20190925序章表紙

憑羽に寄す:十九 開演間近

 それから、星が少しだけ動いたころ、ネストレは靴を整え終えた。
 イスラは井戸の縁石のそばに座っていた。縁石の上で、外套の裂き端に、短剣の背で刻み目を並べていく。切り込みで綴られた文字の羅列を内側に、紙片のように畳んでネストレに差し出す。
 受け取った裂き端を、ネストレは外套の内側、表の生地と裏地の隙間に差し入れた。
「鴉の者が先行している可能性があります。お気をつけて」
 次いでイスラが差し出した携行灯は、同じくらいの大きな手の甲で押し戻される。
「これは持っていてくれ。どうせ灯りは使えない」
 イスラは携行灯を足元の草の上に置く。ネストレは状況にそぐわない、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。
「ことが終わったら取りに戻るさ。無事に返してくれよ」
「お返しできるように尽力しますよ」
「そこは約束してくれないか。これでも結構な年代ものなんだ」
 イスラは吐息だけで笑い声を立てた。軽やかなやりとりがこころよかった。
 立ちあがったネストレは、こうして傍に立つとやはり背が高い。少し高い場所から、ふたりの憑羽を順番に見下ろした。
「君たちは、必ず生き延びてくれ。誰のことも殺さずに、生き延びてくれ。
 君たちは、君たちが無害だということを、身をもって証明しなくてはならない。
 もし殺してしまったら、私が間に合っても、何の意味もない。どう言いつくろおうと、どうやっても、誰の目にも取り返しがつかないんだ。
 君たちの望みのために、誰一人、殺さないでくれ」
 イスラとルチアは同時に頷いた。
 ネストレの視線が二人から離れる。背を向ける。
 爪先で二度、地面を叩いて、走り出した。
 少し低められた背中が暗闇の中に吸い込まれて、あっという間に見えなくなる。
 熊のような、というたとえは大仰ではなかったな。とりとめなく考えながらイスラは見送った。
 イスラは自分の爪先をあらためる。両足の短刀と仕込み刃、わずかな武器の手入れに、時間はさほどかからなかった。
 すぐ隣で、同じようにネストレを見送っているルチアを見やる。
 白かった服は、下地の色がわからないほどに「化粧」を施されていた。
 若草から泥の濃茶へかすれた色の帯が、服どころか靴の上までも、目のつんだ生地を塗りつぶして縦横に走っている。くるぶしまであった裾は肌着ごと裂いて丈を詰められ、丸い膝の皿が見え隠れしている。
 複雑に結われていた髪は解かれて、首の後ろでひとつに縛り上げられていた。
「それ、よかったんですか」
 ルチアは問いかけたイスラを見、自分の袖を見下ろした。澄まして瞼を伏せる。
「ずいぶん動きやすくなりました」
 イスラは苦笑いする。
 そこここが傷んだ、青い草の匂いのかすかに漂う姿であってさえ、ルチアは引き換えようのないものとして見える。そのことになぜだか、酷く安堵したのだ。
「ルチア。お願いしたいことがあります」
 イスラは荷袋の底を探って、鎖を引き出した。連なって出てきたのは、飾り彫りの瑪瑙だった。
 透かしの入った銀色の枠で囲まれた、濃い赤の地石の上に、花のひとむらが浮き彫りになっている。厚みを削り分けられて、かすかに透き通った花びらと葉が、重なり合いながら寄り添っている。
 枠の中央、花の葉陰に、小さな鳥が一羽、背中の翼へとくちばしを埋めて休んでいる。
 差し出された飾り石を手のひらに囲って、ルチアは顔の前へと持ち上げた。目が丸く見開かれている。
 きれい、と、小さな声が聞こえた。
「これを預かっていてもらえますか」
「わたしが、ですか」
「気に入っているんです」
 指の間から下がる鎖をつまみ上げて、ルチアの手のひらに落とす。
「あなたはどうあっても、無事で生き延びる。あなたと一緒にあればこれも安全でしょう」
 ルチアの指が、飾り石を握りしめる。
 迷いを振りはらうときの潔さで、ルチアは飾り石を持ち上げた。頭を通して、首の後ろで結わえ、胸の前へと下ろしてみせる。
「お預かりします」
 イスラは草の上に片膝をつく。胸に利き手の左を添えて、深く頭を垂れた。
 つうと顔を上げて、口を開く。
「改めて伺います。
 ルチア。あなたを助けても、よろしいか」
 ルチアの目がまばたく。
 赤い目だ。イスラとは正反対の色をした、生きたものの色の眼だ。
 やがてその大きな目が細められる。鷹揚を感じさせるゆるやかさで、薄い唇の両端が持ち上がる。
「許します」
 ルチアの右手が差し伸べられる。
 伸べられた手を両手で掬って、できるかぎり恭しく、額に押し当てる。
 静寂はいっときだった。
 イスラが膝を払って立ち上がったときには、二人とも、舞台となる南の森に向いている。
 わずかな高揚が、ゆっくりと夜風に冷やされていく。
 まだ朝は遠い。

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