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エペソ人への手紙2章11〜22節 契約を守ってくださる神11 「それは隔ての壁ではないですか?」 2022.10.16 守谷キリスト教会礼拝

エペソ人への手紙の著者がこの2章を書いた時、
一つのイメージを重ねていました。

それはエルサレムにあった神殿の内部構造です。

当時の神殿とは、
紀元前1世紀にヘロデ大王が増改修した神殿です。

この神殿は、
かつてのモーセの幕屋やソロモンの神殿とは
構造が異なりました。

一つの特徴は、神殿の庭をいくつかの区域に分けたことです。

一番外側から内側に向かって、
「異邦人の庭」、
「ユダヤ人女性の庭」、
「ユダヤ人男性の庭」、
そして「聖所」、「至聖所」となります。

その名称の通り、人種と性別によって入って良い場所が分けられたのです。

異邦人は一番外側の
「異邦人の庭」までしか入ることは許されませんでした。


そうした区分けを、
エペソ人への手紙では、「隔ての壁である敵意」と断じています。

ユダヤ人は地上のあらゆる民族の祝福のために、
神によって選ばれた民族です。

しかしそこにも罪が入ってきました。

彼らに植え付けられた優越意識と高慢さが、
神殿の庭の「隔ての壁」として表現されていたのです。

イエスはこの隔ての壁を打ちこわし、
遠く(異邦人の庭)にいる者たちにも
近く(ユダヤ人の庭)にいる人たちにも
平和を宣言されました。

その結果、
異邦人もユダヤ人も一つとなって
父の御前(至聖所)へと進むことができるのです。

これがイエスの契約による祝福です。

 いつの間にか
「隔ての壁」を設けてしまっていることが、
私たちにもあります。

「信仰的」と考えられる習慣や価値観、文化、そして恵みの手段が、

まだ信仰を持っていない人にとっての

「隔ての壁」に

なってしまうことがあるのです。


恵みの手段について無頓着であるなら、
教会の塩味は世と混ざり合って薄まってしまいます。

しかし一方で、
十字架によってなされたことを無視するようにして、
隔ての壁を自分達で築き直して、
まだ神を知らない人にその壁を乗り越えることを
私たちも気がつかないうちに求めてしまっていることがあるのです。

私たちは隔ての壁を乗り越えた結果、
福音を聞くことができるのでしょうか。

それとも、
福音を聞いた結果、
互いの間に隔ての壁となるような習慣や主義が打ち壊され、
変えられるのでしょうか。


私たちのうちに無意識に積み上げられた隔ての壁、敵意はありますか?

十字架によって、
それらは滅ぼされたことを今日も宣言しましょう。

かつて、ユダヤ人たちが異邦人のために隔ての壁を取り除いたように、

イエスの契約に応答して隔ての壁を取り除くのは、
福音を携える側、伝える側です。

私たちには、
新約の使徒と旧約の預言者、そして要の石としてのイエスという、
堅固な土台があります。

この大きく豊かな恵みに立って、
大胆に自由に、互いに愛し合い、変えられ続け、組み合わせられていくのです。

本日の説教を振り返るために

① 自分の「信仰的」な習慣、考え方の中で、まだ神を知らない他者にとって隔ての壁になっているかもしれないと思われるようなものはありますか?


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