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「真紅のシャンパン・シャワー」

凍った星をグラスに。

最近、木星で流行しているバーカウンターでの挨拶だ。先週公開された映画「グレイスグラス・グレイ」というサスペンス作品の中で、主人公の暗殺者が馴染みのバーテンダーと交わし合う秘密の暗号文。

「内通者がいる、始末をしに来た」という意味で、その数分後に店内が真紅の血濡れに化すワンシーンへと続く。

前評判通り、なかなか良かった作品だったな。サービスデイに観るなら、安上がりだ。いつも思うけど、アクションシーンでボロボロになった飲み屋や飲食店、あの保証や弁償金はどこから出ているんだろう。作中で観せられる事はほぼない。


そう言えば今でこそ、仕事上のパートナーとして組んでいるアルジュナ・ミズラヒとは、もう付き合いが20年近い友達になる。彼と特別な仲間になったきっかけも、一杯のアルコールからだった。

今だから話せるけど、彼にお酒をぶっかけちゃった事があるんだよね。今日はその話をしよう。


私が通っていた学校は、地球で数百年の歴史を持つ私立の全寮制で、中等部と高等部は中央都市から離れた、英国の田園風景を眺められる丘陵地帯に広大な敷地を誇っていた。

都心には幼稚舎と小等部もあって、通学しているのはほとんどが地球と太陽系コロニー出身の、裕福層の子供たち。余程の赤点を取らない限りは、エスカレーターで高等部まで進学できる。

ただし、中等部からは全校生徒の成績順に名前が長廊下に張り出されるので、誰がトップかドベっ子か、一目瞭然だ。だからみんな、最低でも平均点を取れるくらいには頑張って勉強していた。恥ずかしいからね、やっぱり。

ランキング10位以内の常連メンバーは、オックスフォードやケンブリッジ、ハーバードとかイエール、プリンストンあたりに進学していたはず。会ってはいないけど、ホワイトハウスの広報局長補佐や、国連の事務次官、地球連邦捜査局副長官として時々テレビで顔出ししている。ロースクールを出て弁護士や検事の資格を取った同期の卒業生。

学園の制服はクラシカルなデザインで、中世の法曹士みたいな漆黒のロングローブを羽織るのが正装。ネクタイの結び方が独特で、これが結構難しい。そして学年主席に君臨する生徒のみに、深い紫色のベスト着用が許されていた。


私は出自の都合で、本来なら小等部四年クラスの八歳なのに、みんなより二年遅れの特別学級に編入していた。その頃、まだ字の読み書きや言葉の発声に問題を抱えていたから。その辺は、語れる時にまた話すので端折ることにする。

なんとか勉強が追いついて、普通クラスに入れたのが中等部からだった。全寮制システムということもあって、義父は不安で仕方なかったみたいだ。家庭教師をつけて屋敷で暮らし続けさせようか、かなり迷ったようだけど、入学してすぐ校風に慣れた私に安心したらしい。それからまた、軍の仕事で慌ただしく星間演習や地球遠征へと長期に出掛けていった。


学校は楽しい事もあれば、まあ色々。貴族や大企業の子供達が大勢集まれば、それは様々な問題も起こる。私は義父や義祖父の存在が大き過ぎて、逆にいじめっ子チームからは敬遠されていた。

アウトドアが苦手だしスポーツにも興味がなかったので、インドア派の仲間とばかり遊んでいたし、今も親交がある。ただ高等部からは乗馬が好きになって、そこそこハマったけどね。五輪の出場騎手に選ばれたりもしたんだよ。


アルジュナが高等部に編入してきたのは彼と私が15歳の時で、在校している全生徒の誰よりもダントツの成績優秀者だった。侯爵位を継ぐ御曹司で、ヒョロリと細いが183cmの長身。不思議な雰囲気を漂わせる、アングロサクソン系IQ250のハンサム。「DNAデザイン・ベイビーのプリンス」に思春期の仲間は湧き上がったし、特に年下のクラスには非公認のファンクラブまで出来上がっていたっけ。

紫のベストを着用して校内でたくさんの支援者に囲まれていた彼だけど、度々喫煙と校則違反で呼び出されていた。本当かどうか分からないが、女性教師と淫らな行為をしたとか、外泊許可を取り街のホテルでコールガールを買っていたとか。実家のメイドを二人も妊娠させたなんて噂もあったな。


そんな感じで、地味な私とは正反対な青春を送っていた彼だから、接点はまず無かった。ただ嬉しかったのは、すれ違ったり遠目で視線が合ったりすると、必ず「やあ、ウレエラ。ご機嫌いかが?」と話しかけてくれる事だ。

「ウレエラってなんだ?」ってずっと疑問だった。どうやら「憂」を彼流にアレンジして呼んでいたらしい。「ウレイ」って欧米圏の人には特に難しいよね。それからずっと、私は彼の中で「ウレエラ」だ。

挨拶するとは言っても、彼に熱を上げているクラスメイトや後輩にいつもガードされているから、私も距離を挟んで「やあ、元気だよ。ありがとう」と笑って応える、いつもそれだけ。

一度だけ彼とまともに会話をしたのは、高等部一年の時。図書委員の仕事で早くに教室へ入ると、アルジュナが珍しく一人で、ポツンと一番前の席に座っていた。背が高いから彼がそこにいるとなんだか面白くて。

「おはよう」
「やあ、ウレエラ。ご機嫌いかが?」
「寝不足で怠い感じ。アルジュナが一人きりなんて初めて見たよ」
「そりゃあ、僕だって孤独を満喫したい朝もあるさ。ああ、これ好きかい?」

紫色のベストの奥、細くて長い指を差し入れたと思ったら、リボンに包まれた華やかな包み箱が出てきた。

「お菓子?」
「いつもくれる子がいてね。ラム酒のケーキバーだ」
「いいの?」
「どうぞ、召し上がれ」

綺麗なのに勿体ないねとリボンを解くと、彼は静かに微笑んだ。実家にいた頃は馴染みだった懐かしい柄の包装紙を剥がし、透明プラスチックの容器に指を添えて香りを楽しむ。

「フォートナム&メイソンのバレンタインケーキかな」
「そうだね」
「いただきます」

もくもくと咀嚼する私を、「デザイン・ベイビーのプリンス」は静かに眺めていた。優秀な遺伝を掛け合わせて人工授精された彼らは、2240年代にはほとんどの先進国人口を圧倒的に占めているが、生殖能力が低く深刻な社会問題になっている。

「久しぶりに食べたら、やっぱり美味しいね。休みにハロッズ行こうかな」
「親父さんに頼めば、百本くらいすぐ送ってくれるだろうさ」
「ふふ、そうだけど。売り場でラッピングしてもらうのが楽しいんだよね」
「なるほど」

それから、ポツポツと自分達の家族やこの学園に入るまでの話なんかをした。アルジュナはミズラヒ侯爵家の長男だけど、お姉さんが四人もいること。「若草物語みたいだ」と言うと「そんな可憐な連中じゃない。我が一族の四天王だよ」とのこと。待望の男子だから、実家からのプレッシャーが疎ましいらしい。

社交界において「ツタンカーメン家の養子」については有名なので、彼には私の出生の説明を省いて、義父とその乳兄弟である家令のことを語った。今も時々、三人で海の別荘に数日宿泊する私達のエピソードに、「君は、とても愛されて育った子なんだねえ」とアルジュナは淡く笑った。

「ウレエラ、一緒の記念撮影をしてもいいかな?」
「全然いいけど、今?」
「多分、僕は卒業式には出られそうもないんでね」

初めて軽く肩を抱かれて、ツーショットを自撮り。その場でデータを共有してくれたので、十代の二人での貴重な一枚だ。

学生時代に話したのは、それきり。

そのうち、アルジュナは二年スキップしてMITに入学。スクールカーストに支配された楽園から一人、先に飛び立っていった。そのまま大学院に進んで機械工学と物理学の博士号を取り、若き天才と呼称されていると知ったのは、「ニューズウィーク」の表紙を見てから。私は地球のオックスフォード・カレッジを卒業して、星間飛行隊の内定を受けていた。22歳の春だ。


その日は偶然、テスト・ライディングのシフトが空いていて、久しぶりに地球へ降下してみるかと、行く予定は無かったのにドバイの「空中宮殿」と呼ばれる、地上100階建てのセレスティア・タワーへ出かけた。かつての学園の同窓会があったから。もし翌日に仕事があれば、向かわなかったと思う。


「水晶の塔」と別名を持つガラス張りの超高層ビルで、持ち主はサイボーグ企業「セディア」のCEOだ。高軌道エレベーターに乗ればそのまま、月面基地に移動も可能。セレブ層が結婚式や式典に使うステイタスとしていた建造物だ。そこに入ってみたい興味もあったから。

さすがに軍服は目立つし、プライベートだから実家に一度寄って、コム・デ・ギャルソンのアイボリーレースブラウスと、黒のロングパンツをクローゼットから引っ張り出した。靴は少しだけヒールのある、ワンストラップのマリ・クレール。

義郎がプライベート・ジェットを呼んでくれたので現地に飛び、空港のロビーにはリムジンのアンドロイド運転手が待機していた。ドバイに降り立つのは二度目、15歳の夏休みに家族三人で観光に来た以来。砂漠化はこの百年も進んでいるらしいが、巨額の支援対策でなんとか現状維持されていると聞く。

着飾ったハイブリッド貴族の男女が入れ違うタワーに到着し、招待状をロボ・ドアマンに差し出す。「ツタンカーメン卿、ようこそおいでくださいました」とガラス張りのエレベーターへ案内される。主催者の好みが分かる無機質な建築デザインだ。デザイン・ベイビーのアッパークラスは、ヒューマノイド以外を差別する傾向が強いので、配合種ビーストのスタッフは一人もいなかった。


90階の重い両開きのドアが開いた途端に、アルコールと香水と、それに酔った大勢の熱気にむせ返りそうになる。木星の静かな空域で数ヶ月、孤独なテスト・パイロット業務に明け暮れていた身には、あの圧倒してくる派手な生命力は正直、堪えた。

最新型ウェイトレス・アンドロイドK:180が差し出してくれたロゼのシャンパンをちびちび啜りながら、周囲を見回したけど、みんな大人になって顔立ちも変わっているし、パーティー仕様の服装だし、誰が誰だかさっぱりだ。シリコン整形で性別や骨格を変化させている可能性も高い。


四階分吹き抜けているフロアに、いた。アルジュナ・ジェラデエック・ミズラヒは、私にはほとんど学生時代のままに見えた。相変わらず大勢の男女に囲まれているオレンジ色の肩までのウェーブ・ヘア。痩せた面長に高い鷲鼻、青白い皮膚に彫りの深いまなじり、アクアブルーの瞳。優雅な長い四肢をゆったり寛がせる歩き方、つま先が尖ったワニ皮のショートブーツ。そしてこんな見事に着こなせる人がいるのかと思うほどの、エルメスの真っ白なエナメルスーツが光る。


孔雀や熱帯魚を思わせるドレスやオーダー・スーツ姿の大勢の中から、彼が昔と変わらず私を見つけたのが分かった。いつも不思議だけど、小柄な私をよく見つけられるなあ。服装も地味なのに。

「やあ、ウレエラ! ご機嫌いかが? 元気かい?」

懐かしい挨拶と声のままゆっくりと私に向かって歩いてくる彼に、気を引きたかったんだろう女性達が、後ろから一気に雪崩れ込んで私の背中が圧迫される。

「ヒールの靴はやめておけば良かったかな」

今更遅い後悔をした自然受胎児である私と、ハイブリッド・デザインベイビーである彼女達とでは、あちらの方がずっと身長も体格も逞しい。「わあ」「ああ」とたたらを不安定に踏むまま倒れ込むと、大理石の床へ直撃する直前に誰かに強い力で腕を支えてもらった。

「大丈夫かい?」
「ああ、ごめん。ありがとう」

お礼を最後まで告げられたか、思い出せない。目の前には真っ赤なシャンパンに濡れた純白のスーツ。そして自分の手元には、すっかり空になったフルート・グラス。

頭の中が真っ白になるとか、さあっと血が引くとか表現がよくあるけど、あれは本当だ。足の先まで一気に血液が収縮したのが分かった。今まで興奮状態だったアルジュナのファン達も鎮まりかえる。生演奏のバンドミュージックだけが、健気に会場をなんとか盛り下げないように流れ続けていた。

弁償、という言葉が頭の中でひたすら回転したけど、だってどうする? こんな場所にブランド・ショップなんかないし。自分の服を貸そうにもサイズが縦に笑っちゃうほど違う。土下座か、切腹か、と思考が現実逃避を始めた時。


「よし、帰ろう」


軽やかにそう宣言したアルジュナは、私の背中を包み込むようにスタスタ歩き出した。私はまだ「思考回路はショート寸前」なショック状態から立ち直れず、ほとんど引き摺られるままに、ガラス張りのエレベーターへ運ばれる。そのドアがゆっくり閉まっていく途中で向こうに見えたのは、唖然とするアルジュナのファンの顔、顔、顔。


「それでは皆の衆、僕はこれにて」

騎士さながらに、大きく右手を胸に引きつつお辞儀をした元クラスメイトは、透明な箱が音もなく降下し始めると、「はあ〜!」と大きく息を吐き出した。


「ア、アルジュナ、スーツをすまない。どうしよう、どこかにお店ってあるかな」

独特の気圧で降下していくエレベーターの中、慌てた私に彼はずっと変わらない微笑みを向けた。

「やれやれ助けられたよ、もう腹が減って限界だ。ウレエラは? 地球には今日来たのかい?」
「そうだけど、これどうしよう。ホテルに行けばクリーニングしてもらえるかな」
「ああ、そうね」

今、気がついたと視線を下すとアルジュナはおもむろに上着を脱ぎ、エレベーターから降りたらそのまま、ロビーを直進してダストボックスにそれを投げ込む。

「ちょっと!」
「酒と香水の匂いがベッタリで、どうせもう着られないよ」
「ええええ〜」
「ウレエラ、お前さん何かアレルギーや食べ物の好き嫌いは?」

長身のゲストが軽く手を挙げると、正面玄関に漆黒のコルベットが流れ止まる。ガル・ウィングが開き、そのままナビシートに誘われた。獣皮とうっすら残るタバコの匂い。

「ないよ、何もないけど、あの上着……」
「それじゃあ、ラーメン食いに行こう」
「んん!?」
「豚骨だけど臭みのない、自家製麺の人気店だ。空港に近いから帰りも便利だよ」

池袋に本店があるらしいそのラーメン店には、晩ごはんタイムを過ぎたからか長蛇の列は見られず、私達は六人目の後ろに並んだ。再開発されたばかりの軌道エレベーター直結空港には、他にもフレンチの三つ星店やイタリアン、中華料理の看板が並んでいる。

「スターバックスって、どこにでもあるよね」
「先週、木星に洒落た店舗が出来ていたなあ」
「あ、私も外観は見た。あそこは奥行きも広かったね」
「仕事をしようとは思わんけどねえ」

あと一人待ちで店内に入れるところで、食券を買う。トリュフの出汁に半熟卵とほうれん草、パプリカが乗っている白いスープのタイプと、蟹味噌汁のタイプがあり、それぞれ半分割りにしようと話し合った。餃子は一人前ずつ。アルジュナはモヒートで、私は柚木のティーソーダ。

離陸していく機体を眺められる、窓際のテーブル席に向かい合って乾杯。「久しぶりだね」「もう五年とか?」とお互いの近況を報告し合った。


黒のタートルニットを着たアルジュナは、十代のあの頃と変わらず、私を見て泡やかに微笑んでいる。水色の視線は静かだが力強く、心の奥を読み込もうとするようだ。私は気持ちのままに「会えて、とても嬉しいよ」と告げる。


「僕もね、実はウレエラに何度か連絡しようかと思っていてね。でも四回離婚をしたし訴訟やら、他にも新しい仕事のプロジェクトやらで、なかなか出来なかった」
「よんかい……」

20年前に、あまりの離婚夫婦の多さと裁判数に歯止めをかけようと、地球連邦政府が「試験期間婚姻制度、テストマリッジ」を作った。そうでなくとも妊娠率が低いDNAデザインのカップルを、取り敢えず仮に結婚させて共同生活へ導くシステムだ。

まず結婚前に優良な子孫を残せる相性か、お互いの財産や実家の地位と権力などを精査され、別居婚からスタート。同居を始めても離婚時にきちんと半分ずつ分断可能な家か、家屋や車、ペットと家財食器類なども細かく所有権を決定しなければならない。

両者が政府に申請して決めた新婚生活期間をクリアすれば、税金が大幅に免除されるし、新生児の教育費も大学まで免除。半年、一年、一年半と一区切りごとに司法書士とセラピストを挟んだ協定が延長され、結婚生活継続が不可能と判断されれば、そこで円満離婚となる。


「お試しで色々チャレンジしてみたんだけどねえ。どうにも退屈だしストレスばかりで。僕が一方的に婚姻期間を短縮したもんだから、訴えられちゃったんだよ」
「半年、我慢できなかったの?」
「できなかったんだよ」
「四人、全員?」
「ああ、四人全員」

それから、それぞれの元妻だった男女との出会いやトラブル、探偵に追いかけられた話やベッドルームで差し殺されそうになったエピソードなど、まさに波乱万丈のドラマが語られた。アルジュナが芝居の台詞のように独特の鷹揚とユーモアで話すので、面白くて楽しくて笑いっ放し。


「ウレエラは、餃子に何も付けないで食べるのかい?」
「うん、私はコロッケやヒレカツとか、そのままの味覚が好きだから。ソースやラー油をかけると、強い味になってしまうでしょう?」
「刺身に醤油は?」
「それは少し。でもワサビは抜く。辛いのがだめなんだ」


空港に入ってから最初に発見したスターバックスへ移動して、彼の仕事内容を聞いてみた。私はアーモンドラテの豆乳カスタムで、アルジュナはビターチョコフラペチーノ、生クリームダブル。


「大学院で博士号を取ってから、父のコロニー開発を手伝っていたんだが、まあサービス業がどうにも苦手でね。早くに財産分与してもらって、それで会社を作ってなんとか食い繋いでる」
「起業したのかい?」
「従業員は社長一人さ。新型の戦闘メカを設計してるところでね」
「あ、私は職場で量産型のナッシュビルに乗ってる」
「発売されてから何度もバージョンアップされたやつか。具合はどう?」
「滑らかだし、安定性はあるけど関節とか立ち上がりが重いんだよね。作業には向いてるけど、戦闘には不利」

その時、私のショルダーバッグの中が揺れた。セルフィアイを確認すると、馴染みの名前で一通のメッセージが入っている。


「ごめん、アルジュナ。ちょっといいかな」
「どうぞ、仕事関連?」
「そう、なのかな……。うん、大丈夫。失礼したね」

そろそろ入店して二時間近くになる。「明日は仕事?」と私が聞くと、長い足を組み直してソファの背もたれにくつろいだアルジュナは、一度ゆっくりと天井を眺めてから、「そうだね、頃合いかな」と呟いた。

「ウレエラ、君の月給は幾ら?」
「んんっ? えっ、どうしたの?」
「そんなに慌てなくても大丈夫さ。木星に本部を持つ星間飛行隊が、退役パイロットの爺捨て山と呼ばれていることも、年間予算が足らずにマシンの整備もままならない状態は知ってる」


急に、店内に流れていた音楽が遠くなる。喉の奥が詰まって言葉が出ない。真前に座る元同級生は、空になったマグを、大きな手の中でコロコロと回転させていた。


「ねえ、ウレエラ。父親にパイロットになるのを猛反対されて、お前さんは家出同然に星間飛行隊に入隊しただろう。天王星の猛禽王と呼ばれるツタンカーメン閣下は、大切な親友の忘れ形見が日々食べる物も削って、部隊に自分の収入のほとんどを補填しているのを知って、毎月30万デュベを君の口座に振り込んでいる」


ガラステーブルの上で、マグカップを支える私の顔は固まっているはず。アルジュナは水色の瞳をずっと窓の向こうで光る、高軌道エレベーターを眺めていた。


「しかしながら、君はその金には手をつけない。今まで従順な良い子だった一人っ子の遅い反抗期に、父上は心配だろうねえ。今も僕らを、二人のシークレット・サービスが監視している。僕がどんな男か、情報部に問い合わせは済んでいるはずだ。君はあの豪華で優しい屋敷を出て、飛行隊の狭くて不衛生な寮に一人。去年はついに壊れた中古のエアコンやバスルームの修理代金を、さてどう出そうか考えた」
「あ、のさ……」

声が掠れて上手く発音できない。そこでやっと、長身の彼が正面から見つめてきた。知り合ってから初めての、真剣な表情で。

「僕が、私財開発している最新型次世代エアバトラーの搭乗者を探し出したのは、去年の春だった。正規軍のベテランや若手を片っ端から洗ったよ。君も熟知している通り、ほとんどのパイロットは貴族や大企業の子供で実戦に出た経験がなく、未熟で無知。マシンをレース馬のようにステイタス扱いして、大切に仕舞い込んで磨いてばかりだ」
「……そうだね、エアバトラーの維持には大金がかかるし、最近は、アステロイドベルト周辺の宇宙海賊やテロリスト討伐くらいしか、正規軍パイロットの仕事はないから」
「だろう? そこで思いついたんだ。非公式のエアバトルを見せ物にしている闇ゲーム場なら、それこそ猛者がいるんじゃないかと」


スラックスのポケットから小型タブレットを取り出したアルジュナが、それをテーブルに滑らせる。見慣れた戦闘スカイラーを煽り気味に撮影した写真、間違いなく盗撮だろうけど。そして裏サイトやネットで予想されるバトル結果と、その賭け金テーブルの価格表が、空間画面に流れていく。


「お父上は、お前さんがヤバい夜の賭けバイトで125バトルを勝ち抜き続けている、通称『告死天使(ナイチンゲール)』だと、ご存知なのかな?」


パチパチと、私が瞬きをする乾燥した音が弾ける。


「アルジュナさ……」
「なんだい?」
「う〜ん、その、この話ってつまりは、『ナイチンゲール』である私に、自分の会社のパイロットとしてオファーを持ちかけてるってことで、間違いない?」
「ああ、そう判断してくれて構わないさ」
「今日、私がドバイに来るって確信はずっとあったのかな。この再会は計画的だったの?」
「どうかなあ、でも100パーじゃなかったね。それでもお前さんはきっと、タワーに興味を持って久しぶりに地球観光を楽しむんじゃないか、とは想像したね」

そうか、それは完全に読まれていたな。仕方ない。


「憂・ツタンカーメンにじゃなくて、ナイチンゲールと正式な雇用契約を希望するなら、すまないんだけど、代理人と話をしてもらう事になっちゃうんだ」
「……代理人?」
「失礼、サー・アルジュナ・ミズラヒ。私はナイトバトラー『ナイチンゲール』の代理人で、先日個人起業したバトル・パーティーCEOのアルマンゾ・愁・ラズベリーフィールドと申します」


ソファ席に座る私の隣へ、音もなくハイブリッドビースト・グリフォンの友人が立っていた。この数日は、土星空域での大規模な闇マーケット捕り物に追われていたはずなのに、癖の強い銀髪には乱れもなく相変わらず美しく腰まで伸びて、漆黒のハーフコートの背中に流れている。私が初めて彼に仕立てた藍色のシルクウールスーツ、胸元にはネオンピンクのチーフが飾られていた。


「ウレエラ、お前さんがビースト・マスターになっているなんざ、想像しなかったよ。しかもかなりの上玉じゃないか。……君、ユニコーン? 違うな、ホワイトファング?」
「グリフォンになります、遺伝子配合的にはですが」
「こりゃ驚いたね。まさに世紀の珍獣だ」
「さっき、アルジュナは二人のSPが私に付いているって言ったよね。彼らとは別にアルマンゾ伍長は、私達がタワー視線を合わせた時には、もう私の後ろに立っていたんだ」
「マスターをシャンパンごと、僕に押し付けたのか。なんだかハードなオペレーションだったねえ」
「ちなみに、私は背中をどつかれるなんて知らなかったよ」
「だから、ごめんなさいって。あなたの元クラスメートは絶対にキャッチしてくれると思ってたの」


はあ、やれやれとアルジュナは苦笑しつつ前髪を乱暴にかき上げた。私も肩から力を抜く。

「ふう、楽しかったけど疲れた! アルジュナと会うかもしれないって話したら、伍長が慌てて土星から地球に飛んできてくれたんだ。きっと仕事の話になるだろうって」
「私の飼い主さんは、お育ちが良過ぎてお金の相談事には不向きですしね。ほらね、俺がナイトバトルのダミー企業を立ち上げたの、正解でしょ?」


私が立ち上がると、そのソファにそのままアルマンゾ伍長が腰を下ろす。脇に携えていた薄いチタン製のアタッシュケースの中には、契約に関する情報が詰まっているのだろう。


「とても嬉しいよ、私の最初の契約相手がアルジュナだなんて。信じられないかもだけど、君が話していた通り去年の私は、義父からの口座を別にすれば全財産が20万を切っていた。それこそ食事にも日用品にも困る生活をしてたんだ」
「銀髪の美しいグリフォンが、救ってくれたと言う訳だ。座敷童みたいな話だねえ」
「ホントにそうだよ。俺を拾ってなかったら、あなた今頃はどうなってたか」


さてさて、これから私の雇用契約について、代理人と初の顧客が大切な話を始める。


「私、向こうのカウンターでケーキ食べてるね。伍長とアルマンゾは? クラブサンドでも頼む?」
「あ〜、俺朝からなんも食ってねぇのよ。チリトマトロースとホットのブラック。トールで」
「ウレエラ、僕にはチャイティー、ラージサイズ。豆乳で頼むよ」
「はい、了解」


十代の頃の、思春期の思い出を共有できる友人はなかなか手元に残らない。でもそんな相手と、可能性が輝くプロジェクトを始められるって、幸せなことだよね。

これで、アルジュナ・ミズラヒとの出会いと再会についてはお終い。以降彼と私が次々新型のエア・ライダーを開発して、星間飛行隊が大規模な組織に拡大していく話は、また今度にしよう。


【終】




最初は、アルジュナと憂の出会いを気軽に書くつもりが、後半ノリに乗ってアルマンゾが出て来てしまった。なんだ10052文字って。書くのに一週間もかかってしまった。

ちなみに、私的には憂の声は清原伽耶ちゃん、アルジュナは関俊彦さん。(モデルが、英国俳優のデイヴィッド・テナントだから)、そしてアルマンゾは私と同じ誕生日の声優、細谷佳正氏。







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