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批判 否定 拒否

まず結論を言おう。批判的対応を取り続ける限り、本当の意味で成功はないだろう。

最近よく見かける。批判的対応。ネットではそのような言葉沢山存在する。それによっていじめや自殺に繋がったりしている。ドラマでネットリテラシーを題材にしたものがあった。本当に悲しみや理解できない感情ばかりである。

あなたは経験したことがありませんか?あなたが提案した考えや思い、行動でさえ、批判されたり否定など拒否でさえあっただろう。それで心が折れたりしたことがあるかもしれない。私は思う。批判しても、否定しても、拒否しても意味なんてないことを。何も生まないことを。むしろ失うものばかり。

批判否定拒否が生むものは悲しみだけ

批判などをしている人は気づかないだろう。悲しんだり苦しんでいることに。それでも、まるでロボットのように続ける。相手がいくら言っても、聞く耳に持たずに繰り返し同じ言葉や同じようなことをする。

誰かが意見を出した。その人は仕事を円滑に進めたい一心で考えたのである。でも、その意見に対して『使えない』の一言。それで終わるならまだいいだろう。
一度の失敗で失敗の烙印を押す。『どうせできない』『期待しない』そんな短絡的な考えで相手の思いの全てを押しつぶす。相手が動こうとするたびに批判をする。これはあくまでもたとえの一つである。でも、このようなことは同じでなくても似たようなものは沢山ある。

批判して何があるのか?潰された人間はただ悲しむだけである。結果的にできていなくても、円滑に進めたい思いまでは潰す理由があるのだろうか?

ネットでは匿名を利用して言いたいことを沢山言っている。その中では人格や考えまでも否定する人だっている。それが果たして正しいことなのか?言われた本人はただただ悲しいだけ。それだけである。

それをして生むもの

批判して意味があるもの。それを考えるならば、ストレス発散だろう。いじめもキッカケはそれによるもの。それがエスカレートして嫌なものへと変わる。誰しもストレスは感じるだろう。学校。家。仕事先。人間。環境。トラブルなど。キリがない。でも、たとえストレスを感じたからって、それをぶつけていい理由にはならない。

ストレスの発散で批判していて、やられた方はストレスが溜まる一方でしかない。ストレスというものを一方的に投げ与えているのである。それではストレスが爆発してもおかしくないだろう。一方的なんだから。

そもそも批判的対応は、人生というものでは必要か?

人生に必要なものか?

正直に言えば上記で言った通りである。本当の意味で成功しない。批判のするのはストレス発散だったりする。そして、それが当然になってしまった時。その人はもう成功することはできない。なぜなら、批判は可能性を潰す原因になる。そして、可能性を潰していく人間に成功は来ない。潰していくからね。今の世界は小さい可能性で成功して輝くなんて当然ある。ネットの発展がそれを可能性にした。

でも、根っからの批判的人間にその可能性を生かせるのか?当然できない。生かすどころか殺すのみ。それだけ批判には最悪なほどに強い力がある。

落とし合い。まるで地獄絵図

批判は可能性をなくす。もし、批判的人間が集まったらどうなるのか?それはもう地獄絵図でしかない。一つの考えもでない。批判されるから。そしてその先にあるものは、落とし合いである。『あいつが悪い』『俺は悪くない』ここまできたら、もう可能性のかけらも感じない。

批判などを続けたら

小さいことでも続けていたら、それが当然になってしまう。批判するのが日課になるようなもの。相手も可能性を潰すのが日課になるのである。そこまではならないだろうと思うかもしれない。でも、だったらいじめや自殺がなくなっているよね?と問いたいね。

たとえ小さいことでも続けたら当然になる。習慣や日課になる。ならないように気づいたら改心しよう。それが人生を良くする。

批判を止める

批判は可能性を潰す。なら、やめたら?当然に可能性に溢れる。「可能性だけでできるとは限らないじゃん」と言うだろう。でも、可能性がない人生の方が生きがいのないものだよ。それに可能性を見て考えるからこそ良いものが生まれるもの。可能性をどうするのか?

あなたの人生

あなたの人生良くするのもあなた次第。同様に落とすのもあなた次第。


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