見出し画像

「神智学」と「ニューソート」は過ぎ去った時代遅れのブームに過ぎないのか?

神智学とニューソートは、どちらも「もう一つの近代」を指し示す原理として一世を風靡した過去を持ちながらも、現代社会においては伏流水のように身を潜めている。それはなぜか?

「ナチス」と「オウム」を生んだ神智学

まずは神智学が歴史の影に葬られた流れを概観しよう。

ブラヴァツキ―夫人が創始した神智学は、チベット密教のシークレット・ドクトリンを近代的語彙に結晶化させ、階層的霊界論や霊的進化論を説くことで新たなオカルティズムの地平を切り開いたが、二代目のべサントとリードビーターによってより具体的な社会変革運動として展開する中で挫折に直面し、協会を見放したシュタイナーによってドイツ観念論哲学の伝統と接続されて「人智学」としての展開を見せたが、その後「アーリア人は神人である」と唱えるアリオゾフィに翻訳された結果ナチスに利用される結果となった。

ここで注目したいのは、インド独立の背景に、「インド-ヨーロッパ語族」の発見に伴うこうしたアーリア人優越思想が手を貸していたことだ。ガンディーが主導権を握る前のインド独立運動を率いたのは、フェビアン協会の社会主義運動家としての過去を持つ神智学協会二代目のべサントであったし、ガンディー自身も青年期のイギリス留学時代に神智学の薫陶を受けている。リードビーターがインド人のクリシュナムルティを新時代の救世主に育て上げようとしたことにも、何らかのアーリア人優越思想が働いていただろうことは想像がつく。

こうした神智学は日本に輸入されて、「竜王会」の三浦関造と「阿含宗」の桐山靖雄を経て麻原彰晃のオウム真理教を生み出した。「霊的進化」を目的とする神智学は「神人への進化⇔獣人への退化」の二元論を生み出し、「劣った魂を排除する」というオウム真理教の地下鉄サリン事件の発想にもつながった。

つまり神智学が現代日本において煙たがられる歴史的根拠は「ナチス」と「オウム」の二点に存し、それはどちらも「霊的進化という観点から、劣った人種を排除する」というある種の選民思想によるものだ。

今もアメリカに根付く「ニューソート」

次にニューソートの歴史を概観しよう。

ニューソートはカルヴァンによって火炙りにされた神学者セルヴェトゥスの汎神論、およびスウェーデンボルグの霊界論に端を発し、メスメルの動物磁気論に触発されたフィニアス・クィンビー、その系譜をひくメアリー・ベイカー・エディが立ち上げたクリスチャン・サイエンス教会の教義に結実した。その教義は神智学に似通った宇宙観を共有してはいるが、よりキリスト教的な色彩を帯び、「病気治し」や「自己啓発」の要素が強い。

その系譜を継ぐラルフ・ウォルド―・トラインやジョゼフ・マーフィーの著作を紐解くと、アメリカの繁栄の核となる考え方が、ウェーバーが分析したようなプロテスタンティズムに裏付けられた資本主義よりもむしろ、その始祖カルヴァンが火刑に処したセルヴェトゥスに端を発する「ニューソートに根差したマインドパワーによる発展原理」にあることがよくわかる。

ニューソートの思想の核は、同じくメスメル派の退行催眠によって「アカシック・レコード」にアクセスするようになったエドガー・ケイシーによって受け継がれ、古代文明論や輪廻転生論にまで発展した。ニューソートの思想は日本には谷口雅春によって輸入され、「生長の家」として展開したが、三代目になった現在ではある種のエコロジー思想に翻訳されてその息をひそめている。

こうした「ニューソート」と「神智学」の流れはどちらも孤立した流れではなく、19世紀中盤頃から、お互いがからみあうように成長してきた。ブラヴァツキーと手を携えて神智学協会を設立したオルコット大佐が、クリスチャン・サイエンス教会の創始者エディのフリーメーソンにおける「同僚」であった事実も見逃せない。

「無神論」「唯物論」の思想家たちが指し示す「グノーシス的真理」と「もう一つの近代」

現代においては「神智学」も「ニューソート」も、ある時代ある地域において「ブーム」になり、今やその生命を失った「時代遅れの思想」と葬りたがるきらいがあるが、そうは言えないと私は思う。

なぜなら、この「系譜」があまりにも多数の歴史上の哲学者・科学者をはじめとする人間を巻き込んでいるからだ。今回挙げたのは「神智学」と「ニューソート」に関わるほんの十数人の人間だが、実際にはこうした思潮と容易に接続可能な思想を展開した歴史上の思想家は数えきれないレベルで存在する。

ここではあえて、通常の文脈では「無神論」「唯物論」と見なされがちな6人の思想家をあげてみたい。それは、スピノザ、ヒューム、ヘーゲル、ニーチェ、ドストエフスキー、ドゥルーズである。

  • スピノザ:無神論に分類されがちだが実際には汎神論者であり、この宇宙には神という実体しか存在せず、宇宙に存在するすべては神の表現にすぎないと考えた。触発によって動かされる人間には自由意志が存在せず、それを観察した人間のみが本当の自由への地平にアクセスできるとした点で、神智学およびその影響を受けたグルジェフと同じ思想を持っている。

  • ヒューム:「無神論的懐疑論者」として知られ宗教的な人からは敬遠されがちだが、実際には人間を「知覚の束」と見なし、「人性論」においては唯心論とも相性が良いレベルで人間の持つ心の性質を科学的に探究して「人文科学におけるニュートン」を目指した巨人。

  • ヘーゲル:後半はゴリゴリの理性の牙城を築き上げたが、シュタイナーが分析した通り、若いころの詩「エレウシス」にその神秘思想と霊的体験が結実している。

  • ニーチェ:自身の霊的直観をすべてを唯物論的にゆがめて解釈しているが、晩年の彼を苦しめた狂気は明らかに薬物依存によって引き起こされる悪質な霊体験である「バッド・トリップ」であり、彼が描こうと苦心した(が失敗した)対象はグノーシス的真理であったと考えざるを得ない。

  • ドストエフスキー:無神論的人間の苦悩に満ちた心理を「小説」という型式で描いた彼は、神智学ともかかわりのあるロシアの神秘思想家ソロヴィヨフの影響を受けており、また、バルザックを経由してスウェーデンボルグの思想に傾倒した。その神秘思想は「カラマーゾフの兄弟」をはじめとする著作にも色濃く投影されている。

  • ドゥルーズ:「千のプラトー」の序文に描き出された「非秩序」としての「リゾーム」とは構造化できないグノーシス的な秩序(井筒俊彦の「アンチコスモス」)を指し示している。同書ではカスタネダの著作の引用を通してシャーマン思想を哲学に接続しようとしているし、うがった見方をすれば欲望の渦によって構成される「器官なき身体」とは神智学における「アストラル体」にほかならない。

以上のほかにも無数の思想家、科学者、芸術家が類似の神秘学的傾向を共有しているが、今回は私が最近惹かれている思想家を中心に挙げた。

ここまでの流れを踏まえて、神智学とニューソートについて改めて考えてみると、それらが指し示す真理は古びていないものの、その表現形態は中古本にふさわしい経年劣化を受けていると言わざるを得ないだろう。どちらも歴史的な経緯によってそれなりのダメージを受け、限界に直面した。理解者の人口が少ないがゆえに議論が成り立たない結果、用語の厳密な定義がなされず、浅薄な初学者に弄ばれ、手垢のついた語彙にまみれてしまった。

今必要とされるのは、神智学とニューソートを「地図」としつつも、それが指し示していた高次の世界における真理を、現代という思想状況において新たな概念を伴って結晶化させていく努力である。

広義の「哲学」にその使命があるはずだ。なぜならそれは「概念の創造」である限り、理論上はどんな概念も地上に降ろしてくることが可能だからだ。言葉によって展開される哲学の可能性を否定したウィトゲンシュタインを「哲学の暗殺者」と呼んで嫌ったドゥルーズに私は共感する。

神智学の語彙で説明するとすれば、哲学とは「高次の次元における完全な多様体としての真理を、低次のメンタル次元に射影して現象化させる努力」であり、それは言い換えれば「概念の創造」である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?