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人間不信タイムの翌日

昨日、僕は人間関係のキャパオーバーになりました。数こそ少ないものの、数時間おきにスマホを開くたび何件か連絡が入っていて、通知の数字を見るだけでイカれそうになる。なので昨日の夕方〜今日にかけて、じっくり自分だけの時間を堪能するつもりだった。他人との関わりに疲れてしまった僕は、ひとまず日記を書き終え「さあ、いざプライベートタイムへ」となった瞬間、何をしたかと思えばスマホを手に取りLINEを開く。我ながら理解不能な行動だった。2年ほど連絡をとっていなかったネットの友人にメッセージを送ったのだ。「ほんの10分でいいから通話をしてくれないか」と。人間はこれほどまでに自己矛盾が生じる生き物なのか。つい数分前まで人間関係をわずらわしく感じていたかと思えば、逃げた先でまた人間を求める。あるいは「人間関係に疲れた」という僕の認識がそもそも誤りだったのかもしれない。

少し話は変わりますが、僕は東京で暮らしていた頃、たまに実家へ帰省していました。幼少期〜高校生まで暮らしていた自室。大学進学のため上京したあとは、そんな実家の自室から生活感はなくなり、半分倉庫のような状態に。僕の雑多な私物が適当に積まれ、部屋の隅にベッドが鎮座していた。モノは多くとも、人が生活をしていない部屋のためさほどホコリはかぶっていない。僕は東京から帰省するたび、その枯れ果てた自室で夜を過ごしていた。とはいっても、決して哀しい気持ちにはならない。むしろ、当時の僕にとっての主戦場、現実である東京から物理的に離れて、懐かしの我が自室へと帰ってきたのだから、とてつもない安心感だ。ここには誰も攻めてこない、敵はいない、自分だけの場所だった。そして昨年、僕は東京を離れ実家に戻った。今でも自室が安心する空間であることに違いはないけれど、帰省の時に感じたソレとはまた違う。今の僕にとって、自室はプライベート空間であるのと同時に仕事部屋でもある。そして、この石川の地が今の自分の主戦場、現実なのだ。逃げ場としての地元ではなくなってしまった。僕が本当にしんどくなった時は、一体どこに逃げればいいんだろう。

さて、話は昨晩の出来事に戻ります。僕はきっと、現実の人間関係に疲れてしまったのでしょう。今の僕の実生活に関わっている人間、否が応でも現実がチラついてしまう人間との関係に疲れてしまったのだ。だからこそ、ネットを通じて知り合った友人に声をかけた。一切連絡をとっていなかった2年間をまったく感じさせないほどに、まるでつい昨日まで普通に喋っていたかのように「おう」という第一声から通話は始まる。最近観た映画、聴いたラジオ、プレイしたゲームなど、現実の生活とは関係のないくだらない話が飛び交った。今の僕が求めていたものだった。仕事がどう、結婚がどう、芸能人が、時事が政治が、スポーツが・・・もうそんなのはたくさんだった。もっと現実と関係のない話がしたかった。結果、もとは10分ほどのつもりだった通話は12時間超に及んだ。といっても、後半は通話こそ繋がっているものの、お互いほとんど喋らず各々好きなことをしていましたが。今度は、石川県を飛び出してどこか遠くにでも行ってみようと思います。そしたらきっと、今よりもう少しだけ気持ちが楽になる気がするから。

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