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楽しく学ぼう日本の歴史 ~十五夜~

みなさん、こんにちは
9月20日、水曜日
本日は、ひと月に一度の企画
「楽しく学ぼう日本の歴史」の日です。

前回は、八月ということもあり
お盆を題材に取り上げて
お盆の起源や、お盆のお食事
そして、盆踊りなどについて
みなさんと語り合いましたね
とっても有意義なお時間を
過ごせました。

今回は、「十五夜」について
お話を進めていこうかと思います。

ところで、みなさん、十五夜って、
どんな日かご存知ですか?
そうです。いきなりですが、ここで問題です

第一問

十五夜とは、一年で最も美しいとされている
「中秋の名月」を鑑賞しながら、何かに
感謝する行事なんですが、それは何に
感謝する日でしょうか?
①満月 ②団子 ③収穫

もともと、十五夜のお月見が広まったのは
「平安時代」のことで、859~877年の
貞観年間に、中国から伝わってきました。
当時は、貴族たちが、月を眺めながら
お酒を呑んだり、船の上で詩歌や管弦を
楽しんでいたということです。

やがて、時は流れ、江戸時代に入ってから
十五夜の風習が、庶民の間に広まりましたが
「収穫祭」や「初穂祭」の意味合いが
強いものに変わっていきました。
無事に稲を収穫できた喜びを分かち合い
感謝する日だったそうです。

やはり、当時は、作物も天候に左右されやす
かった筈なので、無事に収穫出来た年は
お天道様に感謝したかったのでしょうね。

さて、ここで第二問

実は、十五夜は、他の作物の収穫祭も兼ねて
おりまして、その作物にちなんで
「〇〇名月」という名前が付けられています。
さて、それは何でしょうか?
①芋名月 ②麦名月 ③蕎麦名月

更に続けて、第三問

十五夜って、旧暦8月15日の
月を指すのですが、新暦に直すと
毎年、日付が変わります。
さて、今年の十五夜は、何月何日でしょうか?
①9月29日 ②9月17日 
③10月6日

そうです。正解は、①の9月29日です
ちなみに、②の9月17日は来年(2024年)
③の10月6日は再来年(2025年)です。
毎年、違うんですね。
恥ずかしいんですが
実は、ボク、今回
初めて知ったんです

さて、どうして、十五夜の日取りが
毎年変わるのでしょうか?
そうです。繰り返しますが
それは、十五夜の日取りが旧暦の8月15日だからです

新暦と旧暦とでは、やはり
「一年の始まる日」と、
「一年の長さ」が違うからなんです。

さて、ここで、第四問

新暦では、一年の長さが「365日」ですね?
では、旧暦の一年の長さは何日でしょうか?
①371日 ②354日 ③330日

そうなんです。
新暦よりも旧暦の方が、約11日短いんですよね。
新暦では、一年のズレを、四年に一度の
「閏年(うるうどし)」で、調整するのに対して
旧暦では、2~3年に一度の
「閏月」と言うものを作って調整しておりました。

暦については、日本には、
7世紀に中国から伝来しました。
日本の気候風土に合わせるために
その都度、時代に合わせて、
当時の暦学者や、数学者たちによって
幾度となく修正が重ねられてきました。
そして、1,840年代の天保の時代に
最も正確な「太陰太陽暦」という暦が
出来上がります。
この「太陰太陽暦」が、一般的に
「旧暦」と呼ばれております。

さて、ここでサービス問題です。第五問!

現代は、みなさんもご存知の通り新暦を
採用しておりますが、
いつの時代に、旧暦から新暦に
変わったのでしょうか?
①明治時代 ②大正時代 ③昭和の終戦後

旧暦の明治5年12月2日を、
新暦の明治5年12月31日として、
翌日の明治5年12月3日を
新暦の明治6年1月1日としました。

そのため、旧暦に比べて
新暦の日付が、約1ケ月遅れて
しまった形となってしまったんです。

だから、旧暦の8月15日が
新暦では約1ケ月遅れる形となり
旧暦と新暦の一年の長さが
違うことによって
十五夜の日取りが毎年変わることに
なってしまうんですね。
ちなみに、時刻の設定も
一日十二辰刻制から、24時間制に
定められたのもこの時です。


これは、旧暦に関するオマケ知識です


旧暦では、ひと月の始まりを
新月から始まり、約15日で満月となり
また、新月となるところで
月が変わります。
(月の周期は必ずしも一定という訳ではありません)

そして、ひと月を、30日で
数える月を「大の月」として
ひと月を、29日で数える月を
「小の月」と定めており、
2~3年に一度、「閏月」を
作って一年の長さを調整しておりました

「中秋の名月」に関するオマケ知識

ところで、みなさん、「中秋の名月」は
一年の中で、最も美しいとされる満月の
ことで、別名、「仲」を使って
「仲秋の名月」とも呼ばれております。
これは、旧暦では、7月、8月、9月が
秋の季節を表す月であり
7月を、初秋
8月を、仲秋
9月を、晩秋
と表していて、8月の名月だから
「仲秋の名月」と呼ぶようになりました。

秋の真ん中の名月であり、
元々は、「中秋」ではなく、
「仲秋」だったんですね。

他にも、十三夜を祝う行事だったり
十日夜(とおかんや)を祝う行事も
ございます。

月見櫓について

古来の人々にとって、
物にあふれている現代とは違い
夜の過ごし方として、星や月が
与えた影響というものは
とても大きかったと思います。

だから、「月がキレイ」であると
言う気持ちを抱きながら
ススキや、団子といった飾りつけを
しながら、お酒を交わしたり
会話を楽しんだりといったことが
出来るということは
当時の人々の心に安心と安らぎを与えて
くれるものだったと思います。

お城についても、月見櫓というものが
存在して、主に江戸時代以降に
増築されているのですが
明治の廃城令によって、
そのほとんどが取り壊されてしまいました

さて、ここで第六問目です

日本のお城において
現存している月見櫓は、
日本に何軒、残っているのでしょうか?
①3軒 ②2軒 ③1軒

そうです。
現存している月見櫓は
岡山城と、松本城なんですね。
当時の将軍を招くために造られた
朱塗りの欄干を使った松本城の
月見櫓は、とても有名ですね。

もともと、お城というものは
戦闘用の設備であり、戦国時代に
おいては娯楽の施設を建造するなんて
ことは、ありえないことでした
時は流れ、平和がおとずれた江戸時代に
月見櫓のような風雅を楽しむ櫓が
増えてきたのですが、
月見櫓の他にも、「富士見櫓」や「花見櫓」
といった櫓も建てられていたらしいですね

ここで、ちょっと、一服


これは、日本に限ったことかも知れませんが
平安時代までは、月を直接見るのは
良くないという風習があったらしいんです。
しかし、月が綺麗に見えると言う感性は
今も、昔も、共通して言えることであり
では、どのように楽しんでいたかと言うと
「間接的に楽しんでいた」らしいんですね。
「間接的に楽しむって、どういうこと?」
って、誰でも疑問を抱くかと思いますが
具体的にお話しますと
空を見上げて、直接、
月を眺めるのではなく
池などに映った月を見て
楽しんでいたらしいです。
奥ゆかしい日本人らしいお話ですけど
風流だと思いませんか?

さて、ここで一句!

夏過ぎて(なつすぎて)
水面に映る(みなもにうつる)
朧月(おぼろづき)

いかがでしょうか?
夏が過ぎて、無事に収穫も終わり
あえて、月が昇り始める時間帯を
狙って、月が綺麗に映る場所まで行き
霞(かすみ)がかかっては
いましたが、ひと月に一度の
楽しみを満喫している様子を
想像しながら、詠ってみました。
一応、川柳になるかな?
もしくは、朧月が季語になれば
俳句にもなるのかな?

いずれにしても、当時の人々の
ことを想像しながら詠んでみました

やがて、民衆に仏教が浸透し始めて
その影響で、少しずつ、月を
直接愛でると言う習慣が根付いてきて
現代に至っているということです。

舞台は銀閣寺へ

ここで、まったくお話が変わりますが
銀閣寺のお話に移りたいと思います。
場所は、京都府の東山にあり、
世界遺産にも選ばれております。
よく、京都府の北山の金閣寺とも
比較されてますよね?

銀閣寺は、1482年に、当時の
室町幕府8代目将軍、足利義政公の
指示によって建てられましたが
実は、元々、お寺ではなかったんです。

ここで、問題です(七問目)

では、銀閣寺は何のために
建てられたのでしょうか?
①山荘 ②要塞 ③貯蔵庫

繰り返しますが
元々、銀閣寺はお寺ではなく、
足利義政公の山荘として
建てられていました。
しかし、「東山殿」という名前も
付いていたみたいですが、
完成の日の目を見る前に
残念ながら足利義政公は
お亡くなりになってしまいます。
やがて、東山殿は、完成しますが、
寺院として改められ
臨済宗の寺院となって、
義政公の法号慈照院にちなんで
慈照寺と名付けられました。

そうなんです。まだ、この頃は
銀閣寺ではないんですね。
銀閣寺が建てられてから
約100年間、戦国時代が
続き、その後、江戸時代へと
続いていくのですが
銀閣寺と名付けられたのは
江戸時代に入ってからなんです。

銀閣寺の敷地内にも、色んな建造物が
ございますが、みなさんが
よく目にされる銀閣寺の写真。
池や松と共に映っている建物なんですが
元々、観音殿と呼ばれておりました。
この観音殿が、やがて、
「銀閣」と呼ばれるようになり
所説ありますが
総称して銀閣寺と呼ばれるように
なったみたいですね。

敷地内には、創建時の姿を
留める「東求堂(とうぐどう)」や、
錦鏡池(きんきょうち)と名付けられた
池を中心に西芳寺の庭を模して
造られたという庭園が整備されていて
他にも、銀沙灘(ぎんしゃだん)や
向月台(こうげつだい)など
見どころも沢山あるみたいです。

学生時代に修学旅行で訪れたときは
どうしても金閣寺と比較してしまい
金閣寺に比べて、地味なイメージしか
持てませんでしたが
色んな資料を読み解いてみると
この中には、「わび」「さび」の
心が溢れていて、
日本庭園のひとつの「枯山水」
が盛り込まれている「銀沙灘(ぎんしゃだん)」
については、写真を見ているだけでも
心が落ち着いてきますよね
質素で堅実な文化が
根付いていると思います。

さて、ここで問題です(第八問)

この時代に、「茶の湯」や、「生け花」
そして、水墨画や、日本庭園などの
文化が生まれました。
共通して言えることは、質素で堅実、
そして、見ている者に、安らぎを与える文化が
生まれましたが、それらを総称して
なんと呼ばれていたのでしょうか?
①銀閣文化 ②室町文化 ③東山文化

なぜ、この時代に、このような
文化が生まれたかと言いますと
戦乱によって乱れた世の中にあって
やはり犠牲になるのは
いつも民衆であり
心に安らぎや、癒しを求める気持ちを
持つようになったことから
生まれた文化とも言えると思います

さて、ここで問題です(第九問)

この時期に、戦国時代の幕開けのきっかけと
なった事件が起きます。さて、その事件とは
なんでしょうか?
①応仁の乱 ②壬申の乱 ③承久の乱

将軍家の跡目争いが発端となった
この争いは、他の大名も巻き込みながら
少しづつ大きな争いになっていったようです
やがては、誰が、どんな目的で
戦っているかも分からなくなり
京の街は、常にどこかで火の手が
あがっていたと言う話です。
この争いは、約11年続き
一度は収束を迎えますが
幕府の権威は失墜し
強い者が勝ち上がってゆく戦国時代を
迎えます。

ひょっとしたら、多少の
弊害はあったとしても
上に立つ者がしっかりと
納めている世の中の方が良いのかも
知れないけど、
その者が間違った考えを持っていると
誰もが望まない世の中になるし
難しいですよね。

さて、なぜ、ここで銀閣寺を
照会させていただいたかと言いますと
銀閣寺は、「月見の館」とも
言われております。

元々、銀閣寺は、古文書によりますと
白い建物だったらしく、
その白い壁の部分を調べてみると
ガラス質の白土が塗られていたことが
判明しております。
そして、さらに、その白土の中には
ミョウバンが混ぜられていたとのことです
ミョウバンは料理でも使われている
透明な結晶です。
実際にこの壁を再現された方がみえるらしく
光に当てると反射してキラキラと光るみたいです。

とっても、綺麗みたいですよ。

実は、当時の月の軌道を調査していた
学者さんによれば、銀閣寺は
正面にそびえ立つ月待山から
月が昇るのを見える位置に
建っているらしく
昇り始めは、下の部屋で月が山から
昇ってくるのを楽しんで
やがて、月が高い位置にくると
建物のひさしが邪魔をして
見ることが出来なくなるので
今度は二階まで上がり
二階からは、庭の池が見渡せます
そうなんです、池に映った月を
楽しめるようになっているんです。

そして、更に月が高い位置にきて
明るい光を放つようになると
今度は、下に降りて
渡り廊下を渡り、外から
銀閣(観音殿)を見ると
壁が光って、とっても綺麗に
映るということなんですね。

そうなんです。
地味に映る銀閣寺も
さまざまな仕掛けが施されて
いるんです。
当時の人々の知恵に脱帽ですね

最後に

現代は、物に溢れて
身近なもので心を満たすことが
出来るようになりました。
それだけに身近な自然の美しさに
気付けずにいるのかも知れません
9月29日の十五夜では
「月の美しさ」「収穫のありがたさ」
などの、今では当たり前となって
いることに関して、もう一度
振り返ってみる機会を
作ってみても良いかも知れませんね

スタエフにて放送した時のアーカイブです
https://stand.fm/episodes/650a9e8da08a0c412c28299c

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