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Gutsヒロのスイーツ・ストーリー「料理の扉を開けた29歳の挑戦者篇」

こんにちは、Gutsヒロです。「Gutsヒロのスイーツ・ストーリー」へようこそ!私のnoteに来ていただきましてありがとうございます!この記事を見た方には興味を持って頂ければ幸いです。


まずご報告があります。コングラボートに選ばれました。ありがとうございます!今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。(^^)

今週のコングラボード、ありがとうございました!






今回のストーリーはGutsヒロのスイーツ・ストーリー「敗者復活戦:新たなスタートラインへ篇」の続きです。当時、私はとても辛かったフランス料理、洋食の世界を最後まで続けましたが、最後は職業病とも言える病にかかり手術することになります。お医者さんに命じられたのは「料理の仕事を辞めなさい」とのことでした。私は、フランス料理と洋食の世界では見習いすらもまともにやらせて頂けませんでした。そして、料理の世界から離れることになりました。
しかし、私は諦めることができませんでした。小さい頃から続けていたデザートやお菓子作りには定評がありました。私は小さかった頃からの夢、パティシエになるために一縷の希望で調理師専門学校に行く決意をします。その心境や学校生活に触れたストーリーをお届けします。


「29歳の挑戦。未知の調理師学校への一歩」

私は、カフェのマスターの導きにより、調理師専門学校のパンフレットを取り寄せました。しかし、学校に入学することを決意するものの、それまでの仕事では相手にしてもらえず、見習いすらなれなかった私が本当に学校に入れば、「料理人」に、ましては「パティシエ」に本当になれるのか不安が大きかったです。ましてや、2年もの期間を本当にやり通し、卒業できるのかすら不安で、やっぱり諦めた方が誰にも迷惑かけずに学校の入学を忘れて無かったことにした方が幸せなのではないかと思うこともありました。
しかし、見学会だけでもとりあえず行こう、と母が言ってくれました。母の支えの言葉もあって、私は見学会に行くことになります。そして、とうとう料理人のエリートを育てる学校に足を踏み入れた時は緊張で、この先に何が待ち受けているのか恐怖の気持ちで行ったのを記憶しています。そのぐらい私にとってこの調理師専門学校は雲の上の存在でしたし、偉大な学校だったからです。

見学会に来ていたのは10代の制服を着た高校生ばかりでした。29歳の私はおじさんとも言えるのでその場ではとても浮いていた存在で恥ずかしい気持ちでした。その日は和食のデモンストレーションを見る機会でした。講師の先生と、助手の先生、そして生徒が5人ほどいました。生徒の人たちは軍人のような大きな声でハキハキしていて圧倒されました。そして講師の先生が25cmか30cmはあるであろう鉄の出汁巻き卵のフライパンで手際よく箸を使って卵を巻いていて、それはマジックのように見事に作り上げたのを見てレベルの高さというものを見させてもらって
「あぁ・・・。やっぱり私にはレベルの高すぎる世界なのかな。」
って思いで気持ちが引いてしまいました。そして、今後は生徒の1人が指名され先ほどのように出汁巻き卵を作ります。
しかし、講師の先生のようにうまく巻けずに手こずってるのを見て生徒だとまだこのぐらいのレベルなのかと思い、その生徒さんには悪いですが、そこまで生徒はレベルが高くないと知って安心してホッとしました。

そして、個別面談がありました。私は担当者に「2年コースの製菓コース」を希望することを言いました。
しかし、その担当者には、

「2年コースは10代の子しか応募しないので29歳のあなたが2年間やり通すのは難しいと思います。1年コースの調理コースなら高齢の人もいるのでやりやすい環境ですし、授業が1年で終わるのでこちらをおすすめします。」

と、言われてしまいました。私は学校の厳しさを甘く見ていて、それを指摘され、甘い夢を見すぎてしまったのだと自分を責めました。改めて私はどうするのか考えました。1年コースでも資格は取れるし、脱サラで入学する人もいっぱいいるし、環境の良さなら1年コースなのかもしれない。しかし、1年コースは基本的な和洋中の調理しか学べない。私はどうしてもお菓子をやりたかった。パティシエになりたかった。しかし、製菓コースは2年通わないと専門的なお菓子は学ぶことができない。かつて働いていたレストランでは料理をやらせて貰うのに半年間の接客をやることを条件とされた。あの時は半年間だったが、学校入学したらそれの4倍もの期間をやり過ごさないと資格はもらえず、パティシエにもなれない。私は、人生はなんて厳しいものだろうと思いました。不安と絶望になっていた私に母はあることを言ってくれました。

「とりあえず入学して、それが難しかったら退学すればいいのよ。それからまたヒロのやりたいことをやればいいんだから。」

けど、入学費なんて何百万円もするんだよ、それを無為になる可能性があるってことだよ?と私は言いました。そして母は、

「ヒロの将来に可能性があるなら、それが仮に1%の確率でもヒロのやりたいならやるといいよ。無理なら辞めたっていいじゃない」

と言ってくれました。私は、母の可能性よりもチャレンジすることの大切さを教えられ、もう一度、調理師専門学校の見学会に行くことになりました。

その日は、製菓コースのデモンストレーションのある見学会で、入学を希望する人が沢山いました。製菓コースは大人気だったのです。しかし、みんな若い10代の子ばかりでした。
しかし、よく見ると40代か50代のおじさんが1人いました。まさかあの人は製菓コースではないだろうと思いました。

そして、見学者はピタパン作りに参加しました。どうやってこのような袋のように生地が焼けるのか分からなかったので本当にレベルの高い学校だと思いました。そして、具材やソースを入れて食べてとても美味しかったのを今でもよく覚えています。

そして、個別面談が始まりました。担当者には改めて、
「1年コースの方が無難です。2年コースは厳しいですよ。」
言われてしまいました。また1年間で学校を休める日が10日間分ぐらいしかなくて自信ないなら入学も辞めた方がいいとも言われてしまいました。10日以上休むと単位が取れなくて退学扱いになるようなことを言われました。

しかし、この会話で不安になる私に天の声が聞こえます。さっきの40代か50代のおじさんが隣の面談で
「私はパン屋になりたいんです!入学届も書いてきました!製菓コースに入りたいんです!」
と、言ってるではないか!このおじさんも製菓コースに入るならとても心強くて私にも希望があるのではないかと思いました。
しかし、ダンボの耳にして聞いてみると、おじさんも1年コースの調理コースをすすめられているようでそれ以上のことはよく聞こえなかったが熱意あるおじさんだと思いました。

帰り道、母と
「あのおじさん製菓コースに本当に入るのかな?」
すると母が
「あのおじさんも一緒になったら心強いねー」
と話をした。

私は人生を賭けた選択をしました。入学費を最初から無駄にするつもりはないけど当たって砕けるまでだ!人生に悔いのないようにやろう!そう決断をしました。

そして、学校入学の前に制服の打ち合わせの日があり、入学した人達が大勢いた。左見ても右見ても、高校を卒業したての若々しい人たちだった。そこに年齢が高いのは私だけだった。同級生になる仲間なのだがすごく孤独に思えた。私はこの周りにいる同級生と学校生活を送ることを改めて感じた。その時、ふとあることを思った。

「私は2年間やり通し、絶対に圧倒的な首席で卒業する!」

そう決意した。それは孤独で、どんな過酷な世界が待っているのか分からない、不安で恐怖でいっぱいだった私を奮い立たせる心の底からの意地での想いだったのでした。



「厳しい実習と成長。新たな仲間との出会い」

入学式のことは緊張とゴチャゴチャしていたのでよく覚えていない。ホール会場の空間は薄暗く人の顔もよく見えなかった。とにかく、名前を呼ばれたら大きな声で返事しなさい!とか入学式の練習とかがあったが製菓コースはほとんど女の子だったぐらいしかよく分からなかった。
しかし、名前を呼ばれて1人だけおじさんっぽい人がいた気がするがその時は確認は取れなかった。
そして、入学式を終わったら一斉に帰ったのでクラスメイトもよく分からないで終わった。私はおじさんを探したが見当たらずに終わった。

そして、入学初日。製菓コースの教室に入りました。クラスは女の子ばかりだった。キャーキャー言ってる慣れない声ばかりが聞こえて初日目からやつれる思いだった。席順が決まっており座ると、すでに隣に座っていた男の子がギョッとした目で私を見た。
(そうだよなぁ。18歳からすると29歳の私はおじさんだもんなぁ。)
と思いました。私は、
「29歳なんだけど2年間、よろしくね」
と無理して明るく挨拶をした。本当に2年間やれるのか不安になった。すると、定時の時間ギリギリになった頃、奇跡が起こる。見学会に来ていたあのおじさんが教室に入ってきたのだった!私は、嬉しい気持ちと安心感でホッとした。あのおじさんが2年間いるなら心強いと勇気になった。
そして、おじさんも席に着いた時に、向こうも私に気づいた。きっと気持ちは同じだったのだと思う。私は立ち上がり、おじさんと挨拶を交わした。おじさんこと(仮名)スーさんとお互い頑張っていこうと強い約束を交わした。それから何を目指しているのか話をして2人で話が盛り上がった。

登校二日目は、宿泊研修が何故かある。田舎の施設で泊まり込みで親睦会をやるそうだ。そこで料理や親睦会があって楽しく過ごすのだが、私には軍人訓練のような感じで全然楽しくなかった。
私とスーさんは目立たぬようにやっていたが注目の的だった。年齢の高い2人が同級生の若い女の子に囲まれて料理をするのだから不自然で仕方なかった。正直居づらい環境で私もスーさんも苦しくて仕方なかった。
しかし、この宿泊研修のイベントといえばやっぱり料理だった。器用な子もいれば不器用な子もいて、先生の怒涛の声であれやれ、これやれとスパルタ的だった。私は調理の下ごしらえだったら元プロだったのであちこち助けに回った。

クラスメイトは38人だったが、どう見ても100人前はあるんじゃないかってほど肉と焼きそばを作ったのをよく覚えている。私は食べるより料理して振る舞うことに専念した。
しかし、さすが10代の若者だった。その100人前の料理をほとんど食べ切ってしまったのである。とても驚いた。夜はイベントが多かった。そこで自己紹介ゲームのようなものがあり、1人3分の自己紹介スピーチをするのであった。若い子達はノリがあるからやれるのだろうけども、私とスーさんは「困りましたねぇ」って顔をお互いにした。結局最後の方になって順番が来てしまった。私は精一杯、自己紹介したが情けない声しか出なかった。名前と年齢はもちろんのことこれまで辿った料理のことやパティシエになりたい理由を話し切ることはできた。すると、みんなから盛大に拍手を貰った。それからの宿泊研修は料理のことしか覚えていないが、雰囲気からすると学校生活の序盤に過ぎないのだと思った。

案の定、学校生活はとにかく厳しかったです。特に実習は厳しかった。それは時間に追われることだった。制服から実習服に着替えて、手洗いに1分かけて洗う。早く行っていれば実習室に入れるが、遅れると手洗い場で詰まり実習室に入れないのであった。実習室に入る時も声をでかい大きな声で、「失礼します!よろしくお願いします!」と言わなければならない。私とスーさんなんか部活以来のそのような声を出すことなんかなかったので、やり直しを何発も食らった。あとは余談ですが、髪の長さと、爪の長さのチェックも入る。長ければ急いで教室に戻り、切らなくてはならない。そして、また最後尾に並んで実習室に入るのだが、そうなったら一番後ろで実習の指導を受けるので講師の先生の手元はほとんど見えなくなってしまう。私は爪を毎日切り、髪の毛は2週間に1度のペースで髪を切っていました。

そして、実習室の席は、先着順なので、みんないい席を取ろうと競争があった。私も講師の先生の手元や技術をしっかりみる為に、ほぼ毎日1番乗りで2年間やり通した。それは、例えば朝9時からの授業を7時半に学校に到着し、1時間以上も前に待たなければいけないぐらいのことだった。そして、実習室に入ると黒板にその日のメニューが書かれており、全て速記帳に書かなければいけないのだが、洋食や製菓はフランス語で書かれてあったり、中華の授業なら中国語で書かれているので材料が何なのか分からない時が度々あった。しかし、2年生ぐらいになった時には全て読めて理解もできるようになったのだから学校生活は偉大であった。

そして、早く行くと当番の班がその日使う道具や材料を準備しなければいけないルールがあってそれがとにかく大変なことで早く到着していた私はそれをよく手伝った。例えばケーキを作るなら仮に20種類の材料が必要なら6班分の20種類の材料を全て計量し準備するというものだった。それが間に合わないとデモンストレーションに間に合わずになってしまうのである。

実習では、まず講師の先生の見本を見させてもらう。そして、キリのいいところで止めて、生徒がそれを真似して同じところまでやる。しかし、それが遅いと講師の先生が再スタートするのでのんびりやってはいられない。速記帳を書いてない人や、デモンストレーションをよく見ていない人は遅れを取るのでまさしく勝負の世界だった。私は1番良い席で見ていたので、速記帳には事細かに講師の先生の重要な部分を書いていたし、しっかり技術や動作が見れていた。それは、班での役割分担に大きく左右された。分からないと調理が始まっても棒立ちになってしまうし、簡単な作業しかできない。しかし、デモンストレーションを見ていた私は1番大変な作業をよく任されていた。それは後々のことになるが、技術の向上や自信に大きく繋がることでした。

私はそのような毎日でとにかく大変だったが、これまで名前は聞いたことあるが作ったことのない料理やお菓子を沢山マスターすることができました。それは、レストランや洋食の仕事の時代では到底教えてくれなかったし、学ぶことのできなかった技術と知識でした。お店でやっていた料理の分からないことがそこで初めて分かるようになった大きなきっかけでした。それはパズルが徐々に完成していくような体験で、率先して誰よりも濃厚な学校生活を送っていた私はクラスの中でも知識や技術はもちろんのこと、センス的なものもとても磨かれていたと思います。

学校生活は大変でしたが、学校生活をして初めて料理の本当の楽しさや、やりがいというものを感じるができました。そして、料理を通して生きがいというものを味わうことができました。それは、29歳で落ちこぼれの人生でもチャンスはまだまだあることを知り、成長できる喜びは私を幸福に満たしてくれました。

あの時、母の後押しがなかったらこの経験はなかったと思います。今の私もいなかったと思います。一歩踏み出す勇気が多くの可能性とチャンスと奇跡を生み出すことを証明できたと思います。自分の見えない可能性を信じることは不安がいっぱいですが、それは必ず意味のあることで人生を変えるきっかけになるでしょう。


あとがき

この学校の入学ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。

これまでの人生で最も挑戦的な冒険を共有できることを嬉しく思います。この学校生活の2年間は私にとって、自分の可能性を信じ、夢に向かって突き進む決意を固める大切な時期でした。

学校での経験は、厳しい実習や緊張感のある授業、そして新しい料理の世界に触れる機会を提供してくれました。そして、母の言葉や支えが、私に勇気を与え、途中で諦めない強さを持たせてくれました。

最後に、母へ。母の言葉と支えが、私を夢に向かわせ、成長させてくれました。感謝の気持ちでいっぱいです。これからも私の料理人人生を応援してください。最高のお菓子を提供できる日を使命にして、私はこれからも努力と情熱を持って歩み続けます。

感謝を込めて。

Gutsヒロ

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