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【わたしのお肉、食べる?】ここは薄昏いから【百合新刊試し読み】

 〝正しい〟は、いつも私を安心させてくれる。
 背筋を伸ばして座ること。宿題はきちんとやってくること。約束を守ること。困っている人がいたら、手を差し伸べること。そういった教えに従っていると、私は〝いい子〟なんだと思えて安心できる。価値があるんだって、自分を認めることができる。あの人とは違って、私は間違ったことはしない。お母さんに心配をかけたくないから。

「ほら、食べなよ」

 だから、私は今こうして、初対面の女の子にたまごサンドを差し出している。

「いいのかな」
「おなかすいてるんでしょ?」
「うん……」

 浜辺でうずくまってさめざめと泣いている子がいた。肩で切りそろえられた金色のウェーブヘアが、潮風に撫でられてふわっと広がって、タンポポみたいで可愛い。

「わたし、海に帰りたいの」

 思わず話しかけたらそんな言葉が返ってきたので、変な子だな、と思った。
 包みから一切れを取り出して彼女に渡すと、よっぽどおなかがすいていたのか、お礼もそこそこに必死にかじりつき始めた。たまごサンドのしめったパンのにおいが、潮風に混ざって鼻腔をくすぐってくる。私も同じように、もう一切れのたまごサンドにかじりつきながら話を聞く。

「ひとりはさみしいから」

 真魚まなと名乗る女の子は、自身が人魚であることを、さも重大な秘密のようにひっそりと打ち明けてくれた。長いシフォンワンピースの裾からのぞく白い爪先に視線を向けると、真魚は慌てて「水に入ると尾びれになるの」と付け加えた。
 伏せた睫はまだ涙に濡れていて、真魚が瞬きするたびに儚くきらめく。青い瞳にさざ波が反射して、沈みかけの太陽とあいまって幻想的な空気を纏っていた。それを見ていると、思わず話を信じてしまいそうになる。きれいな子だな。

「人間と情を交わさないと、帰れないの」
「情を交わすって?」

 聞き返すと、こちらをじっと見つめて黙り込んでしまった。聞いちゃいけないことだったのかな。私が次の言葉を探していると、真魚はうっすらと目を細めて「気にしないで」と笑った。

「もう遅いから、ばいばい」

 やんわりと帰宅を促されたので、立ち上がって制服のスカートについた砂を払う。少し白くなってしまった。最悪洗えばいいか。

「うち、この近くだから、ほんとに困ってたら頼ってね」
「わかった」
「じゃぁ」
「たべものありがとう、みちる」

 私が振り返って手を振ると、真魚も笑って手を振ってくれた。

 誰もいない台所には慣れていた。
 冷蔵庫のホワイトボードに走り書きの「ごめんね」の文字と、申し訳程度にマグネットで貼り付けられた紙幣。約束を守った試しなんてないくせに、と毒づきそうになる自分が嫌になる。
 私のために働いてくれてるのはわかってたから、何も言えずにいい子ちゃんを貫いてた。台所の端に座って、コンビニで買った味気ないたまごサンドをかじる。家庭の味なんてほぼなかったけど、一度だけ、お母さんが手作りのたまごサンドを遠足のお弁当に持たせてくれたことがあった。普段料理をしないお母さんの、歪でしょっぱいたまごサンド。
 その思い出に大切にしがみつくみたいに、そうすることでまるでなにかを埋めるみたいに、時折コンビニのたまごサンドを買って食べる。しょっぱくないし、きれいにカットされて、卵もはみ出ていないたまごサンド。
 数日前に会ったあの子は、大丈夫だったのかな。
 たまごサンドを咀嚼しながら、浜辺で泣いていた女の子のことを思い出す。あそこを通るたび、また会えないかと注意深く探しているけど、結局あれ以来見かけていない。家に帰れたならいいんだけど。
 雨足がどんどん強くなって、大粒の雨が窓ガラスを強く叩く音がする。風が吹くたび掃き出し窓が大きな音を立てて揺れて、少し心細い。お風呂に入り、歯を磨いて、自分のからだを守るみたいに、布団にくるまる。そうしたら、外の音が少し遠くなって、ここは安全だって思うことができる。
 台風の日は、ひとりが強調されるから嫌いだ。
 雨風に切り取られて、外の音がそれ以外何も聞こえなくなって、この部屋の中に私以外いないんだってことが嫌でもはっきりわかってしまう。
 家の中にいつも誰もいないこと。お母さんは私が眠っている間に帰ってきて、私が起きる前に家を出ていくこと。愛されてないわけじゃないのはわかってる。私のことを愛しているからこそ、お母さんは必死に働くのだから。私が学校に通うために。家や食べ物や洋服に困らないように。ひとり親家庭だからって不自由しないように。
 昼食に手作りのお弁当を持ってくる友達が、いつも少しだけ羨ましかった。「いつも学食のお金もらえるなんて羨ましい」って言われても、でもお金があってもそのお弁当は買えないじゃん、と思う。言わないけど。私はかわいそうじゃないから、「いいでしょ?」って笑顔を作って茶化すことができる。
 波間を漂うように、おだやかな毎日を過ごす。私が〝いい子〟でさえいれば、迷惑をかけなければ、ずっとこのままおだやかでいられる。言いたい言葉は貝のように全部飲み込んで、褒められるようなことだけをしてニコニコ生きる。澱のように沈んで、息苦しさをなかったことにする。そうすれば、全部をやり過ごせるから。
 思考の波にぐるぐると巻き込まれて、寝付けそうにない。
 何かあったかいものでも飲もうかな、と布団から抜け出して台所までやってくると、雨風の音の間を縫って、インターホンの高い音が響いた。
こんな時間に誰だろう。
 恐る恐るモニターを確認すると、見知った顔が映ったので慌ててドアを開ける。

「みちる、ひさしぶり」

 髪も服もずぶ濡れの真魚が、くしゃっと笑顔を作って立っていた。
 家に上げるなり、ここにくるまでの間に濡れちゃって、と真魚がワンピースを少したくし上げて恥ずかしそうに尾びれを見せてくれたから、あれって本当だったんだ、と内心少し驚いた。室内の明りに照らされて、見慣れない異形の部分が鈍く光を反射する。
 魚の半身に変身してしまうと、やはりバランスをとるのが難しいのか、ひっくり返りそうになりながらも移動しているようだった。手で支えてやり、すぐに温めなおしたお風呂へ案内した。真魚が入浴している間にタオルと着替えを用意する。
 そういえば、友達をうちのお風呂に入れたのは初めてかも、と少し嬉しくなってしまう。友達って、呼んでいいのかわからないけど。
 お風呂から上がった真魚が、地面を這うようにしながらリビングへやってきた。

「また助けてもらっちゃったね」

 椅子を引いて座らせてあげると、照れくさそうに笑いながらお礼を言う。

「あれからもがんばってみたんだけど、うまくいかなくて……それで、今日は波が高いでしょ?」

 行き場をなくして困り果てたところで、私のことを思い出したのだと言う。
 人魚って牛乳飲めるのかな? たまごサンドも食べてたから大丈夫かな? などと考えつつ、牛乳と蜂蜜をふたり分マグカップに注いで、レンジで温めてからかき混ぜて、テーブルに置く。促すと、真魚は嬉しそうにホットミルクに息を吹きかけてちょびちょび舐め始めた。熱すぎたかな……。
 私も真魚の目の前の席に着き、ホットミルクに口をつける。リビングで人と向かい合うのは久しぶりで、少し新鮮な気分になる。

「それでね」

 恐る恐るといった様子で、真魚が話を切り出す。

「こういうとき、どうやってお礼したらいいかわからなくて」
「そんなの気にしなくていいよ。困ったときはお互い様、だよ」
「うん、あのね……」

 私の言葉を聞いていたのかいなかったのか、少し逡巡しながらも真魚が口を開く。

「わたしのお肉、食べる?」

 思わずホットミルクを吹きこぼしそうになった。動転してマグカップを揺らしてしまい、テーブルの上にミルクが飛び散った。真魚が慌てて辺りを見回す。何か拭くものを探してくれてるのかな。手で制止して、近くにあったボックスティッシュから何枚か引き抜いてテーブルを拭く。

「あのね、長生きできるようになるよ」

 そう言われて、中学生のころに図書室で読んだ八百比丘尼伝説のことを思い出す。
 ――宴会に招かれたある男が、偶然人魚の肉が料理されているのを目にする。御馳走として人魚の肉がふるまわれるが、男は気味悪く思って手を付けず、土産として持ち帰り、戸棚に保管する。それを見つけた娘は、人魚の肉であることを知らずに食べてしまい、不老長寿を得る。娘は若々しい少女の姿のまま、八百年を生きたのちに出家し、生涯を終えたと云う。

「人道的にアウトな気がするから遠慮しとくね……」
「そっか」

 人魚の肉って、人肉なのか魚肉なのかわからないし。
 たとえ魚肉として出されたとしても、こうして同じ言葉を介してコミュニケーションがとれる生きものの肉を食べるというのは、かなり抵抗がある。
 お礼なんていいから、と流したところで、身体が温まったからか、眠気を感じ始めた。今日のところは、もう眠ることにしよう。
 客用の布団なんてものはこの家に存在しないので、仕方なくふたりで布団にくるまることにした。

「少し狭いけど、がまんしてね」
「わかった」

 もう人間の足に戻った真魚と足先がふれあって、少しくすぐったい。目が合うと、真魚はくすくすと楽しそうに笑って、その笑いが私にまで伝播して、何に笑っているのかよくわからない時間が生まれて、そんな状態になっている自分たちもなんだかおかしくて、ひとしきり笑ったあと、疲れてそのまま眠りに落ちた。
 私をこの部屋に切り取っていた強い雨や風の音は、もう聞こえなかった。


11/20(日)開催の入場無料のイベント、文学フリマ東京35の少女部学私書のスペース(L-25〜26)にて頒布する新刊「たまご」に寄稿した短編の前半部分です。

JK×人魚の、ガール・ミーツ・ガールです。

スペースに置く商品ラインナップは以下の通りです。
百合とBLで新刊1冊ずつでます。

おしながき

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