見出し画像

幻想的空想的妄想的ジブリ解釈(『アーヤと魔女』編)2

『アーヤと魔女』の謎 〜その2〜
 
《このシリーズは、すでに視聴されている方を対象としています。ご容赦ください。》
登場人物
 アーヤ・ツール〜 魔女の娘。赤ちゃんの時に、子どもの家に預けられる。10歳の時に、魔女のベラ・ヤーガに引き取られ、呪文作りにこき使われる。
 ベラ・ヤーガ 〜 魔女。アーヤを子どもの家から引き取り、こき使う。アーヤに命令し、呪文作りの下働きや掃除をさせる。
 マンドレーク 〜 魔法使い。いつも、イライラして気に入らないと巨大になり怒る。小説を書くが、酷評されたり、自分の好きなものを否定されたりすると烈火の如く怒り、不機嫌になる。
 カスタード 〜 子どもの家でいつも一緒にいる男の子。子分のような存在。少し臆病。
 トーマス  〜 しゃべる黒猫。アーヤの味方になるが、怖がり。
 
 さて、前回は、粗筋と原作との違いについて触れました。今回は、アニメの内容についていろいろな想像、妄想を断片的に紹介します。(このシリーズの最後にまとめられたらご喝采です。)
 
【考えてみました・その1】
●アーヤの母の台詞とアーヤのセリフの一致
 子どもの家にいたアーヤは、幽霊パーティの夜、塔の屋上に登り、「どこもかしこもピッカピカ。窓も大きくて日当たり抜群。それに、おじさんのシェパーズパイは最高!」と言いますが、その台詞は、アーヤの母の台詞とほとんど同じです。アーヤは実際にその中にいて感じたことを言っているわけですが、母親はまるでその子どもの家に以前いたことがあるように、同じ台詞を赤ちゃんだったアーヤに話します。アニメでは、アーヤの母もこの家にいたということでしょうか。それとも、アーヤは赤ちゃんの頃から、母の言葉をインプットしていたのでしょうか(アーヤの魔女の能力!?)。
 
●アーヤの特技・観察眼(ホームズの影響?)
 アーヤの読んでいる本は、シャーロック・ホームズの本でした。ホームズものは、優れた推理が注目されますが、その本に書かれていることは、観察力の素晴らしさです。推理を可能にするのは、観察によって得られた情報(階段の段数はいくつか、とか、赤土のある場所はどこかなど)です。また、観察から得られた情報のうち、何が目的(事件の解決など)にあった情報なのかを感じ取るのはたいへん難しいことです。重要な部分を感じ取る感性が必要でしょう。ホームズは、その感性が選び出した情報を巧みに組み合わせることで、蓋然性の高い推理を行っているのです。ホームズには、この観察、重要性を感じ取る感性、そして卓越した蓋然的推理がありました。一方、アーヤも、人間観察の力と、人間の特技を見抜く力、そしてそれを表現する言葉や表情などの力が卓越しているようです。
 例えば、園長先生の喜ぶこと、子どもの家の料理長が得意なことや自慢できること、ヤーガやマンドレークの得意なことややりたいことなどを、アーヤはその観察眼で見抜いて、相手を喜ばせているように見えます。
 アーヤの才能は魔女のものでしょうか。人の欲しているもの・ことを巧みに実現させ、自分との関係を良好なものにして、最後には自分の希望を叶えてもらっています。
 アーヤにとって、ヤーガとマンドレーク、デーモンたちは操る相手としては、やりがいのある相手なのかもしれません。アーヤは、家庭に入るのは退屈で嫌だと、施設近くの塔の上で言っていました。施設にいるとたくさんの人を操ることができますが(しかし、それは本人が希望することをアーヤが実現させてくれるからではないでしょうか)、家庭ではせいぜい2、3人だからです。しかし、ヤーガたちは、どうやら簡単には操ることができないようです。これはアーヤにとり、やる気をそそる状況のようです。なんとも頼もしい子どもです。
 アーヤは、子どもの家に来て子どもたちを眺める大人たちについて、「あの子たちは、お人形さんなんかじゃないわ、生きてるのよ。眺めて楽しむもんじゃないわ」(15分15秒後)と言います。大人たちの行動と発言から、どのような人物なのかを見抜いているのでしょうか(時には見間違うこともあるかもしれませんが)。「子どもたちを物扱いしない」ということがどういうことなのかを、少なくともアーヤは感じ取って行動しているのではないでしょうか。
 
●アーヤの情報収集力・行動力
 ヤーガは、大声を出したり、脅して怖いことを言ってアーヤに言うことを聞かせようとしますが、アーヤは、ことあるごとにヤーガに話しかけ、操るきっかけを探っているようです(情報収集!)。ミミズの事件で、アーヤにもマンドレークを怒らせると恐い魔法使いであることが分かりました。アーヤの行動は、相手の行動を観察したり、周りにあるものを観察して利用できそうなものを探っています。ヤーガやマンドレークの部屋を探したり、洗面所の利用の仕方をチェックしたりと、この行動力も驚きです(ヤーガたちが利用していないと分かると、似顔絵を描いてストレス発散です)。
 
●「アヤツル」という言葉
 このアニメ、よくよく見て、いろいろ想像しますと、「アヤツル」という言葉の意味を考えさせられます。通常は、「アヤツル」という言葉は、ある主体Aの意思通りに、対象である主体Bの意思を無視して操縦することを意味しているように思います。無理やり従わせるような感覚です。しかし、このアニメでは、アヤツラレル対象B、例えば園長先生、料理長、カスタード、ヤーガとマンドレークたちを見ていると、皆、それぞれの内部にある望んでいるものがアーヤによって発現し、気持ち良くなって行動しているように見えます。確かに、アーヤが操っているわけですが、無理やりという印象ではありません。猿もおだてりゃ木に登る、とか言いますが、もともと木登りが上手な猿ですから、アーヤはその上手な行動を褒めているのです。猿の場合には、その木登りという行動が分かりやすいので、褒め方にあまり苦労はいらないでしょうが、人の得意なことや褒められたいことは、簡単に見抜けるとは限りません。人の長所、能力、器用さなど、いい面を探って、その人のいい部分を言葉で表現する、というのは、それなりの技能が必要な気がします。時には見誤って、褒めたつもりが相手を怒らせる、なんてこともあり得ます。
 
 このことから分かることは、「アヤツル」とは、決してその人の意志を無視して強制や命令で実現させることではなく、言葉(「大好き!」)や行動(抱きついたり、笑顔を作ったり)を巧みに操作して、相手の意志や才能、希望を実現させて、自分との関係を良好なものにして、逆に自分の望みを叶えていくことではないでしょうか。アニメ中では、ヤーガはアーヤに、彼女が望んでいないあれをしろ、これをしろ、と命令していましたが、エンドロールの絵では、アーヤの望み(魔法を教えること、海に一緒に行くことなど)を叶えてくれる存在に変化しています。
 ヤーガはアーヤに仕事を命令してやらせますが、アーヤは魔法を教えてもらうために我慢して従います。しかし、教えてもらえないと分かると、今度は反撃に出ます。反撃の印は、EARWIGという音楽に象徴されているようです。この音楽が鳴ると、その後アーヤの反撃が始まるようです。そういえば、このアニメの一番初めに、アーヤの母親が魔女たちからバイクに乗って逃げるシーンでは、EARWIGを歌っていました。魔女の掟から逃れ、自分の好きなように生きる、そのための脱出中に、この音楽が使われています。また、最後のエンドロールでの挿絵では、ヤーガもまたドラムを叩いていました。マンドレークも音楽や小説作りをしています。2人ともやりたいことをしているのでしょうか。
 
●「ごりっぱな」大人問題
 魔女のヤーガが作っていた呪文は、いわゆる「ごりっぱな」大人、「地球の友」や「母の会」のお偉方のためのようです。その注文は、自分の愛犬がドッグショーで優勝できるものや、主役の子どもを引き摺り下ろし、自分の孫がバレエの発表会で主役になれる、というもの、つまりは「ずる」といわれるものでした。原作では、その呪文の内容までは書かれていませんでしたが、このアニメでは、具体的な内容まで表現され、これまでのジブリアニメ(『コクリコ坂』や『ポニョ』など)に見られるロクでもない大人への批判がはっきり現れています。このことは、また、次回少しばかり検討してみたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?