかっている。バナッハが証明したものは彼の名前ではあまり呼ばれず、「縮小写像の不動点定理」という別の名前で呼ばれる。この不動点定理は完備距離空間で用いることができ、不動点は一つしかなく、しかも不動点への近似列が自動的に得られるという、えらく使いやすい定理である。タルスキの不動点定理は束(lattice)の理論と関係していて、ある種の順序の性質から不動点性を証明するものだが、不動点集合が完備束になるという性質があって、ときどき応用が存在する。ブラウワーの不動点定理はそれに対して、対象となる空間はユークリッド空間の単位球、不動点は「ある」ことだけしか証明されない。ある意味、空間の仮定は最もきつく、不動点の情報は最も薄いのがブラウワーの不動点定理である。
 しかし、他の不動点定理と異なり、ブラウワーの不動点定理で必要とされる関数の性質は連続性だけである。これが、ブラウワーの不動点定理が特異な点である。縮小写像の不動点定理は関数の性質がかなりきつくて適用できないことが多い。またタルスキの不動点定理は単調性が必要で、これがまたきつい制約になっている。しかしブラウワーの不動点定理は、連続性しか仮定していないので、非常に多くの関数への適用可能性を持つ。この辺が、ブラウワー自身が嫌いながらも、ブラウワーの不動点定理が数学的に重要だと見なされるようになった理由だと思われる。
 ブラウワーの不動点定理は、中間値の定理の一般化と見なすことができる。実際、一次元の問題を考え、I=[-1,1]とする。f:I→Iは連続であるとしよう。このとき、

g(x)=f(x)-x

と定義すると、g(x)=0となる点がfの不動点である。仮定からg(-1)≧0であり、かつg(1)≦0なので、中間値の定理はブラウワーの不動点定理と「同値」であることがわかる(同値という言葉の意味は後でもう少し詳しく書く)。では中間値の定理はブラウワーの不動点定理と同レベルの難易度の定理なのか、ということになると、これはそういうわけではない。なぜなら、そもそも一次元の単位球Iにおいては、境界が連結集合にならない。したがってレトラクションの非存在定理はほぼ自明であり、そこから容易にブラウワーの不動点定理が導かれるため、そもそもブラウワーの不動点定理自体が一次元ではめちゃくちゃ簡単な定理なのである。逆に言うと、ブラウワーの不動点定理が真に難しい定理になるのは二次元以上、ということになる。(ポアンカレ=ミランダの定理という二次元以上の中間値の定理があるらしいが、僕はあまり詳しくない)
 なお、僕は証明までは追っていないが、「単位球が不動点性を持つバナッハ空間は有限次元である」という定理があるらしい。おそらくこれは無限次元バナッハ空間では単位球が強位相でコンパクトにならないからだと思われる(コンパクトであれば、シャウダーの不動点定理から不動点性が証明できる)。

同値という言葉

 ブラウワーの不動点定理は、そのままだと単位球にしか適用できない定理であり、たいして魅力的ではないように見えるかもしれない。しかし実のところ、ブラウワーの不動点定理にはそれと「同値」な命題がたくさんあり、それによってこの定理は価値を高めている。
 ただし、「同値」という言葉に注意が必要である。実のところ、数学で同値という言葉にはいくつかのバリエーションがあって、それらは同じ意味ではない。しばしばこれについての混同が見られるので、ここではそれを指摘するところから始めたい。
 同値という言葉には、以下のような使い方がある。

1)Aが正しいならばBも正しく、Bが正しいならばAも正しいとき、AとBは同値であると言う。

 この「同値」が数学で最もフォーマルなものである。例としては、「有理数であることと、小数展開したときに有限小数あるいは循環小数として表せることは同値である」といった言い方が挙げられる。

2)Aという命題が成り立つ世界と、Bという命題が成り立つ世界は同一である。

 ここで「世界」という用語を用いたのは、ちょっとぼかしたかったからで、具体例としては「位相空間」とか「距離空間」などが入る。たとえば「可算個の稠密集合がある距離空間と、可算個の基底を有する距離空間は同一である」という命題を、「距離空間において可分性と第二可算公理は同値である」と表したりする。他の言い方としては、「線形位相空間においてハーン=バナッハの定理と凸集合の分離定理は同値である」というのもある。どちらも、「Aが成り立つならばBも成り立ち、Bが成り立つならばAも成り立つ」というのを同値と呼んでいるという点で、1)との差はそれほどない。ただし、「世界」が限定されている点が1)との違いである。

3)Aという命題からBという命題を証明する簡単な方法、及びBという命題からAという命題を証明する簡単な方法が知られている。

 これが問題になる言い方である。通常、ここから確かに、「Aが成り立つならばBも成り立ち、Bが成り立つならばAも成り立つ」という結果は証明できる。実際、この意味で「リーマン予想と同値」な命題はいくつも知られている。この場合にこの言い方に意味がある理由は、リーマン予想自体が正しいかどうかがまだわかっていないからである。もしAという命題がすでに証明されているならば、それは常に真であるため、同じく常に真であるあらゆる命題と1)の意味で同値である。したがってたとえば、ブラウワーの不動点定理は、円周率が3以上であることと1)の意味で同値である。この意味では「同値」という言葉はほとんどなんの意味も持たない。しかし3)の意味では、このふたつは「同値」とは判定されない。なぜなら円周率が3以上であることからブラウワーの不動点定理を証明する簡単な方法は知られていないからである。
 ブラウワーの不動点定理については、よく言われるのが「スペルナーの補題、クナスター=クラトフスキー=マズルキーヴィッチの定理、ブラウワーの不動点定理は互いに同値である」という言明である。1)の意味では、この同値性は自明である。なぜならそれぞれが互いに独立して証明されているから、すべて正しい命題であり、したがって上で述べたように当然同値である。しかし上の文面は通常このように解釈されない。むしろ、3)の意味で「同値」という言葉を解釈して初めて、上の文章には意味が生じる。つまり、スペルナーの補題からブラウワーの不動点定理を証明したり、ブラウワーの不動点定理からKKM定理を証明したりすることが簡単にできるので、これらは「同値」だと呼ばれているのである。似たような言い方に、「逆関数定理は陰関数定理と同値である」というのもあるが、これも同様である。
 さて、そうすると疑問に思うのは、3)と1)があまりに違う意味であることである。普通に考えて、命題論理の意味での「同値」という言葉は1)であり、3)はそこからかけ離れた意味であるように見える。なぜ3)を「同値」と呼ぶのだろうか? いくつかの可能性があるが、僕の考えるのは2)との類似である。1)と2)は明らかに似ている。一方で、3)は場合によっては2)と同様に捉えられる可能性がある。つまり、たとえば公理的集合論の体系を持ってきたときに、「ブラウワーの不動点定理を証明できる体系ならばスペルナーの補題も証明でき、逆にスペルナーの補題が証明できる体系ならばブラウワーの不動点定理も証明できる」というのであれば、3)の考え方は実は2)を扱っていたことになる。ここでは「世界」というのに集合論の公理が該当するわけだ。この意味で議論しているとすれば実は3)は2)であるということになる。しかし、僕が思うに、3)の意味で「同値」の語を使っている人間が2)を意識しているとはあまり思えないため、どうしても我田引水感を拭えない。なので、ここでは「1)と2)はある程度似ていて、3)は2)とある程度似ているので、1)と3)が同じ「同値」という言葉で表されるようになったのではないか」という推測を述べるにとどめておく。

拡張命題や同値命題

 さて、そういうわけで3)の意味で「同値」という言葉を考えると、ブラウワーの不動点定理はブラウダーの不動点定理と同値である(ブラウダーの不動点定理自体が複数あるっぽいので、丸山先生の本を参照して欲しい)。一方で、ブラウダーの不動点定理から角谷の不動点定理を証明する、それほど難しくない方法が知られている。角谷の不動点定理は明らかにシャウダーの不動点定理より強く、シャウダーの不動点定理はブラウワーの不動点定理を含意するので、「ブラウワー、ブラウダー、角谷、シャウダーの不動点定理はすべて同値」という結論を得る。
 注意して欲しいのは、これらの四定理はすべて独立に証明されたということである。ブラウワーの不動点定理は1908年に証明された……はず。たしか。ブラウダーの不動点定理は、丸山先生の本の参考文献を見ると、1968年に証明されている。角谷の不動点定理は1941年出版であるが、専門家レベルではこれはvon Neumannが1937年に実質的に証明していたことが知られている。シャウダーの不動点定理は1930年。これらが統一的に議論できることがいつ発見されたのかは知られていない。丸山先生に誰がこれやったんですかと聞いたら、「わからない。俺かも」みたいなことを言っていたので、実は丸山一派にのみ伝わる秘伝の可能性がなきにしもあらず、である。
 他の話としては、宇沢先生が1962年に、「競争均衡の存在定理とブラウワーの不動点定理は同値である」という定理を発表していると聞いたことがある。さらには、「ナッシュ均衡の存在定理とブラウワーの不動点定理は同値である」「ゲール=二階堂の補題とブラウワーの不動点定理は同値である」という結果についても、噂に聞いたことがある。でもこれらがどこで証明されているかは知らない。浦井先生のfixed points and economic equilibriaだったら載ってるかな……?
 まあともかく、3)の意味での同値命題はめちゃんこたくさんあるのがブラウワーの不動点定理の特徴なのだ。だからこの定理は重要視されているし、未だに使われているのである。

応用

 応用上、この定理は「なんだかわからんがとりあえず不動点があることを示したい」という場合にのみ使われる。したがって、不動点を計算できるかどうかについては、ほとんど議論されない。スメールが議論したグローバルニュートン法というのは均衡価格を近似計算する方法であるが、なぜそんなものが必要だったかと言えば、均衡価格の存在はブラウワーの不動点定理で証明されるため、どこにあるかさっぱりわからないからである。
 僕が使った経験だと、微分方程式の解の存在定理にシャウダーの不動点定理を使ったことがある……くらいかなあ。存在しか言えない。解がいくつあるかもわからないし、そのうち一つでいいから近似解を求めようとしても無理。どういう条件で使ったかというと、稲田条件を満たすマクロ動学モデルで、背理法の中で、資本蓄積過程k(t)が時刻Tで0になったとき、そこから先どうなるかを計算するために、とりあえずさらに伸ばせることを示すために使った。背理法の中なので、実際にはそんな過程は存在せず、だから計算できなくてもよかったのである。だいたいこんな使い方が多い気がするな、というのが僕の感想。つまり、計算できなくてもいいときにしか使えないわけで、だから計算できるかどうかを重視する一派には嫌われている。ブラウワーも実は、案外この辺が気に入らなかったんじゃないかな。
 まとめてみてわかったけど、この定理、ホントめんどくさい周辺事情が多いなあ……という感想で、終わり。だいぶ長い記事になったね!

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