【読書メモ】『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(古賀史健)

読書メモを書くのは、とてもしんどい。力がいる。頭を使わなければいけない。

それでも、メモに残さなければいけない、と思うほど、たくさんの学びがある本でした。

書こうとするから、書けないのだ。
(中略)
頭のなかの「ぐるぐる」を、伝わる言葉に“翻訳”したものが文章なのである。

古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』

「分からない」と言うのはとても楽なことで、それはまさに「頭のなかの『ぐるぐる』」をそのまま放置していることだ。

「普通でしょ?」「それが常識だよ」「言われなきゃ分からないのか」「空気読んでよ」

そんな言葉を述べる人が苦手だ。「あなたにとっての常識が、どうして私に通用すると思うの」と言い返したくなる。

だけど、きっと「頭のなかの『ぐるぐる』」を放置すると、自分が普通だと感じることは、相手にとっても普通だと感じてしまうようになる。

いつの間にか「ぐるぐる」そのものが理由になる。それを説明できない、もしくは説明の必要を感じないから「常識」とか「普通」という言葉に頼らなければならなくなる。

しかし、他人を動かす言葉は、「それが普通だから」ではなく、「私はこう考えた。だからこの結論が正しいと納得している」だ。

そうじゃなければ、結局最後には「それが普通なの!黙って従って!」となってしまう。そんなの、人間が持っている最大の武器である「ことば」を蔑ろにするようなものだろう。


「いい文章」とは「読者の心を動かし、その行動までも動かすような文章」のことである。

古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』

「いい文章」の前には、自分の思いがある。だけど、自分の内面はひどく主観的なものである。それでも、自分の感情を見つめて、すくいあげる。その感情を論理によって補強する。

そんな翻訳作業を経て、やっと言葉が生み出される。

「ねえ、聞いて!ちょっとこんな素敵なアイデアを思いついたんだけど!」


自分が「普通」だと思うことを、改めてすくい上げるのは大変なこと。私も思わず「普通は……」と言ってしまって、言葉を引っ込めた経験がたくさんある。

油断すると「なんとなく自分が正しい」と思ってしまうから、「ぐるぐる」を翻訳して、文章に昇華させることで、きっと自分の価値観を成長させることができる。

読書メモだって、きっとそうだ。

読書メモを書くのは、とてもしんどい。力がいる。頭を使わなければいけない。

だから読書メモに残さなかったら、「なんとなく学びがあった」だけで終わってしまう。学びがあった。とてもよかった。たくさんのことを考えた。……でも、それって何よ?

しかし、文章を書くことで「自分がその本をどう読んだか」が客観視される。

そっか、私は納得解を得るプロセスを知りたいんだ。そして、「普通」とか「常識」という言葉が苦手な理由は、プロセスを無視して降ってくる制約だからなんだ。
そういう人がいることを、少しでも知ってくれたらいいな。私は反発しているのではなく、あなたがどうやってその答えを得たのか知りたいんだよ。

noteを書くことを通して、自分がどんな思いでこの本を読んだのか、知ることができたのです。

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