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誰のせいでも大丈夫

子供がいうところの「できない」は、大人にとってはなんてことない事だったりする。

たとえば、工作に必要な、かたむすび。こぶむすびとも言う、紐のむすびかた。

たとえ、かたむすびを知らないまま、大人になったとしても、やりかたを動画や図解でみれば、多くの人は、自分ひとりで再現できる。

「いちばん初歩的な、ひもの結びかた」と一言ついていれば、余計に、上達は速いかもしれない。

「できない」で工作を中途半端に放りだす子供も、けっこういる。

けれど、ちょっとまって、もう少しおちついて、トライしてみないかい?

その課題はほんとうに、むずかしいから、「できない」?

「できない」と言う子供は、だれもができるかたむすびのことを、本当に難しくてできない、と信じてる。でも、それは勘違いなんだ。そのことを大人は知っているはず。

子供の「できない」と、大人の「できない」は、おおきく違う。子供は、能力的に自分が、周囲の人間たちより劣ることを、よく心得ている。毎日、経験しているから。たとえば、背丈がたりなくて手がとどかないとか、力がたりなくてキャップが開けられないだとか。

子供の「できない」は、能力に準拠する。

そして、踏み台をつかったり、能力的に不足のない周囲の人間に、代わりにやってくれるよう頼んだりと、道具を駆使して解決しようとする。

これに対し、大人の「できない」は、まず最初に、反射的に答えを出す。なにが理由で「できない」のか、考えない。つぎに、できない理由をさがす。

たとえば転職や、距離のある転居。現状にすこしぐらい不満があっても、その環境を抜けだす手間とをてんびんにかけて、「しないほうが得」という結論を出す。何事も、状況をうごかさない方が、エネルギーを節約できる。習慣とは、エネルギー節約の最たる方法。長期的な不都合は、なるべく考えないようにする(あとあと絶対でるとしても)。

※ここでいう、子供と大人とは、20歳を境にする人間の分類ではなく、初心を持っているかどうか、とでもいえばいいだろうか? 人として擦れていないか、いるか? 処世術を身につけているかどうか? そんなところ。

「課題」と「能力」を、てんびんにかける「できない」。

「課題」と「損得」を、てんびんにかける「できない」。やろうと思えばできる、けれど、達成しても苦労にみあわないから、最初からしない。

損得を考慮することは大切だ。昨日の「損はもらっておけ」と言った舌の根も乾かぬ今日の野崎であるが、損得が人々にとって最重要課題なのは、世の中をみわたせば、明らか。

しかもそれは、ヒトにかぎった薄ぎたない話、ですらない。

この地上にいきる生命はすべて、弱肉強食のあらなみに揉まれている。

生きるためには、周囲のほかの生命を押しのけて、頂点に立つ努力をしなければならない。そのためには、より多くのエネルギーをとりこみ、より少ないエネルギーの消費で、つまり可能なかぎりのエコシステムで生きなければならない。

より多くのエネルギーを温存し、それを肉体の成長や生殖に利用できたものが、最終的にのこった、この地上なのである。

だから、損得勘定とは、通貨を開発した人類のみならず、全生命にとって、最高の価値をもった、必要不可欠な能力のひとつなのだ。そこに、疑いを挟むことはできない。

さてそうなると、

結論はけっきょく「損得勘定が、人間が成長していくうえで経験から後付けされるものでなく、もっと根源的な感覚だ。しかし人間と獣をわけるメルクマールとして、子供のこころ、初心を大切にして、前進していこうよ」って諭したいんだろう?

と思われる向きもあるかもしれない。

そうである。

しかし「できない」を「できる」に変える、その具体的な解決方法となると……? そう簡単にはみつからないだろう。見つかるなら、最初からやっている。

と思われる向きもあるだろう。そこには少しコツがある。ここからが今日の本編。「できない」を、だれのせいにするか。


だれのせい、というと聞こえはわるいけれど、自分のせいと言えば、じゃあそれは謙遜になるかといえば、どうだろう。

天災ではないトラブルの場合、原因となる人間は、2種類――自分か、他人か、のどちらか。

他人のせいにするのは簡単だが、解決は途方もなくむずかしくなる。なぜなら、他人を思うように動かすことが、むずかしいからだ。命令したところで、言うことを聞くか聞かないかは、相手のきめることである。

自分のせいにすることもできる。どんなことも、自分のせいにできる。電車の遅延によって遅刻したことを、「今日は天気が荒れそうなのに、早く出てこなかったから、自分がわるい」と。

そうすると、次回、天気が荒れそうな日は、早く出ればよい。1つめ解決。

つまり、トラブルは、だれのせいにもできる。できるが、他人のせいにすると、その理由がまっとうであれ、解決不能になる。自分のせいにすれば、それがこじつけであっても、解決可能になる。

トラブルを解決したいのであれば、「正しい原因」はなんの役にも立たない、ということを心にとどめておくのがよい。

さて、「自分のせい」にも2種類がある。それは、「原因」と「卑屈」。その言葉、ほんとうに二項対立になっている?という疑問はもっともだが、この2つでよい。

たとえば、電車の遅延で遅刻したことを、上記のように「自分の見込みが甘かったので、次からは、同じような想定外をなくそう」と考えるなら、原因と解決が結びつく。

ところが「自分の見込みが甘かったせいで、叱責を受ければそれでいい」は、卑屈である。これでは、解決につながらない。

遅刻だったら、個人的で一時的なトラブルで済む。これが、人生全体に及ぶ卑屈のばあい、本人は場を丸くおさめているつもりでも、周囲にとっては害悪でしかない、となる場合もある。

極端な例でいえば、DVがある。自分が暴力や虐待をうけていれば、他の家族は安泰に暮らせる。だから、これでいい、というやつである。

この解決方法は、まったく価値がない。

本人が、よかれ、と思っていたとしても、無価値。

無価値なんだ。だれが何と言おうと。

だれも、人が傷ついたり、いやな言葉を浴びせられたり、なにかを損ねられているところなんか、見たくもないのだ。赤の他人だって、かわいそうで、見たくない。まして、親しい人間や家族なら、なおさらだ。

「この世は、根源的に、弱肉強食だ」といった舌の根も乾かないうちからそんなことを嘯いている野崎である。

しかし、あまり深く考えたことはないけれど、それが、群れをなす動物と、そうでない動物とを隔てる一線なのだろうと、思う。

だれかが納得ずくで傷つけられ、それで何かが円滑に進んだとしても、それは解決とはいわない。傷をふくんだビジョンは、かならず禍根を残す。

自分では解決できない、自分を傷つけることで解決することにも、意味がない。そんなとき、子供の「できない」は、どうやって「できる」に変わる? もちろん、「周囲の人に助けてもらう」。


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