20190925序章表紙

憑羽に寄す:十六 常ならぬ者

 目的の場所はすぐに見つかった。イスラは屋根をつたって、南棟の突き当りを中庭へと滑り降りた。簡易牢に繋がる廊下へ滑り込んだところで、内心首をかしげる。見張りらしき人の姿がいない。
 暗い廊下の壁に紛れて、小さな格子窓のはめ込まれた扉が均等に並んでいる。つきあたりの格子窓から、細く光の帯が伸びて、かすかな音が断続的に聞こえてくる。息を潜めて近づくにつれ、固いものを打ち合わせるときの音を、次第に耳がはっきりと音を拾いはじめる。
 重いものを打ちつけるときの、こもった、腹に響く音。
 イスラは駆け出した。
 取っ手をつかんで力を込める‥…動いた。開いている。
 イスラは一息に扉を押し開けた。
 細い牢のつきあたり、外套姿の鴉が二人、同時に振り返った。
 壁際にもたれかかって、ひとり。頭の覆いを下ろして顔をさらした、若い、少年と呼ぶほうが近いような若者がもうひとり。
 若者の足元には、布の塊が……布の塊のように、人のからだが転がっている。
「何をしている!」
 立ち尽くす若者の手から、イスラは筒をむしりとった。ふたの外れた筒から液体が跳ねて床に散る。かぎなれた鎮静剤の、癖のある香りが立ちのぼる。
 イスラは床にかがみ込んだ。
 牢の住人、ルチアは石の床にくずおれたまま動かない。携行灯の薄暗さのもと、長い衣の裾がめくれあがっている。鉄の錠がぐるりと取り巻く、くるぶしから膝にかけて、黒々とした痣が散らばっているのが見える。
 ルチアの口許に手を添える。細い呼気が手の甲に当たって、イスラはふっと息をついた。
「命令だぞ!」
 唾を飛ばして若者が怒鳴る。歪む顔をイスラは睨め上げた。
「薬を与える前に殴れと、命じられたのですか」
 若者が鼻白む。
 壁際でやりとりを静観していた、年嵩の男が歩みでた。若者の腕を引いて自分の背中に下がらせる。
「君も鴉だな」
 見上げた男の顔には、火傷の痕があった。声はいくぶんか若さを残しているが、火傷痕から逃れた顔の左半分にも、切り込んだような幾筋もの皺と、ぬぐいようのない疲れが刻み込まれている。
 イスラが黙っていると、男はルチアへと視線を移した。
「我々がいったい何をしたのかと、君は、そう思ったことはないか」
 イスラは眉をひそめた。男が言おうとしていることはわからないが、不吉な予感ばかりがある。
「常ならぬ者は大勢いるが、全員が盗みを働くわけけじゃない。片腕がなくとももう片腕で暮らすことはできる、痕は残ろうとも病は癒えている。
 だがひとり、ひとりだろうとも道を外すものがいれば、常ならぬ身は皆そういうものだと指をさされる」
 男の声は、ここにいない誰かに向けて、次第に熱を帯びつつあった。
「こういうのが素直に捕まらないと、常ならぬ我々はいつでも、見た目どおりの怪物扱いだ。
 いいことだとは思わんが、こいつの気持ちも、少しはわかる」
 若者がうつむく。背けた肩越しの顔に、やりきれなさのような、苦味が次第に滲み出てきていた。
 しばらく若者を横目に見つめていた男は、イスラを見下ろす。
「おまえさんも、考えたことくらいあるだろう」
 男の声には媚びるような響きがあった。頭が煮えるのを感じながら、イスラは呻いた。
「あなたたちなんかと、一緒にするな」
 若者が打たれたように身を震わせる。男は黙った。
 ふいに小さな呻き声があがった。イスラは振り返った。
 かき乱された髪の向こう、ルチアの目がうっすらと開いていた。薄く打撲のあとの残る目の端を、まばたきの拍子に涙が滑り落ちる。
 もう一度まばたきを繰り返して、いくらか茫洋としていた目に、光が戻る。
「イスラ?」
「痛むところはありますか」
「どうして」
 ルチアの足首と膝の関節、両手を括る錠をあらためながら、イスラは靴の短刀を抜く。
「助けに来ました。ここを出ましょう」
 呆然としていた若者が身を乗り出す。前にのめった鼻先を、銀色の光がかすめた。
 靴から左手へ、滑るように抜き放たれた短刀の切っ先をつきつけて、イスラは恫喝する。
「鍵を渡しなさい」
「イスラ、だめです」
 ルチアがイスラの袖に手をかける。添えているとしか思われない頼りなさへ、イスラは声だけで呼び掛けた。
「ここを出るだけです。余計なことはしない」
「違うんです、だめ、わたしを」
 ルチアの声色が、ふいに、色を変える。

 ……助けないで。

 ばきり、と。
 建物の梁が折れるときの、致命的な音は、すぐ傍であがった。
 イスラが最初に見たのは、白だった。
 青銀を含んだ、息の止まるような真白が氾濫する。細く狭い簡易牢に満ち溢れ、壁を押しやり、突き崩す。
 白い濁流は、石造りの壁を粘土のように押し破って、関所の外へとあふれでた。
 崩れ打ち合う破片が大音声をとどろかせる。
 悲鳴のような、罵声のような音が近くでがあがったが、確かめる暇もなく、白い濁流に呑み込まれて遠ざかる。
 外套を頭に覆い被せて、イスラは弾き飛ばされた姿勢のままに伏していた。何が起こっているのかわからない。少しでも顔をあげようとすれば、嵐のような勢いで礫が飛んでくる。
 風のような音が、遠くへ抜ける響きへと変わったことで、関の外へ出てきたらしいことはかろうじてわかった。
 瓦礫の礫に撃たれながら、イスラは首をねじって左目だけで辺りをうかがった。
 ……高い。関の物見窓が、ちょうど目線の高さにある。
 うつぶせの右頬に触れているものが、しゃりしゃりと、水晶の打ち合う音をたてる。草だと思っていたそれは、握りしめると、石の冷ややかさと羽毛のやわらかさを伝えてくる。
 まばらになってきた瓦礫の礫のなかで、イスラは上体を起こした。
 しゅるしゅると、草原から立ち出でる白い枝が、先端で短い五指を備える。関節のない、異様に長い腕の先、子どもの手のひらのまがいものが、さまよい宙をつかんでは、力を失って、草原の中へと潜り戻っていく。
 うごめく枝の向こうへと、首を伸ばして、イスラは息を飲んだ。
 断崖。そのはるか下方に、地を踏む、四つ足。
 白い、大きな……狼のような、鹿のような、何物にも似ていない、四つ足の獣……白い草原のような背中に、自分は伏している。
 愕然と身を引いたイスラの視界の端に、光がうつる。
 獣の前脚の付け根、肩のあたりに、光るものがある。
 金色の髪の娘が、白い獣の肩に背中を縫い付けられて、人形のように揺れていた。
「ルチア」

 る、うう…………あああああ。

 白い獣は、喉を反らして高々と鳴く。
 関の南棟は、今や半分が石くれの山と変わり果てていた。
 獣が動き出すまでもなく、中庭を挟んだ北棟から、人の声と灯りとが散らばり出る。長銃を抱えた兵が、またたくまに横列を組み上げた。獣の背でイスラは身を伏せた。
 銃声が唱和する。
 ぱし、ぴしり、小石をはたき落とすときのような、かすかな音が火薬の炸裂音に混じる。
 獣は倒れなかった。かすかに体毛を逆立てて、いささかの痛痒も見せる様子なく、同じ場所に佇んでいる。
 間髪入れずに横列の前後が入れ替わり、次の銃撃が浴びせられる。
 獣の体毛がまずます膨らむ。喉から短い唸りが漏れる。吼えた。
 耳鳴りの間に、退避、と兵の叫び声が混じる。
 イスラの伏している背中の筋がたわむ。胴震いをひとつ、足を埋める瓦礫を跳ね散らして、獣は街道を駆け出した。
 すさまじい勢いで風が逆巻く。細い刃物を振り抜くような音が耳元を掠める。わずかに起こした上体さえ獣の背からもぎ離されそうになる。
 慌てて伏した背中が、潰さんばかりに押さえつけられる。咳き込むこともできずにイスラは獣の背に張りついた。
「ルチア! 止まって!」
 喉から漏れ出た声は到底、呼び声の体をなさなかった。
 イスラは伏したまま自分の枝を解いた。獣の背を這わせてルチアのもとへと伸ばす。ルチアが目を覚まさないなら、獣と変じた白枝から、彼女を切り離すつもりだった。
 じりじりと這い進む枝が、ルチアの背中と、獣の体表とが接する境目に触れる。細い刃物を差し込むときの要領で、境目に枝が滑り込む。
 イスラの周りで、白い枝が動いた。
 赤い細い枝へと、白い枝が殺到する。赤い枝をつたい、イスラの四肢を捉えて巻きつつむ。蜘蛛の巣に絡む蛾の体で、イスラはルチアの傍らから引き離された。
 頭までも押し包もうとする枝の向こう、獣の頭ごしに……光が見える。
 顔を這う白枝から、頭を振って逃れ、イスラは唯一自由になる声を絞った。
「お願いです、止まって、この先はーー!」
 点々と整列する光……ほとりの外門で、門衛の誰かが叫び声をあげる。
 物見場のくりぬき窓で、ぱっと白金の明かりが散る。ぴし、と、例の小さな音が、イスラの耳のすぐ傍から飛び込んでくる。
 獣が枝をふるって、撃ち込まれた銃弾を逸らしているのだ……気づいたのとほぼ同時、白い獣の巨体は、堀を飛び越え、ほとりの街の門扉へと突っ込んだ。
 丸木が裂け、金属のねじまがる、悲鳴のような音が炸裂する。
 わらくずがひしゃげる気軽さで、ほとりの街の外壁は、門扉から内側へと爆発するように吹き飛んだ。
 獣は走るのをやめなかった。目隠しの上から鞭をあてられた馬のように、目の前にあるものを引き潰し撥ね飛ばし、ひたすらに走り抜ける。
 悲鳴、怒声、人のわめいている種々の声も、聞き取るまもなく遠ざかる。
 枝越しに体の上を通り抜ける音が、人の声から枝や石の砕ける音に変わっても、イスラは頭を伏せていた。
 やがて、体を覆っていた白枝が、緩む。ほどなくして押しつぶすようだった風も、急速に力を衰えさせてゆく。
 反動に振り落とされかけながら、イスラはこわばった指をいっそう押し固めるようにして、獣の背の毛を掴みなおした。急に圧迫を解かれた肺の腑をなだめて、深い呼吸と咳とを繰り返す。
 ようやく顔を上げる。
 真っ黒に塗りつぶされていた視界が、次第に夜になれてくる。
 真っ黒な、ぎざぎざと荒れた切り口の、梢と空との境界線。その上に広がる、銀砂を撒いた青(しょう)黒(こく)と、ぽっかりと浮く白い月。
 ……国境の森の、廃村だった。
 ようやく疾走を止めた獣は、落ち着きなく広場を歩き回っている。
 イスラは獣の背を腹這いに、ルチアのそばへと近寄った。
 ルチアは動かない。夜目にも白い服の、あちこちが裂けて、結い髪がほつれている。手を伸ばして頬を叩いても、動く気配はない。
 歩く獣の動きに揺すられながら、イスラは手のひらを握りしめた。思考が散らばって覚束ない。
 ルチアを引き離さなければならない。そのことだけが、白んだ脳裏で空転していて、意味のある形に縒り合せようとする端からほどけていく。
 膝をつこうと動かした腿を、下から硬い感触が圧す。
 下敷きになっていたのは、腰に吊ったままだった荷袋だった。中を探って、イスラは息を飲んだ。
 引き出した手の中で、鎮静剤の細い瓶が、中身の薬液と一緒に青白く光っている。
 イスラひとりを献体に作られた薬だ。他の憑羽に効くのか、試す機会などあったはずもない。けれど他に、思いつく方法はなかった。
 硝子の栓を噛みとる。親指で栓をしたまま、もう一度ルチアの頬を叩く。
「ルチア。起きてください。」
 ルチアの頭がゆるりと動く。
 暗いなかでも、顔が向いたのがわかった。瞼があいたのを確かめて、イスラは小瓶を傾けた。
「わかりますか、ルチア。飲んで」
 薄く開いた口の端を指でこじ開けて、中身を流し込む。とたん、ルチアが身を捩った。
 ルチアの頭を抱え込んで、開こうとする口を顎ごと手のひらで覆う。下から伸びた腕が二本、暴れては叩きつけられる。引き剥がそうと髪に顔に滅茶苦茶につかみかかるのを、もう片方の腕で巻くようにして押さえつける。
 手負いの動物みたいに暴れるルチアを、何度か撥ね飛ばされかけながら、イスラはしばらく押さえていた。
 と、突如、視界が反転した。
 したたかに腹を打ちつける。二度ほど転がったところで、ついた手に草の感触があって、イスラは頭を振った。星が散る目を無理矢理こじあける。
 白い獣は消えていた。眼の前には、元から何もいなかったとでもいうかのように、廃村の夜が広がっている。
 そうした暗闇の間から、起き上がるものがある。
 夜目にも真っ白い……羽化したての蝶の、ちぢれて曲がった、羽のような、枝。
「……いたい」
 顔を押さえたまま、小さな声がいう。
「痛いです。イスラ」
 イスラは詰めていた息を吐いた。

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