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嗅覚の認識は非ハウスドルフであり、テトラレンマを彷彿とさせる

嗅覚は、他の五感と比べて特別だ。
その理由を、数学的・哲学的に考察してみよう。

色彩は、以下のような色相環にマッピングできるし、音は低周波や高周波に分類できる。

しかし、匂いに関して「臭相環」や「臭気スペクトル」は存在しない。なぜか。

色相環


音のスペクトル解析

ひとつの仮説として、嗅覚というものの持つ本来的な「非ハウスドルフ性」に由来していると考えるのは不自然ではないだろう。
非ハウスドルフを語る前に、ハウスドルフとは何だろうか。それは以下の「分離公理」の名前で知られる性質のことを指す。

数学におけるハウスドルフ空間とは、異なる点がそれらの近傍によって分離できるような位相空間のことである。

Wikipediaより
ハウスドルフ空間では任意の二点を開集合で分離できる

ポイントは、ある空間がハウスドルフ空間であるかどうかは、その集合に含まれる元そのものではなく、そこに導入された「位相」によって決定される、という点である。「位相」とは、元と元の間の近親関係についてのルールである。

ハウスドルフでない位相空間の例

例えば、上記のような三点からなる集合は、「〔赤、青、緑〕〔赤、青〕〔青、緑〕〔青〕」という位相を導入することで、非ハウスドルフ空間と化す。ここにおいては、赤と緑を本質的に分離することはどう頑張ってもできない。

青が子供、赤が母親、緑が父親だとすれば、両親がたとえ離婚を望んだとしても、子供という圧倒的接着剤の力によって絶対に切り離されることがないのである。

古墳の「非ハウスドルフ」なマッピング

古墳を自然な形でマッピングしようとすると、どうしても非ハウスドルフ空間になってしまう。形状というものは、人間の自然な認識においてハウスドルフ的なマッピングを拒む。(※1)(※2)

ここで嗅覚に思い当たる。嗅覚を刺激するものとは、揮発性分子の分子構造に他ならない。ある匂いとある匂いを、厳密な意味で分離することができるだろうか? 
分子構造のトポロジー的類似性によって、という意見もあるだろう。しかし研究者によると、たとえ化学構造が似ていても、まったく違う匂いを示すことがあるという。

つまり、嗅覚空間は非ハウスドルフなのではないだろうか?
厳密に表現すれば、人間の嗅覚が認識する数百万種類の匂いを元とする集合に対して、我々人類が「自然な形で」位相を導入することで形成される「嗅覚位相空間」は、著しく非ハウスドルフなのではないか。

分子構造が異なると匂いも異なる

西洋文化では、「AはAである。Aは非Aである。」のどちらかの二択を迫り、その間は存在しない。これを「排中律」といい、数学的に言えば「ハウスドルフ性」である。

しかし、東洋文化においては別の思考様式が存在する。

竜樹は「ジレンマ(二つのレンマ)」を超えた「テトラレンマ(四つのレンマ)」を発見した。それは、「AはAである。Aは非Aである。AはAであり、且つ、非Aでもある。AはAでもなく、非Aでもない」の四つの原則から成る思考様式を指す。これは数学的に解釈すれば、著しく非ハウスドルフな性質を帯びる。

ここにおいて重要なのは、ハウスドルフ性は我々の空間認知の根源であるということだ。ハウスドルフである空間には、距離が導入できる。空間的な距離は「遠近感」を生み、時間的な距離は「過去、現在、未来」の認識を生む。

さて、嗅覚に戻ってくると、嗅覚が織りなす空間そのものに距離を導入することはできない。(※3)カルダモンとジャスミンの間の距離と、ジャスミンとキンモクセイの間の距離とを比べることはナンセンスである。

ここで思い出したいのは、嗅覚は我々の感情と密接に関係しているということだ。幸せや喜びなどの感情に対応するような香り、怒りや苦しみなどの感情に対応するような悪臭を、私たちは容易にイメージすることができる。(※4)この事実は、嗅覚に対する認識を深く探求すれば、我々の感情の織りなすエモーショナル・ランドスケープについても深い知識を得ることができることを示唆している。

現代を生きる人間は何らかの意味で空間的認識に執着している。ここで言う空間的認識とはすなわち、ハウスドルフ空間であり、つまりは排中律から生み出されるハウスドルフ性に基づく距離を導入でき、ルベーグ測度を導入して量を測れる空間のことである。しかし、竜樹の説いたテトラレンマが織りなす「空」は一切の空間的・量的認識を拒絶する。ベルクソンがアインシュタインの時空論に対して、「時間を空間と同じく扱うのは何事か!」と激しく拒絶したのもそれと関係がある。

「空」は遠くにあるものではなく、私たちは毎日それを感知している、と思うと、ぞくぞくする。空間的形象を私たちに押し付ける一切の視覚を絶ち、嗅覚に意識を集中すれば、約400個の受容体が感知する数百万種類の香りが織りなす非ハウスドルフ空間に参入し、空の世界を感得することができるかもしれない。

※1 もちろん、意図的に位相の粒度を調整することで、疑似的にハウスドルフ性を創り出すことは可能である。たとえば、「円の形状が占める割合が50%を超えたら円墳、下回ったら方墳」というルールに基づいて位相を定義すれば、両者を分離する位相はやすやすと設定できる。しかし、ここで言っているのは、「人間が自然に導入している位相において、ハウスドルフ性が成り立つかいなか」である。

※2 トーラスの形状を、それを特徴できる複素数によってマッピングした空間を「タイヒミュラー空間」と呼ぶが、「立体形状⇔平面上の一点」に対応させる概念として参考になるかもしれない。

タイヒミュラー空間上の移動はトーラスの連続的変形である

※3 もちろん、物理的な匂いの配置によるランドスケープを空間的に認識することは可能である。しかし、これは「匂いが配置されたユークリッド空間」であって、「匂いそのものが織りなす空間」とは根本的に違う意味であることを注意しておきたい。

※4 不思議なことに、感情が「快・不快」の二元的な指標によって分類できるように、匂いも「いい匂い・臭い匂い」という二元的な指標によって分類できる。ここにおける二元性は、今回の論考の範疇を超えるものであるが、容中律的な世界観においても善悪がありうる可能性を考察させる意味で興味深いと言えよう。


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