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幻想的空想的妄想的ジブリ解釈・ラスト(『おもひでぽろぽろ』編)5・最終回

『おもひでぽろぽろ』の謎 〜その5〜 解釈シリーズ最終回
 
《このシリーズは、すでに視聴されている方を対象としています。ご容赦ください。》
 
※いよいよこの解釈シリーズ最後です。まあ、いろいろな締め括りがあるのかと思いますが、このシリーズでは、霧がかかって、曖昧模糊として幻想的に終わるのがふさわしいのかもしれません。すっきりしないで、申し訳ないのですが、妄想的空想的でもありますので、どうかご容赦ください。それでは、最後のお話です。

【特徴・不明点】 
1.始まりが回想シーンで、小学5年生頃の建物であったこと(過去から始まっている。はじまりはものすごく地味である)。
2.全体の1/3近くは回想シーンであること。
5.回想シーンで、タエ子ちゃんが父にたたかれた場面。また、タエ子ちゃんの演劇活動を父に否定された場面。
7.劇でスターになれそうだと言ったことをタエ子は冗談で済まそうとした。(トシオは、冗談としてとらなかった)
11.阿部君のシーンでアニメ開始の音楽が鳴ったことに何か意味があるのだろうか。(何かが始まるのか、それとも終わるのか)
 
 さて、今回はいよいよこのアニメ全体から分かること、感じ取れることを妄想的にまとめていきたいと思います。うまく表現できますかどうか。
 このアニメを見て、まず気がつくことは、回想シーンと現実シーンの二重構造になっていることと、どうやら回想シーンの中に、このアニメ全体を読み解くキーとなるシーンがありそうだと言うことです。
 二重構造は、回想シーンの頻度で、27歳のタエ子が山形へ行く前と後とで、大きく変わります。回想重視から現実重視の方向に転換しているように見えます。その構造および転換と並行して、タエ子の心理構造も、二重構造になっているように見え、こちらも過去志向から現実重視の方向に変化しているようです。このあたりが一つの柱のように見えます。
 さらに、回想シーンの中でも、最後まで理由がはっきりしないシーンがあります。中華料理店に行きたかった小5のタエ子ちゃんが、次女と喧嘩して行かないと言ってしまうのですが、本心は行きたい訳です。いざ、家族みんながタエ子ちゃんをおいて行こうとすると、つい我慢できず、自分も行きたいと裸足で玄関を出てしまいます。その時、父親に叩かれてしまう、というシーンです。
 父親は、その時、「裸足で!」とひとこと言い放つと、ツカツカとタエ子ちゃんのところ歩み寄り、胸ぐらをつかみ、我を忘れてタエ子ちゃんの頬をはたきます。父は、その時、はっと我に帰って、バツの悪そうな顔をし、タエ子ちゃんは大泣きになります。
 なぜたたかれたのか、私はもらいっ子なんだ、と昔の思い出話でした、というように、話は他人事のように進んでしまいます。
 すでに、このシーンの話については触れていますが、この話をしている27歳のタエ子は、自分が当時わがままだった、という話でケリをつけてしまうのです。しかし、このシーンの父親の行動や価値観、それに類似する母親の行動と価値観は、その家庭で育った子供には、無自覚的なレベルで、心の奥底に沈み込むことになりはしないでしょうか。これが、心理の二重構造を形作る重要な要素となっているように思えて仕方ないのです。
 この二重構造は、その後のタエ子ちゃんの心理と行動を制約する心のひずみとなっていて、可能性として発揮できたかもしれない能力を抑制してしまっていたかもしれません。後に高校で演劇部に入ったがうまくいかず、スターになり損なった話を冗談として話をするタエ子は、冗談とすることで、自分の心の安定を図っているかのようです。
 
一番初めのシーンと、最後のシーン子どもの視点からの映像)
 13分2秒後から、タエ子は上野駅の改札へ向かうシーンのようですが、この映像のアングルが気になります。まあ、映像効果といえば、そうかなあ、とも思うのですが、時々、子どもの視点からの映像のように見える場面があり、これは、どうやら小5のタエ子ちゃんの視点ではないか、と疑えるような気がしています。
 ところが、列車に乗ったタエ子は、小5のタエ子ちゃんを連れてきたという自覚がなかったようで、アニメでも、連れてくるつもりはなかった、と言っているように、まだ自分の中の心理状態に対する意識は十分ではなかったようです。このように、自己意識のまだ未分化、と言いますか、不十分な状態のシーンのように見えるのが、一番初めの河北文房具店の映像のような気がしています。
 一番初めのシーンは、小5のタエ子ちゃんが見ていた風景のようです。アングルが下から上に向かっているように感じます。しかし、ここには、タエ子ちゃんの姿はありません。
 最後のシーンは、小5のタエ子ちゃんが、こちらを見ているシーンです。見られているのは誰なのでしょうか。27歳のタエ子でしょうか、それとも、私たちでしょうか。
 別の表現では、一番初めは、誰かが見ているシーン、最後は、誰かが見られているシーン。初めのシーンでは、こちら側が無自覚です。見られている風景だけが自覚的です。最後のシーンでは、こちら側が見られています。見られていることが自覚できます。見ている小5のタエ子ちゃんは、私たちに見られてもいますが、こちらを見つめているので、こちらは、見られていることに気づきます。
 このアニメの最後のシーンで、小5のタエ子ちゃんは、27歳のタエ子を見送っているのですが、もう一緒にはいません。27歳のタエ子は、小5のタエ子ちゃんの意識と価値観を切り離して、新しい自分として出発しているのでしょうか。自動車のイメージが自立のイメージと重なってきます。ただし、それは、タエ子だけの問題ではないようにも思います。最後は、見ている人、あなた方の問題ですよ、と言われているみたいです。問われているのは、27歳のタエ子だけではなく、私たちそのもののような気がします。
 
【自分の中(二重どころではない?)】
(1)成長に伴う人間の心の複雑化
 過去の回想シーンでは、タエ子ちゃんはいろいろな心理的葛藤に出会います。楽しい思いもあるでしょうが、嫌な思いを何度もしたことでしょう。なぜか、たいてい覚えているのは、嫌な思い出ばかりだったりします。時には、思い出したくないものもあるでしょう。
 厄介なものは、自覚しないで染み込んでいく思い出です。父にたたかれたのに、理由も分からず、漠然としたものが残って、タエ子ちゃんの心の奥底に、そのまま沈殿して行っているようです。
 また、いろいろなエピソードから分かることは、したいことと実際にしていることが違うこと、また、言いたいことと、実際に言っていることが違うこと、そうした経験もまた、無自覚的に心の奥底に沈殿していくようです。そうした沈殿物は、知らない間に、物事の判断に影響を与えているように思います。決断を鈍らせ、行動を遅らせる要因です。
 トシオと一緒に自動車に乗っている時に、タエ子は、自分に問います。「握手して欲しいのは、トシオさんだ」と思った時に、「握手だけ?」とさらに、自分に問いかけます。ようやく、自分の奥底にある気持ちを掘り起こし、握手してほしい、と自分で自覚したのですが(自分の心理の二重構造を掘り起こしたのですが)、それでもさらに、まだ、自分に隠している部分があったのです。「握手だけ?」と問うことで、さらに心の奥底にある自分の気持ちを掘り起こそうとしていきます。ここで、タエ子は、自分の心が二重になっているだけではなく、三重になって、自分の気持ちが隠されていることに気づいているようです。
 誰でも、自分の心は成長・発達とともに、さまざまな役割分担をし始める(分化する)でしょう。その時その時で、違う役割が生じてきます。時には、自分の望まない役割もあります。その場合には、自分が実際に言っていることと、言いたいこと、していることとしたいこと、自分の今の気持ちの発言と、奥底で思っている気持ちとは違うなんてことが、しばしばあることでしょう。
 それとともに、自分の行動もその時々で無自覚的にいろいろな側面を示しているかもしれません。子供の頃のタエ子ちゃんの場合には、ちょうど、温泉に入っているタエ子ちゃんのように、入りたかったのか、入らざるを得なかったのか、分からないまま、行動している自分がいるのかもしれません。
 長い回想シーンで、27歳のタエ子が振り返っているのは、そうした自分を見つめる材料をもがきながら探していたように思います。
 
【自分との出会いとは? 自分を見つめるとは? 自分に出会うとは?】
(1)「自分を見つめる」とは、すでに存在している自分(過去)の姿を追うこと?
 
 このアニメを見ていると、「自分をよく見つめなさい」と人が言う作業は、案外難しいものではないかと感じられてきます。
 回想シーンで出てくるタエ子ちゃんは、27歳のタエ子から距離があるように思います。つまり、他人事に近いのです。自分では、自分のことを考えているつもりでも、自分の嫌なことは、避けてしまうのが人情です。これは、仕方のないことかもしれません。
 しかし、「自分を見つめる」「自分のことを考える」のは、次の自分の行動や判断に有益な意味を与えるためだとすれば、過去の姿は、自分そのものというより、自分の一部、それも表面的な自分の一部でしょう。回想シーンに出てくる自分は、それが回想である限り自分の一部にすぎないのです。それを自分そのものと思い込むことで、自分自身で苦しみ悩んでしまうのかもしれません。
 
(2)「自分を見つめる」とは、もっとも醜い自分をも含めて認めてあげること?
 
 誰しも、認めたくない自分(しかし確かに存在するマイナスのイメージの自分)というものを感じることがあるのではないでしょうか。普段は、そんな自分もさっと無視して、次々と日々の活動をこなしていかなくてはいけないので、いちいちそんな自分を考えている時間はないかもしれません。
 このアニメでは、過去の小5のタエ子ちゃんを引き合いに出して、確かに、間違いをする自分、嘘をつく自分、ごまかしをする自分が、回想という形で、いやが上でも自覚できてしまいます。それでも、回想シーンは、現実の動きの中で、次々と移っていきますので、自分自身を見つめる、というところまでは、なかなか行きません。かすかに、列車の中で寝台に横になっている時には、回想シーンの中で、「なぜ小学5年生なのだろうか」と自分のことをあれこれ考えてはいましたが。
 このアニメの構成は、キーとなるシーン(父親にたたがれる、母に口外しないよう、言われるなど)が接着剤となり、バラバラに見えた回想シーンがつながっていき、それらが27歳のタエ子の心理を作り上げていることを見ている人に実感してもらう、というように、緻密に作り上げられているように思います。とどめが、最後の都はるみさんの歌です。アニメの内容に寄り添うような歌詞を切々と歌っています。他の歌手でも英語での歌を聞いてみたのですが、この都はるみさんの歌が一番響くような気がします。日本語訳は、高畑勲監督です。歌手の人選、歌詞の翻訳など、恐るべき、高畑勲監督です。
 
 このアニメは、27歳のタエ子の心理描写を通して視聴者に、「自分を見つめるとはどういうことなのだろうか」、「自分との出会いとはどのように実現するのだろうか」を問うているようにも思います。それとともに、考えさせられることは、人の心の成長とは、どういうものなのか、ということです。現実の経験から、人は、いくつかの自分に出会い、その中のどれかの自分を嫌い、隠し、誇らしく思い、掘り出し、見つめなおしていくことなのでしょうか。こんなことを感じたり、考えさせてくれているように思います。私たちは、過去に縛られていても、それでも毎日新しい自分を作り出しているんだよ、と思わせてくれているようです(具体的な新しい現実・経験での「私」についての新しい発見・出会い)。
 
 このアニメの最後のシーンは、自動車に乗って2人が去るシーンではありません。その自動車を小5のタエ子ちゃんが見送るシーンです。その顔は、喜びと安堵に満ちている、とはとても言えません。むしろ、不安そうです。どうなるのだろうか、大丈夫だろうか、また、振り出しに戻るのではないだろうか、とあれこれ考えながら、小5のタエ子ちゃんは見送っているように見えます。
 これが結末なのですが、よくみると、これは、このアニメの一番初めと正反対のシーンのように見えます。このアニメの一番初めのシーンは、回想の中で映し出された古い文房具店です。アングルはどうも、子供目線のように見えます。これは、小5のタエ子ちゃんがよく見ていたものではないでしょうか。この文房具店で買い物をしたのかもしれません。ここには、そのタエ子ちゃんは写っていません。見ているのは視聴者です。今あなたは、小5のタエ子ちゃんと同じ立場に立っているのですよ、その世界に入っているのですよ、と言われているみたいです。
 それと反対のシーンが最後のシーンに見えます。タエ子ちゃんがこちらを見ているのです。アニメの続きからは、自動車を見送っているシーンですが、タエ子ちゃんの視線は、こちらです。最後は、背景の子どもたちが消え、タエ子ちゃん1人になっています。見られているのは私たちなのかもしれません。確かに、タエ子ちゃんは、27歳のタエ子を見送っているのですが、それだけではないように思います。タエ子ちゃんの心配は、いったい、誰に向かっているのでしょうか。
 
※ここまで、お読みくださり、ありがとうございました。このお話が刺激となり、皆様の想像力をかき乱し、「いや、そうではないだろう、こうじゃあないのか」と新たな妄想や空想が生まれましたら、このシリーズも一応なんとかなったのかと思います。今の世の中の、現実の苦悩に比べましたら、この解釈の迷宮など、たわいもないものでしょう。むしろ、この妄想の中で、楽しいひと時を体験できることがありましたら、幸いです。ここまで、解釈シリーズにお付き合いくださり、ありがとうございました。それでは、みなさま、これにて失礼いたします。

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