20190925序章表紙

憑羽に寄す:十二 支払った対価

 青灰色の朝霧が草のなかにまで満ちている。ひといき呼吸をするごとに、水の粒が肺の腑まで満たすような心地がする。
 ほとりの南門のそばで、イスラはルチアと並んで、ほとりの門が開くのを待っていた。
 朝の六つを過ぎれば、門衛が南北の外壁の門を開ける。軋みをあげて、重い丸木組みの門が上がっていく。
 ルチアが外套を羽織り直して、夜露に濡れた裾をはらう。イスラは一歩を踏み出して、しかしすぐに立ち止まった。
 誰かが、門の向こうに立っている。
 上がりきった門が重い音を立てて止まる。霧から溶け出すようにして近づいてくる人影は、全身を覆う暗い青の外套を被っている。
 イスラは顰めていた眉を緩めた。
「……ヤノシュ?」
「応よ」
 街中で行き会うときの気軽さで、ヤノシュが片手をあげる。
「街長の家でお待ちだったのでは」
「気づかなかったか? 昨日、俺も「宿」にいたろ」
 イスラは細めていた目を丸くした。
 国境の森、鴉の宿で、鴉の外套をかぶっていた者は、イスラとルチアを除いて四人いた。頭の覆いをつけたまま、顔を隠していた者はひとりだけだ。
「あなただったのですか」
「ほんとに気づいてなかったのな」
 イスラは決まり悪く頭を振った。
「けれど、どうして「宿」にまで? なにかありましたか」
「いや?」
 ヤノシュが歯を見せて笑う。イスラは首の裏が冷えるのを感じた。何かおかしい。
「念には念を入れただけだ。どうしても、憑羽だけは、確保しなきゃあならんからな」
 ヤノシュが半身をずらして、街へとつづく道を開ける。
 ……白。
 朝霧に比べてなお、明瞭に冷えた真っ白の礼服。ティーア辺境伯家の私兵の一団が、門の前に整列している。
 イスラの目がこわばって見開かれる。
 白の間にひとつだけ、目の覚めるような青が佇んでいる。冴えた真青の、詰め襟の礼装に、イスラは覚えがあった。
「……ご領主」
「働き、ご苦労様」
 ヤノシュが胸に手をやって頭を垂れる。軽く手をあげてねぎらいながらも、アンゼルムの視線はイスラを通り越し、背後に注がれたままだ。
「手間をかけたね。どうしても直接、怪物の姿を見てみたかったんだ」
 イスラは振り返った。数歩をあけた場所には、ルチアが立っている。
「憑羽。ユステのルクレツィア。そうだね?」
 ルチアは黙っている。浅い霧の中に浮かぶ、赤いまなざしは、ずいぶん遠くへ投げかけられているようだった。
 真っ白なティーアの私兵の列を見、次いで正面に立つアンゼルムを見つめ、最後にイスラへと焦点をあてる。
「イスラ」
 唇が動く。
「ケレストの知り合いというのは、この方々のことですか?」
 違う、とは、言えなかった。
 黙るイスラを、どう受け取ったのか。まっすぐに見つめ続けた後、ルチアはゆったりと頭を振る。
「そんな顔をなさらないで」
 胃の腑が燃える。まただ。いったいどんな顔をしているというのか。食ってかかる勢いでイスラは顔を上げる。
 ルチアは微笑んでいた。
「わたしはかまわないんです。そのつもりでいましたから」
「どういう意味ですか」
「言葉通りです。イスラが細工師さんではないのだろうと、なかば思いながらついて来た」
 晴れ晴れと笑う、ルチアの顔を、イスラはかつて見たことがあった。
 いつだったか。アンゼルムと歓談していた客人、どこぞの伯家の奥方だった。そつなく癖なく、見る人を楽しませるためだけにつくられる、教本のような微笑みだった。
「イスラの言葉は、初めてお会いしたときから、とても綺麗な音の並びをしていらっしゃった。
 つい五十年前は別々の国だった北方諸国で、これほど整った公用語を話すとなれば、帝都出身か、しかるべき方法で学んだ方だと想像がつきます。
 それに、イスラ。わたしがほんとうはシウスの方に、なんと呼ばれているか、ご存知ですか」
「……ユステのご令嬢」
「ええ。シウスでも、ましてケレストでは、ルクレツィアと呼ぶ人はいないはず」
 ルチアが手のひらを上に、指を伸べる。
「わたしの名前を知っているのは、同じシウスの諸侯の、ほんの一握りの方だけです。
 そのうちのどなたかにでも聞かない限り……イスラが本当に、ケレストの細工師さんなら、知るはずのない名前なんです。ルクレツィアは」
「だったら」
 イスラはうめいた。
「どうして、ついてきたんです」
「話したくないことがあるのなら、話さなくてもいいんです」
 子どもを宥めるような口調だった。
「わたしもそうだったでしょう? 大切なことは、なにも話さないで過ごしてきた。
 理由を聞くのは、イスラが話したくなってからでいいと思っていました。ティーア辺境伯に直接ご縁の方とまでは、流石に想像していませんでしたけれど。
 それでも、感謝しているのは本当ですから。だから、お礼です」
「なるほど。ところで」
 背を叩かれてイスラは我に返った。
 傍まで歩み寄っていたアンゼルムが、ルチアを見据えたまま、言葉を続ける。
「お話しする時間はもういいかな」
「ええ」
 ルチアの肩から、外套が滑り落ちる。
 白い……朝霧の中でなお白い、うねる蔓草のような枝が、数多の視線のもとにさらされる。
 音も、声もない。白々しい静けさの中、それでも、漣(さざなみ)のような動揺が、居並ぶ人々の間を広がっていったのを、誰もが等しく感じていた。
 傍らを通り過ぎざま、ルチアは腕をさしのべ、イスラの胸に外套を預ける。
 自由になった両の手を揃えて、ルチアはアンゼルムに向かって差し出した。私兵がふたり、アンゼルムの両側を抜けて歩み出る。
 縄が親指の付け根に、次いで両の手首に打たれる。背中の枝にも鉄の輪が結わえられ、がちんと音を立てて錠がかみ合う。
 錠に繋がる縄を引かれて、ルチアが足を踏み出す。二歩目を踏み出すまでの束の間、体をねじってイスラを振り返る。
 ルチアの頬には、笑みがあった。
「イスラ。大丈夫です。わたしが勝手に信じただけです」
 白い枝は、朝霧と、私兵の制服に紛れて、すぐに見えなくなった。

「ルクレツィアの名前を出したのは、不用意だったね」
 イスラは顔をあげた。
 すぐそばに、アンゼルムの緑色の目がある。
「申し訳ありません」
「まさか」
 肩をすくめてアンゼルムが離れる。
「こうして期待通りの結果になったんだ。きみに頼んでよかった」
「ありがとうございます」
「後片付けはいるかい?」
 イスラは首を横に振った。アンゼルムの足音が遠ざかる。
 すさまじい慄きが全身を縛りつけている。がちがちと、耳の奥で硬い音がこだましている。自分の歯の根が鳴る音だ、ということにはやがて気がついた。体は指先ひとつも動かせない。
 がくんと、イスラの首が折れた。それ以上動けなかった。
 動けなくてよかった。体の自由が利いたなら、膝から地面に崩れ落ちそうだった。
「どうかしたのか? イスラ……」
 ヤノシュの手が肘に触れた。イスラは手のひらで顔を覆った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?