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格闘した思考の跡をたどって

極力人の目に触れさせずに墓場まで持っていきたいものは、誰しもひとつやふたつ持っているのだろうと思う。

僕にとってのそれは、中二病的世界観で構成された詩集でもなければ、初めてのデートプランを書き留めたノートでもない。
そんなものを作った記憶もないが、仮に見つかっても「昔のこと」と一笑に付し、二日間寝込む程度のダメージで済ます自信がある。

「卒業論文」。

大学全入時代と呼ばれて久しい現代において、多くの人々が苦しめられたであろう卒業論文。
真面目に学問を探求した者の集大成として、または遊び呆けていた者の「何かしら勉強しました」というアリバイとして、学部学科を問わず多くの学生が課されたであろう卒業論文。
しかし、僕の偏見に満ちた見解ではあるが、大学を卒業した社会人の多くは論文の完成及び単位の認定とともに、論文と向き合ったあの苦しみに満ちた記憶とはきれいさっぱりオサラバして、「卒業論文を書いた」という事実だけを頭の片隅に残しているように思う。

僕はというと、学生時代の卒論のことなど、数日前まで頭の片隅にすら残っていなかった。
「残っていなかった」というよりも「残さないようにしていた」といったほうが適切かもしれない。
完成した論文のファイルを添付して送ったメールは、単位が認定されてしばらくしてから消してしまった。なぜそんなことをしたのかは思い出せないけれど、深く考えず自然とそうしていたような気もする。
卒業後の引っ越しのドタバタで、卒論を保存していたUSBも紛失してしまった。失くしたと気づいたときは、惜しいことをしたような気持ちになったけれど、どこかほっとしたことを覚えている。

とにかく、僕と僕が記した卒業論文との関係は物理的に消滅した、はずだった。

何年かに一度、無性にメールの整理をしたくなることがある。
その日も、思い立ったが吉日とばかりにメールの整理をしていた。
大切なメール、そうでないメール、今も親交がある人からのメール、そうでないメール。
今はあまり使っていないメールアドレス、送信済みフォルダの整理に取り掛かってしばらくしてから、それを見つけた。
完成ふた月前の卒論のファイルが添付された、先生宛進捗報告のメール。
中学校の卒業アルバムを見つけたときのような気持ちになって、そのファイルを開けてみた。

一通り読み終わって、なぜあのとき送信したメールを消したのかわかったような気がした。

テーマは孤独死。その時の僕は、自分でもなぜそう感じていたのかはっきりとは思い出せないのだけれど、とにかく独りで死ぬことが嫌なようだった。
論文の中では、「孤独であること」と「孤独に死ぬ」ことの違いだとか、「人間にとっての死」とは何かということを論じていたが、フラットな頭で見てみると、なんと稚拙な論文だろうかと思う。
研究手法もその課題を明らかにするために適切とは言えないし、狭い視野でしか先行研究を探すことが出来ていないために考察にまったく深みが出ていないように思える。
当時の自分も、自分の力不足を痛感したのだ。「もっといい論文にできたのに」とひどく悔しかったのかもしれない。遊び呆けて過ぎた戻らない4年間を思ってやりきれなくもなっただろう。
自分の至らない思考を直視すること、ましてそれが自分の手元に(メールという形で)残り続けることが耐えられなかったのだと思う。

しかし、今になって論文を見返してみると、理屈ではないところで抱いている問題意識を、なんとか学問的意義のある問題提起にしようと奮闘しているところに、僕自身が考えた痕跡が見えて愛おしく思えてしまう。
学生時代、主体的に思考してこなかったことを後悔してきた。けれど、この論文からは、他の大多数のレポート、ライティング課題でしてきたような、借りてきたようなそれっぽい考えだとか表現はほとんど見られなかった。
研究手法の理解のなさ、考察の浅さ、稚拙な表現、ふらついた着地点。ダメなところを挙げればきりがないけれど、借り物ではない自分の論文だったところだけは評価できるのではないだろうか。

模範的な学生からすれば当然のことかもしれないけれど、もがき苦しみ格闘しながら思考して自分と向き合ったこと、大学生活でそれが出来た期間が一瞬でもあったことが僕にとっては財産だったのだと気づいた。

とはいえ、あれから少し大人になり、「孤独」だとか「死」についての自分の考えも変わってきた。当時の自分を否定する気は毛頭ないのだが、僕以外の誰かに論文を発掘されて一通り目を通されてしまったら、恥ずかしいやら情けないやら、ばつが悪くて本当に死んでしまいそうだ。
自分が苦しみながらひねり出した思考、それ自体恥ずかしいものなのに、他人もそれが容易にトレースできるという点で、文章というものはなかなかたちが悪いなぁと思う。

自分の思考を愛おしく思えるようになったことは喜ばしいが、死ぬ前に論文のデータだけは破棄しておこうと改めて決心した。


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