脳性麻痺のにゃおちゃん〜小学校時代〜

みなさん、こんにちは!
にゃおちゃんです。

小学校時代は一般の小学校で6年間普通学級にいました。

入学前は障害児学級に入るだろうと周りが思っていたので見学に行った記憶があります。

ですが、両親の「健常者の子たちと同じように勉強させてあげたい」という気持ちと私自身も障害児学級を見学してあまり行きたいとは思わなかったので、学校にお願いをして普通学級に入れてもらうことになりました。

同級生とは幼稚園時代から一緒だったので、楽しく過ごすことができていました。

幼稚園時代とは違うところは介助員さんを付けたことです。
今でいう、支援員さんですかね。
当時は障害児を受け入れることが珍しかったので、介助員さんを付けることも想像ができなかったみたいです。
両親が学校に説明と要望をお願いをしたと聞いています。
よく、両親と学校とが揉めていました。
それから、校長先生が異動する度に私は校長室に呼ばれて挨拶をしていました。

学校の先生と同級生全員からは、◯◯ちゃんと幼稚園時代のように下の名前で呼ばれていました。
高学年の時、女の子に「◯◯ちゃんって男子からにも呼ばれて恥ずかしくない?」と聞かれたことがありました。
その呼び方が普通になっていたので、全然そんなこと感じたことがありませんでした。

低学年〜中学年までは母親が自転車を運転して送り迎えをしていました。
私を後ろに乗せて。
人権学習で私のことを作文に書いてくれた女の子がいました。
作文には「◯◯ちゃんは、いつもお母さんが自転車を運転する後ろに乗って登校してきます」と書いてあるのを読んで思わず笑ってしまいました。
確かに本来なら幼児が乗るところに私が乗って登校してきてるもんね笑
よく見てるなと思いました。

高学年は車椅子に乗って登下校をしていました。
さすがにママチャリの後ろには乗れません笑
学校の中はPCWで過ごしていました。

途中から母親が働き始めたので、下校はおばあちゃんが迎えに来て一緒に帰ってくれていました。
おじいちゃんも車で迎えに来てくれる時もありました。

低学年の教室は一階、中学年の教室は二階、高学年の教室は一階でした。
中学年の時は二階のままにしてほしいと学校にお願いをして、高学年の時は足の痛みが出始めていたので、学校に無理を言って一階にしてもらいました。
二階の階段には、私のために反対の壁にも手すりを付けてくれました。
トイレも一階と二階に洋式トイレを作ってもらい、運動場に行く手前に階段があるのですが、スロープを付けてもらいました。

クラブも入っていました。
4年生の時は料理クラブ。
5年生の時はパソコンクラブ。
6年生の時は手芸クラブに入っていました。
楽しかったですよ(*´꒳`*)

私がいるからといって、特別、授業や行事を変更することはあまりありませんでした。
その方が私にとっても同級生にとっても良いことだったと思います。

自然学校も4泊5日で行きました!
前半は母親が泊まり、後半は障害者施設の職員に依頼して泊まってもらいました。
今はそんな依頼できないと思いますが・・・

修学旅行も行きました!
この時は自然学校と同じ障害者施設の職員さんに1泊2日来てもらいました。

マラソン大会も同級生と一緒に走りました!
同級生はトラック一周か二周走ってから外に出ますが、私はちょっとハンデをもらって、外に出るところから走っていました。
これを5年生まで走りました。
6年生の時は足が痛かったので、トラックだけ走ると先生に言いました。
よく、夜に父親とマラソンの練習をしに行きました。
私の兄弟も今になっても「お前、よく走ったよな!5年生まで!」とか言われます笑

運動会も6年間みんなと一緒にしました!
組体操もできる範囲でさせてくれました。
リレーも。
ダンスも。
全部。
あ、ムカデ競走だけ見学だったと思います。

給食当番もやりました。
ごはん、パン係と牛乳係。

みんなと同じようにテストもし、居残り学習もやりました。

私の机は普通の机ではなく、教科書が出し入れしやすいように机の真ん中が上下に開くようにして、鉛筆とか床に落ちないように角を付けてもらいました。
特注です。
たしか、OTの先生に相談して装具屋さんに作ってもらったと思います。

6年生の時、介助員さんが嫌で学校に行かなかった時期がありました。
服装のこととか髪の長さ、いろいろ言われて嫌になりました。
この頃からだと思います。
ヘルパーさんというか、介助してくれる人が嫌いになったのは。

小学校の時にいてくれた介助員さんは出入りが多かったんです。
1年生〜3年生の介助員さんはとても優しくていい人でした。
家に遊びに行ったことがあります。

4年生〜5年生の介助員さんはあまり好きではありませんでした。
同級生のみんなと仲良く話したり遊んだりしていたので。

6年生の介助員さんは2人体制でした。曜日で来ていました。すごく嫌でした。
それしかありません。

学校に行かなくなった時、6年生の担任の先生が私の家に来ました。
「介助員さん、学校で待ってるで」と。
手紙も渡されました。
ですが、私は介助員さんのことが許せませんでした。
担任の先生も私の気持ちが分かっていないと思いました。
両親が学校に行って苦情を言いに行きましたが、話を聞いてもらえず、ただただ学校に来いとの一点張りでした。
それから仕方ないと思い、学校に行くようになりました。
同級生のみんなは、心配してくれていました。
一部の子は介助員さんが理由ということを勘づいていました。

そんなこともあった中で、卒業を迎えることができました。
本当に同級生のおかげだと思います。
みんな、ありがとう!

中学3年生の時、みんな一緒なのは最後だからと地元の中学校の運動会に母親と行ったことがあります。
学校に行くと、「◯◯ちゃん!?◯◯ちゃんやで!」とみんながざわつきました。
嬉しかったです、覚えてくれていて。
男子も「俺のこと覚えてる?」と声を掛けてくれました。
みんなで写真を撮ったり喋ったり楽しかったです。

成人式も頑張って振袖を着て行きました!
みんな、覚えてくれていました。
嬉しかったです。

今でもどこかでばったり会ったら声を掛けてくれます。
男子も。
SNSでも数人繋がっています。
結婚して子供もたくさんいる子もいます。

みんなにとって、私の存在は大きかったのかなと思います。
本当にいい環境で過ごせたなと思います。
一番、楽しかった時代です。

みんな、これからもよろしくね!

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