決まってしまった人生 どこにそんなものあるんだ

なにがあっても、そこからスタート。

なにがあっても、そこから生きていくしかない。

優秀で真面目で気の利いた、学生時代の友人が、職場でうつになり転職を2度くりかえした。もっと、世界に羽ばたくような人だと予想していた。この現実は、すごく悲しいことだ。

一方で、わたしにとって力にもなってくれる。包み隠さずいえば、今いる自分の地位は、予想していたよりもずっと下。なにか具体的な将来像をえがき、それが挫折によって実現できなかった、というのではない。なにも描かず、漠然と未来を夢想していたのだ。

だから、いくら優秀だからって輝く未来をあるいていくとは限らない、という理論を補強してくれる友人は、安心のタネだ。

そんなことを言っても、なんにもならない。本当に、なんにも。だれにも幸せを運ばないし、自分も幸せになれない。

だけど、安心するんだ。

大企業に入って、すぐ退職して、非正規の仕事について、でも定着できずにいるって、どんな人生なんだろう?

なんでもかんでも「人生はそんなに甘くはないよ。つらいものだよ」と説明をつける風潮が、わたしは好きじゃない。そうやって、楽にならないことを是として生きていたら、だれもが苦しいままで、そんなの絶対によくない。

そんなわけで、彼女と私、どちらが楽しい人生で、どちらがつらい人生だろう、と判断することには意味がないのだけれど、同い年の独身の能力ある女性が、正規の仕事をやめても、そのあともちゃんと生きているんだってことを知ると、

つらいんだったら仕事はやめてもいいんだ、と許された気持ちになる。状況はなにも変わらないのに、許された気持ちになる。明後日、辞めよう。だから、明日は行こう。そんな繰り返しの毎日。でもそのことが、どんなに人生を軽いものにするか。

きっと、わたしには見えない、大きな苦労が、彼女にはある。それは間違いない。だからといって、自分の人生の苦労を、「彼女のほうが頑張っているのだから、こんなの楽勝」と軽視することができたら、ね。

だれもが苦労している、という言葉を「みな、人に言えないつらさを抱えながら、平然とした顔で生きている」と言い換えた人がいた。それが真実なら、こんなにつらいのは自分だけじゃないんだ、と安心する。

一方で、「そんな言葉もあるよね。けど私は、いま幸せだし、人生は楽しいよ」と平然とした顔で言ってくる友人がいると、

「苦労を我慢することが、立派なことじゃないんだ」って思い知らされる。

周囲の人々の思考こそが、自分の思想をかたちづくる。「みんな苦労しているのだから、あなたも苦労して当然でしょ」といわれたら、そこまで強靭な反骨精神はなくて、しおしおとそれに従う。

そんなことはない、と言い張って夢を追って出ていった人のことを、軽蔑し、国民年金ちゃんと払えよ、なんて皮肉っている。

ネットで検索して、自分の意見の味方をどんなにたくさん集めたって、現実世界の人間には敵わない。やっぱり、現実は現実味がある。ことばだけじゃない、その状況をとりまくすべての情報が、思想をかたちづくる。

「人生とは、そういうものよ」

この言葉に、勝つか負けるか……いや、勝ち負けではない。そういうものである証明、反対に、そういうものではなかったという証明。現実的なカードを何枚集められるか、だ。

そういうものだ、と思っていなかったから、公衆電話を持ちあるく今が、あるんじゃないのか。

「人生とは、そういうものかもしれない」と思い始めていても、そこからがスタート。そういうものである証明物、そういうものではなかったという証明物。

どちらを選ぶかは、今から決められる。


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