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信仰は弱者がすがるものか?

現代社会において、何らかの信仰を持っていると、少なからぬ冷笑の対象となることもあるでしょう。

彼らは言います、「信仰とは弱者がすがるものだろう、私には必要がない。信仰を必要としているお前はすなわち弱者なのである」と。

そうした嘲笑に対して、「いや、信仰は弱者だけのためのものではない。むしろ強き者のためにこそあるのだ」と反駁する信仰者の方もいらっしゃると思います。もちろんそうでしょう。

しかし私はあえて、別の答え方をしたいのです。
「はいそうです、信仰とは弱者がすがるものです」と。

しかしこの言葉には続きがあります。
私を含めこの地上に生きるあらゆる人間は弱者なのです。もっと正確に言えば、愛に目覚めたあらゆる人間は、絶対的な弱者としての自分を発見せざるを得ないのです」と。

もちろん彼らはニーチェの本を携えて反駁するでしょう。
「なぜ私が弱者であるとあなたが断言できるのか?」と。
「私は少なくとも、そう言うあなたよりは強いという自信がある」と。

ここで私が言う「弱さ」とは、人と比べて「強い・弱い」といった意味での弱さではありません。人間として生まれたもの全てが必然的に抱える、弱さなのです。

あなたはあなたの人生の途上で出会うすべての人間の傷を、超人の如く癒すことができるでしょうか? できないでしょう。

あなたはあなたの人生の途上で目撃するすべての社会の矛盾を、超人の如く消し去ることができるでしょうか? できないでしょう。

あなたはあなたの人生の途上で出会うたった一人の愛する人を、本当の意味で理解しきり、本当の意味で幸せにしきることができるでしょうか? 

できないでしょう。

できると思うなら、あなたはまだあまりにも未熟なのです。そして未熟であるという点で、あなたが弱者と罵るすべての信仰者よりももっと脆い精神の持ち主なのです。

私が言う弱さは、競争に敗れた者の傷の舐め合いではなく、それはむしろ、本気で他人のために涙を流したことのある人間が感じる無力感に他なりません。

この視点から見て、私はニーチェの超人思想が、「強がり」に思えてなりません。彼は結局のところ、超人になることはできず、超人になろうと「力んでいる」にすぎないのです。その強さ、あるいは「強がり」の中には、精錬を経る前の銑鉄のごとき脆さがあります。

自らの弱さを自覚して、神の前に平伏す時に人は本当の意味で強くなるのであり、それはソクラテスが無知の知において最高の賢者となったのと同じです。

その強さとはあたかも、加熱と冷却のサイクルの中で何度も自らの結晶組織を破壊しながら鍛えられる鋼鉄のごときしなやかな強さです。

強くあろうとする努力をすればするほど、人間は弱さを自覚せざるを得ないのです。

信仰とは弱者がすがるものです。
しかし、ここでいう弱者は、あなたの想像している「弱者」ではありません。
その弱者は、世界のすべての人の傷を癒そうとし、世界のすべての矛盾を消そうとする者、その愛の殉教の過程で、自らの弱さを自覚せざるを得なかった人間のことを指します。
キリストの「弱さ」の奥にある本当の強さを見抜けないニーチェの哄笑は、近い将来にその脆さを露呈することになるでしょう。


上記の文章は、オリジナルの文章が極めて誤解を招くテキストだったため、伝えたいニュアンスを正確に反映させるために大幅な改訂を行いました。
しかし、オリジナルの文章の方が理解しやすい方がもしかしたらいるかもしれないと思い、こちらに掲載させていただきます。

「信仰は弱者がすがるものだ」、という言説があるが、
「そう言うあなたは強いのか?」と私は問い直したい。
自らの本源的な弱さを自覚していない人間が、本当の意味での強さを手に入れることはありうるのだろうか?
自らの弱さを自覚する時に人は本当の意味で強くなるのであり、
それはソクラテスが無知の知において最高の賢者となったのと同じである。
ここでいう弱さとは、競争に敗れた者の傷の舐め合いを意味しない。それはむしろ、強制収容所の極限状況に追い込まれた人間や、大自然の暴力の前に立ち尽くした人間が垣間見るものである。相対的な弱さではなく、絶対的な弱さであるとも言える。
ニーチェ的傲慢の中を生きる人は、キリスト的神の弱さへの嘲笑の中に潜む自らの本当の弱さに気づいていない。彼らは結局のところ、超人になることはできず、超人になろうと「力んでいる」にすぎない。その強さ、あるいは「強がり」の中には、銑鉄のごとき脆さがある。
とはいえ、宗教に入る者の全てが、このような本源的な弱さの深淵を覗き込んでいる、とは到底思えない。彼らの自覚する弱さは、容易に傷の舐め合いのような弱さに転落しうる。それを指して人が嗤うのは、あって然るべきことでもあろうかと思う。
信仰は弱き者のためにある。それは事実だ。
それを否定して、強き者のための宗教という、ある種のマッチョイズム的言明に走る必要はない。なぜなら、自らが弱き者であることを自覚した時に初めて、人は強くなれるからだ。
その強さとはあたかも、加熱と冷却のサイクルの中で何度も自らの結晶組織を破壊しながら鍛えられる鋼鉄のごとき強さである。強くあろうとする努力をすればするほど、人間は弱さを自覚せざるを得ない。その絶え間ない緊張状態の中で、人間は心を鍛え上げていくのだと思う。

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