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Gutsヒロのスイーツ・ストーリー「母とのお菓子作りトーク」

こんにちは、Gutsヒロです。「Gutsヒロのスイーツ・ストーリー」へようこそ!私のブログに来ていただきましてありがとうございます!この記事を見た方には興味を持って頂ければ幸いです。

母とのこのトークは、過去から未来への、つながりを感じる素晴らしいひとときでした。私のお菓子作りに与えたインスピレーションと知識は計り知れません。それは、母が幼い頃の私に教えてくれた子育ての概念からでした。幼い私から、今の私に続いている、喜ばれるお菓子作りの情熱のトークを紹介します。



Q.私には障害があったり、不登校になりながらもパティシエにまで育てあげたコツはありますか?

母「ヒロは不登校の時、ゲームしかやることがなくて、家での他の楽しみ方がなかった。それでも家でもっと楽しめる生活をして欲しかった。そんな中で、七輪で
ラーメンを出汁から作って、値段の高い高級な日高昆布を仕入れたときは困った。与えた本の通りに作ることが夢中になるきっかけとなった。初めてのラーメン作りでもお店のような味だったよね。」

私「お菓子のことで思い入れはある?」

母「料理だけではなく、お姉ちゃんのお菓子の本を借りて参考にして作ったよね。最初はパウンドケーキから始まったの覚えている。それから、プリンやタルトも作って、パンも作り出して、メロンパンは近くのパン屋さんの真似して杏ジャムを入れたメロンパンだった。」

私「クリスマスケーキを手作りで作ったのはなぜですか?」

母「お姉ちゃんとお兄ちゃんが工作が好きだったから、ヒロにも作る楽しさを知って欲しかった。けど、スポンジ生地は作れなかったから、近くの和菓子屋さんにカステラのようなスポンジ生地を注文したの。それから数年後にはスポンジ生地がマーケットで売られるようになってそれを買ってたのを覚えている。クリスマスケーキを作るのが楽しくなって親戚の分のケーキも作るようになって、みんなを喜ばすようになったのよね」

私「お菓子や料理に興味を持って、それを通して人を喜ばすというパティシエの芽生えがありました、その思惑がうまくいった秘訣はなんだったのでしょうか?」

母「秘訣はなかった。ヒロが誰かにプレゼントするとその人が喜んで受け取ってもらえる姿を見て、ヒロが自分から率先して作るようになったのは自然にだった。私がやったのはあくまできっかけ作りに過ぎなかった。ここまで成長できたのはヒロの情熱と作る楽しさだったと思う。そして自分からお菓子作りのレベルを上げていって色々作れるようになった。」


Q.母は、保育の仕事をしていたから、子供の関わり方が普通の人よりあったと思います。私が不登校になり引きこもりとなり、社会性を失った時に、私に料理やお菓子作りの楽しさを教えてくれました。その教育の概念について教えてください。

母「引きこもりでも、家にいても楽しめる環境を与えたかった。実は色々ヒロには試みはしていた。その中で最も好きだったのが料理とドライブだった。ドライブでは、釣り堀のニジマスを食べるのが特に好きだった。釣り堀のおじさんの話を聞くのも好きだったけど、食べる楽しさも学んでいたと思う。そして、今となって思うのは生き物を食べているという食育にもなったと思う。」

私「釣り堀は毎月のように行っていたよね、今は釣り堀は無くなったけど思い入れはあったのですか」

母「家にばかりいたから、開放感のある自然がいっぱいの居心地のいい場所だったから、釣り堀にいた時のヒロはとても喜んで時間を過ごしていた。ヒロが楽しむ姿を見て、私も楽しめる場所になったの。けど他の釣り堀行ってもダメで、その釣り堀が特別な場所だったのをよく覚えている。」

私「昔は、不登校や引きこもりの人が楽しめる場所や社会性を失わない環境が整っていない時代でした。そういった中で私の将来性についてどのように考えて想定していましたか?」

母「将来性についてはなかった。学校に行くのは難しかったし、現実のことでいっぱいだった。まさしくどん底だったと思う。ただ、ヒロは唯一、料理をやることに生きがいを持ってやっていた。最初の話になるけど、ラーメンを作った時のヒロはすごかった。スープを何種類も作ってブレンドして、麺も自分で打って、チャーシューも煮卵も自分で味を決めて作っていた。あれはヒロにとっての人生の大イベントで人生においていい経験だったと思う。けど材料費はヒロも負担していたけど、私も負担していて、あの材料費はどのくらい大きくなるか心配してたのよ(笑)」

私「あのとき作ったラーメン一杯2000円してたんだよね(笑)」

母「ラーメンの本通りにやるという熱意は凄くて美味しいラーメンは仕上がってたよね。親戚も招いてみんなで美味しく食べて、やりきっていたと思うよ。」


Q.その後、中学も1日も授業を受けず、中学卒業しても高校へはいかず、ずっと引きこもっていた。しかし、16歳の時に通信制の高校行くことになったけど、それらについてどう思いますか?

母「通信制の高校に行くことになったのは本当に嬉しかった。けど勉強がみんなに追いつくまで大変だったのをよく覚えている。けど、通信制高校は事情を抱えてきている人が多くて、ヒロが関わりやすいクラスメイトが多かったのが何よりだった。そして、月1、2回の授業を受けるのを怖からず行けていたのは良かった。それから野球部を作って全国大会に行ったことや生徒会に入ったり、魚釣り仲間ができて思い出をいっぱい作れたのはよかったと思う。
それから通信制高校は4年コースというのも良かったと思う。ヒロのペースで学校生活を送れたと思う。何よりちゃんと卒業できて、その卒業のおかげで調理師専門学校に行ける権利が得られたのは今となってはよかったと思う。」


Q.20代の時のフランス料理や洋食のお店で働いていた時はどう思いましたか?

母「小学生の頃のような楽しさで料理していたとは思わなかった。料理すること自体は楽しかったのだろうけども、精神的にも体力的にもオーバーワークすることが多くていい環境ではなかったと思う。」

私「確かにね。ドクターストップや、入院することもあった。けどあの時のフランス料理や洋食の経験がなかったら今はなかったと思う。犠牲は多かったけど、得られたこともある。それがお菓子作りにどう影響したと思いますか?」

母「調理師専門学校の厳しい授業で他の子よりも少し有利な状態で実習できたのは良かったと思う。実際に作る授業で自然とできたのは20代の時の経験があったからだよね。もしも、その経験が無かったら凄く苦労していたと思う。けど、ヒロは
経験があったから人に頼られることもあってクラスメイトと馴染むきっかけにもなった。それが卒業まで頑張れた理由の1つでもあると思う。」

私「調理師専門学校で、それまでの経験から活かすことができたのは良かったよね。何がどこで役に立つかわからないものです。けど、調理師専門学校に行くのは20代最後のことで突然のことでした。20代の時のフランス料理や洋食を頑張ってた姿ってどう思いますか?」

母「ヒロは、ある店では白いコックコートを着るのを夢見ていたんだよね。けど、コックコートを着るには条件が多くて夢が叶わなかった。そして、やりたくない仕事も一生懸命やっていた。だから夢のコックコートを着て料理ができた調理師専門学校では明るい表情で過ごしていたと思う。
ある店では、料理をやらせてもらって頑張ってたけど満足感がなかったのよね。シェフから認めてもらえなかったし、ヒロにとってはレベルの高すぎたお店だったのよね。それでシェフについていくのが大変で精神的にも肉体的にも限界になってしまったのよね。」

私「それで、精神科病院に連絡したんだよね、あれは良かったと思うけど、あの時の僕は葛藤していたと思う。好きな料理、でも厳しい世界の料理。夢と地獄の裏表でやっていたのですが、あの時はどうすれば良かったと思いますか?」

母「どんなお店で就職するかわからないのが1番よね。募集だけの内容の求人ではお店の内情がわからないので難しかったと思う。それでヒロが飛び込んだ世界はハードルが高くて、厳しかったのよね。」

私「でも、就職する前に食事はしたよね。でも僕もだけど、内情も料理のレベルも当時は分からなかった。それも問題だったと思う。あのお店の料理の味の秘密を知りたかったけどとにかく大変だった。今となっては料理を見ればどういうレベルの料理か、作っている人の人柄もわかるようになった。お店の人が冷たい人か温かい人かわからない時どうすれば良かったんだろうね?」

母「客として食べるだけではわからないよね。でもあの時は、ヒロは自分の信じた道は最後まで必死にとことんやるタイプだったから何も言えなかった。唯一できるのは見守るだけだった。」

私「あの時は、失敗や苦労して、どん底になってからしか見えない世界が多かった。失うことは多かったけど、あの時の経験はとても良かったと思う。」

母「今だから言える言葉だね。ヒロの成長だと思う。」


Q.調理師専門学校での入学、そして卒業しました。それに対して思うことありますか?

母「思い出ののことだけど、2年生の夏休みの宿題で家族に料理を振る舞うことがあったよね。あの時、おばあちゃんと姪っ子と一緒に食べたけど、あれほどの料理を家で食べれるとは思わなかった」

私「あれはフランス料理のフルコースだったね。」

母「ヒロは卒業した時、学校長賞をもらったことを嬉しく思ってるけど、精神的にも体力的にも弱いヒロしか知らなかったから、私は学校を無遅刻無欠席で2年間やり通して皆勤賞をもらったことが何よりも感激したよ。
それから思い出としては、キャベツの千切りの試験かなぁ。練習した20玉ぐらいのキャベツの千切りを近所に配り歩いて食べてもらったことかな。みんな驚いて目を点にしてた(笑)あと鯖の3枚おろしも同じだったわね。
あと思い出は、大根の桂剥きの試験に落ちたことかなぁ。1本の大根で2m剥いたのに落ちた理由が、大根の高さがちょっと足りなかったのよね。次の試験では包丁にマッキーで10cmの印つけていたのをよく覚えている。」

私「通学は大変だった。毎日眠いし、早く行って実習でいい席取りたかったからね。耳の聞こえが悪くて先生の近くで授業受けたかったからなんだよね。
試験はいっぱい練習した。けど、1発合格できたことが多かったから報われたと思う(笑)」

母「あと、マンジェ(とあるビストロのお店の名前)のマスターに励まされたことが大きかったよね。マスターに肩の力を抜いてやるように、頑張りすぎないことをよく言ってくれたよね。特に樹木希林さんの言葉を送ってくれたことが思い出ね。」

私「マスターとの出会いは大きかったね。でもマスター元気かなぁ。」


Q.調理師専門学校を無事卒業し、就職後の私についてどう思いますか?

母「会社に貢献しようと一生懸命で上司から言われたことは全部受け入れて頑張りすぎていた。その割には上司からは労いの言葉もなく最後まで冷たい関わりで終わったね。虚しいと思った。」

私「結果を出せば報われると思ってやっていた。けど、仕事の中に人情や思いやりは無かったんだよね。〇〇部長はいい人だと思って会社に入ったけど裏切られた結果で終わったことは残念だったね。」

母「チーフも酷かったと思う。新作を作るよう指示したのに、ヒロの作ったケーキを何度も冷蔵庫にほったらかしにされていたことがあったのは、あれは酷かったと思う。全部自腹でかなりの時間をかけてやっと作ったケーキだったのに。それから裏作業に移動させられていた後にも新作を作らされ続けていた。その時も無為にされ続けていたのには本当に悔しかったよね。けど、仲間内の1部ではヒロのケーキは評判よかったのよね。」

私「あれは何だったんだろうね。冷蔵庫の奥にしまって1週間もそのままになってたのを気づいた時はショックだった。食べることも評価することもなく、ただ作らされてたんだよね。」


Q.その会社を去った後、B型就労施設やA型就労施設の就職もありました。何か感じることはありましたか?

母「どこでも、お菓子の評価はよかったし、私もお菓子を試食して美味しかった。けど就労の条件が合わなかったのよね。」

私「就労の条件があのようになるとは分からなかったし、騙されるとは思わないからね。教訓にするしかないね。でも僕としては、騙す人間より騙される人間の方がマシだと思ってるから、あれはあれでいいんだ。」

母「それで、ヒロがのびのびと仕事ができる環境を探したけど見つからなくて、それで家の老朽化でそろそろリフォームを考えていたから、ヒロのケーキを作る環境をつくることを考えたのよ
それから2年の月日が経ってるけど、そろそろ念願の厨房ができる家に辿り着くができるこんにちがあるのよね。」


Q.最後に私のお店の計画はありますが、どのようにしていきたいと願ってますか?

母「無理をしないで、肩に力を入れないでやることを前提にしてほしい。そして、みんなに喜ばれるお菓子を作っていってほしいことです。」

私「今回は親子関係ですが、改めて文章にすることによって、更に良い絆で将来を歩めるよう一緒に頑張っていけたらと思います。宜しくお願いいたします、」


あとがき

このトークを通じて、母と私の人生や仕事、そして私たちの絆について理解できたと思います。母の助言とサポートが、私の夢を追求する力となっています。母とのこうした対話は、私のお菓子作りの旅路の中で貴重な瞬間であり、これから共に歩んでいけることを嬉しく思います。

母へ。支えと愛に感謝しています。

そして、読者の皆さん、私たちのトークをお楽しみ頂きありがとうございました。私のお菓子作りの旅路は続いていきます。皆さんと共に歩む日々を楽しみにしています。

Gutsヒロ

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