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【短編小説】④ 壁を越えろ!

香(かおり)は、大きな欠伸をした。
部下の営業員達からの業務連絡待ちとはいえ、午後6時から深夜1時まで、誰もいない社内で、1人でテレビを観たりして、時間を潰していたのであるが、退屈すぎて、油断すると睡魔に襲われそうだった…。
ーー…ったく、仕事とはいえ、毎日毎日、やり切れんな…ーー
たまに夜10時頃、会社に訪問してくる8歳年下の保険会社の営業員の葵(あおい)から電話がかかってくるのであるが、そのタイミングで外回りしている営業員達からも業務連絡が入る為、いつもろくに話も出来ないまま、電話を切ってしまう。

この日も、ドラマが終わり、夜10時半頃になってから、葵から電話がかかってきた。
“部長さん、元気?”
「おぅ、葵ちゃん。仕事、きばっとるか?」
“…今、病院なの…”
葵の声は、落ち込んだような口調になった。
「えっ? なしたんや?」
“アキレス腱、切れそうになって、ギブスして、入院する事になったの…。3週間ぐらいかかりそう…”
「大丈夫か…?」
“…風邪もひいちゃって、もう、踏んだり蹴ったり…。風邪薬飲んだけど、食べ物の味、何も感じなくなって…。本当、死にそう…”
「…あのなぁ〜…、何でそう、すぐ死にそうって言うんっ? ったく、気ぃしっかりしとらんとダメやろっ!」
香は、若干イラッ!として、葵に説教っぽく言ってしまった後、その勢いで電話を切ってしまった。
ーー何で、ああやってすぐ、死ぬ死ぬって言うんやろな…ーー
香はまた大きく欠伸をすると、次の瞬間、睡魔が襲ってきて、スゥッ…と寝落ちしてしまった…。

ガンッ…! ガンッ…!
「んんっ…?」
香の後方から、激しく何かを叩く物音が聞こえてきた…。
目を開けて振り向いてみると、そこには、左脚にギブスをし、松葉杖をついている葵がいて、何故か大きなハンマーを持って、灰色の分厚くて頑丈そうな壁に、何度も叩きつけているのである…。
「葵ちゃん、何しとんのやっ?! 脚痛くして入院したって言っとったやろっ?! そんなん持ってたら危ないやろっ?!」
香は、葵からハンマーを取り上げたが…、
ーーおっ…、重っ…?!ーー
そのハンマーは、思っていたよりかなり重かったので、すぐに自分の横に置いた。
「何するんですか、部長さんっ!」
「葵ちゃんこそ、こんな壁叩いて、一体どうすんのやっ!」
「ここから脱出する為に決まってるでしょっ! 邪魔しないで下さいっ!」
葵は、普段とはまるで別人のように、香に向かって怒鳴り散らした。
すると…、
葵の声を聞きつけ、警備員らしい男達が駆けつけてきた。
「またお前かっ! 脱走はこの国の法律で死刑だぞっ!」
「何でよっ! どうしてここから出ちゃダメなのよっ!」
「とにかく、危険だからだっ!」
「どうしてよっ!」
葵と警備員がもめているのを、香はポカンと呆れた表情をして見ていた。
やがて、警備員は、ハンマーを没収し持って行ってしまい、葵は不服そうな表情で「チッ!」と舌打ちすると、壁を見上げた…。
ーーこれって、きっと、夢なんやな…?ーー
香は、薄々、夢の中だという事に気付いてもいて、自分にそう言い聞かせると、葵のそばに寄り、ポンッと軽く葵の肩を叩いた。
「葵ちゃん、ムリせんどいた方がいいで…。こんな事せんと、早ぅ脚治して…」
香がそう言い終えないうちに、葵は、パシッ!と香の手を払いのけ、キッ!と鋭い眼つきで香を見た。
「私はっ…、もう、イヤなのっ…! この国の法律は、確かに自由よ? でも、この灰色の壁の向こう側に、一体何があるんだろうって、毎日考え続けていたら、居ても立ってもいられなくなったのっ…! みんなは、何も疑問を感じてないみたいだけど…、私、この国から出なきゃいけないって、そんな気がしてきて…」
葵はそう言うと、今度は、どこからか銃を持ってきて、壁に向かって撃ち始めた。
が…、
警備員が銃声を聞きつけて再び来ると、葵が持っていた銃を取り上げて行ってしまった…。
「葵ちゃん、いい加減にしろやっ!」
「イヤよっ! やめたら私、一生後悔しそうな気がするのっ…!」
「あのなぁ…、それは、そんな気がするだけや、きっと…。悪ぃ事言わん、諦めるんや、なっ? 死刑になったらどないすんのやっ?」
香は、葵の手首を掴んで、そのまま抱き寄せ、説得し続けた。
すると…、
葵は、香の顔を見上げると、まるで軽蔑するような眼差しを向けた…。
「…部長さんは、そうやって、ムリだと思ったら、すぐに諦めるんですね…。他の人達もそう…。みんな、子供の頃に描いていた夢を、少しずつ諦めていって、大人になろうとしていくのよ…」
「何言うとんのや、そんなん当たり前やろ…。大人にならへんかったら困るやんか…?」
「どうして…?」
「どうしてって、それは…」
香は、葵を説得するはずが、葵の問いかけに言葉を詰まらせ、考え込んでしまった。
ーーだって、それが普通やんか…。どうしてって、理由なんかないやんか…ーー
そんなふうに考えているうちに、葵は、いつの間にか香から離れ、長いロープを勢いよく壁の上にある鉄格子に引っ掛けると、松葉杖を別のロープで背中に括り付け、ギブスをした左脚を庇いながら、ロープを伝い、壁をよじ登っていた…。
「えっ…?! あっ…! 葵ちゃんっ…?!」
香は、葵を見て、ハッ!と我に返ると、葵を見上げた。
「部長さん、止めないで下さいっ! 私、どうしても、この壁を越えて、行かなきゃ行けないのっ…!」
「こんな事して、向こう側が危ないトコだったらどうすんのやっ! 悪ぃ事言わんから、戻って来ぃっ…!」
香は、ロープの下に来ると、必死に葵を止めようとした。
が…、
葵は、振り向いて、香を見下ろすと、
「…それでも、行くわ、私…。本当に自分がやりたい事を、諦めない為に…」
そう言うと、再びロープを伝って壁をよじ登り、灰色の壁の上に着くと、壁の向こう側に広がる光景を見て、目を輝かせ、ニコッと微笑んだ…。
そして、香を見下ろすと、
「じゃあね、部長さん…」
と、少し寂しげな表情で手を振ってから、ロープをたぐり寄せ、反対側に降ろし、葵は壁を越えて行ってしまった…。
ーー葵…ちゃんっ…ーー
香の目に、涙が溢れ…、
その時、香は、泣きながら目を覚ました…。


数日後の週末…、
香は、葵から予め訊いていた入院先の病院へお見舞いに来た…。
病院に来る途中、葵の好きそうな甘い洋菓子を購入し(普段、香は殆ど甘い物を食べないので、洋菓子店の店員に見繕ってもらったのであるが)、葵が入院している病室の前まで来た…。
ーー他に誰も、来てへんやろな…?ーー
香は、念の為、周囲をキョロキョロと見渡した。
ーー葵ちゃんのトコの人間に見つかって、変に誤解されても面倒やしな…ーー
香は、病室の近くに見知った人がいない事を確認してから、静かにドアを開け、病室に入った。
そして…、
葵を見つけたのであるが…、
ベッド脇にある点滴スタンドから、点滴を下げられていて、葵はぐっすり眠っていた…。
ーー何か、やつれたな…ーー
葵は、余程仕事のストレスが溜まっていたのか、顔が少しやつれ、疲れ果てているように見受けられた…。
「う…んっ…?」
香の気配に気付いたのか、葵は目を覚ますと、目の前に香がいたので、目を大きく見開いて驚いた。
「…っ…?!」
「そんなん驚かんでもっ…」
「ぶっ…、部長さんっ…?! ダメですって、こんなトコ見られたら、あらぬ誤解をっ…」
「心配せんでもいいって…。休日やし、葵ちゃんトコの人間も、さすがに来んやろ…?」
そう言いながら、香は、ベッド周りのカーテンを閉めてから、葵をギュウッ…と抱きしめ、優しく頭を撫でた。
「…部長さんっ…」
葵は、入院してから一切化粧をしておらず、この日もスッピンだった為、香に顔を見られるのが恥ずかしかった事もあり、うつむいたままだったのであるが…、
それを察してか、香は、いたずらっぽく微笑むと、葵の顔を両手で覆い、クイッ!と顔を上に向け、葵の顔をまじまじと見た。
「…何や、いつもと違うと思ったら、スッピンなんやな…」
「みっ…、見ないで下さいっ…」
「葵ちゃん、ベッピンさんやん…。スッピンだと、高校生ぐらいにしか見えへんけど、めんこいやん…」
「…っ…?!」
香の言葉に、葵はカァーッ…と顔が真っ赤になった。
「そんなお世辞はっ…」
「お世辞言わんの、葵ちゃんも分かっとるやん…」
「…〜っ…」
葵は恥ずかしさのあまり、香の顔をまともに見れなかった。

少し経って、点滴が終わると、葵はナースコールボタンを押した。看護士が来て点滴の針を外し、点滴スタンドごと持って行くと、香は再びベッド周りのカーテンを閉めた。
「葵ちゃん、点滴、いつからなんや…?」
「入院してからずっとです…。病院食食べても、味がしなくなって、食欲落ちてしまって…」
ーー恐らく、ストレスやろな…ーー
そう思いながら、ふと、香は、枕元にあったノートや落書き帳を見た。
「…何や、葵ちゃん、絵ぇ描いてたんか?」
「あっ…、これは、そのっ…、入院してから、食欲はなくなったんですけど、何もする事なくて…」
葵は、慌ててノートや落書き帳を隠そうとしたが、香は隙をついて、1冊手に取って見てみた。
「…へぇ〜…、上手いもんやないか…」
その落書き帳に描かれていたのは、鮮やかな色に塗られた人物画だったり、4コマ漫画のように描かれたイラストなど、様々なパターンのイラストだった…。
「上手くなんかないですよ…。私、2歳上の姉がいるんですが、小さい頃から、いつも姉の描いた絵ばかり褒められて…、私のは、母もだけど、誰からも褒められた事なんて…」
「そうなんか? この絵、葵ちゃんらしいと思うで?」
「…部長さん…」
葵の目に、涙が溢れてきた。
「葵ちゃんのお姉ちゃんの絵、見た事ないけど、葵ちゃんの絵だって、ボクから見たら、上手や思うで? ボクなんか、こんな絵、描けって言われても描けへんよ…?」
そう言いながら、香は更に、落書き帳以外のノートも手に取り、開いてみた。
1冊には、小説らしいものがびっしり書かれ…、
もう1冊には、オリジナルの詩のようなものが書かれていた。
「おもろいやん、これ…」
「ド素人の、時間潰しに書いただけのものですよ…」
葵は、ハァーッ…と深く溜息をついた。
「…葵ちゃん、自己肯定感、めっちゃ低すぎんのやないか? 絵も描けて、小説も書けるとか、スゴい事や思うで?」
「私、小さい頃から、絵を描いたり、空想した話を書いたりするの、好きだったんです…。でも、絵は姉の方が上手で、私は、見たものをそっくりに描けないから、従弟達からも褒められた事ないし…。それに、小説とか詩も、頭に思い浮かんだ事を走り書きみたいに書いているだけで、誰にも見せた事ないんです…」
「…。」
ーーいつも自信無さそうだとは思ったけど、ここまでやったとは…ーー
香は、葵が普段から自信無さげでオドオドしていた理由を、ようやく理解した。
「葵ちゃん、謙虚も度が過ぎると、イヤミやと思われるで?」
「えっ…?」
「こんな、ベッピンさんに生まれただけやなくて、絵も描けて、小説も書けるとか、恵まれ過ぎてて、嫉妬するやん…」
「そんな事っ…」
「もっと、自信持ったっていいと思うで?」
香は、諭すようにそう言いながら、ふと、数日前に見た夢の事を思い浮かべた。
ーーあの夢は、ひょっとして…ーー
夢の中で見た葵は、別人かと思う程(いや、むしろ、夢の中の葵が、本来の姿なのかもしれない)、自分の思った事を行動に移していたし、何より、活き活きとしていた。
今、香の目の前にいる葵はといえば…、
まるで、生きていく事そのものに疲れ果てていて、危うく見えていた…。
香は、意を決したかのように、葵を見つめた…。
「葵ちゃん、今の仕事、キツいんやないか?」
「えっ…?」
「…前々から思ってたんやけど、葵ちゃん、営業、向いとらんで?」
「…やっぱり、そう思います…?」
葵は、香の言葉が当たっているだけに、否定出来なかった。
「以前いた会社の社長に嫌気さしていた頃、今の上司が、会社に営業で訪問していて…、相談しているうち、引き抜かれて…。でも、実際に営業で回ってみたら、思った以上に大変だし、なかなか契約も穫れなくて…」
「体も心も、悲鳴上げとるやないか…」
「…。」
「なぁ、葵ちゃん。入院中に、転職考えた方がいいと思うで? アキレス腱痛ぅなったんなら、外回りも今までみたいに出来へんやん? それを理由に、辞める事出来ると思うで?」
「でもっ…」
「まだ若いんやし、すぐ次んトコ見つかると思うで? このまま退院したら、またストレス溜め込んで、苦しむんやないか?」
香は、まるで背中を押すかのように、葵に今の仕事を辞めるよう促した…。

その日の夜…、
葵は、ベッドに横になっていたものの、香に言われた事が頭から離れず、なかなか寝付けずにいた…。

翌朝…、
葵は、いつの間にか寝落ちしていたらしく、目を覚ました頃には既に午前10時を過ぎていて、朝食を乗せたトレーがベッド脇のサイドテーブルの上に置かれていた…。
ーーどうしよう…、まだ全然、食欲ないんだけど…ーー
そう思いながら、葵は、白米のご飯を一口食べてみたが…、
「…。」
ーーやっぱり、まだ、味がしない…ーー
葵自身、普段は薄味のものを食べ慣れているのであるが、風邪薬の服用と、日頃のストレスが重なり、味覚がまだ戻っていなかった…。
ーーでも…、今のままじゃ、私が、私でなくなってしまうっ…ーー
葵は、悔しさが込み上げてきて、涙を流し、同室の他の入院患者に気付かれないよう、ベッド周りのカーテンを閉めると、声を押し殺しながら泣いた…。

3週間後…、
葵は、退院してから、一旦会社へ顔を出し、直属の上司と所長に『退職届』を提出した…。
「…どうしても、辞めるの…?」
「はい…。脚も、これから通院してリハビリしないとならないですし…、病院からも、これ以上脚を酷使するのは危険だと診断書も…」
そう言いながら、葵は、担当医からの診断書のコピーを見せた。
「私、車の免許もないから、運転出来ないですし、脚がこんなになってしまったら、今までのように歩いての営業活動は…」
「…それなら、仕方ないわね…。残念だけど、営業は歩いて新規開拓して、1件でも多く契約穫らなきゃならないんだから、長時間歩けないなら、もう無理ね…」
所長は、案外とあっさりとしていて、葵の事はもう用無しとでも言いたげに、突き放すように言い放った。
一方、直属の上司はというと…、
「ねぇ、葵さんっ…、歩けないなら、私が車を運転して、私の長年の顧客を紹介する事だって出来るし、1日中じゃなくて、午前か午後のどちらかだけ新規開拓すれば…」
そう言いかけたのであるが…、
所長は、黙ったまま、首を横に振った。
「所長っ…」
「…時間の無駄よ…。引き止めようとしたって、葵さんはもう、辞める決心をしているんだから…」
「でもっ…」
「それよりも、今月も新人さんが大勢入ってくるんだから、その子達を育成しましょう…」
「…〜っ…」
「…短い間でしたが、お世話になりました…」
葵は、2人に深々と頭を下げてそう言ってから、会社で使っていた自分の備品を整理し、不要なものを同僚に譲ったりしながら、社内にいた人達にも挨拶をし、会社を後にした…。

数ヶ月後…、
香は、本社からの辞令で、札幌から本社のある名古屋へ異動となった…。
葵からは、退院後に一度電話があったきりで、他の営業員から葵が退職した事を聞かされていたので、葵とはそれっきり会う事がないままになっていた…。

更に、半年後…、
香のもとに、1冊の本が届き、同封されている手紙を見ると、香は、安心したような表情で笑みを浮かべた…。
その本は、葵が執筆した小説だった…。


※2024年4月16日、作(旧:1993年11月6日、作)

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