20190925序章表紙

憑羽たちに寄す:二十二 幸い

 イスラの戻った廃村に、人の姿はなかった。あれだけとどろいていた、猟犬の声ひとつ聞こえない。
 代わりに、静まり返る広場は、置き忘れたような人影がある。
 イスラは目を瞬いた。
「ヤノシュ?」
 もう長いこと会っていないような気さえする、イスラの監督官が、崩れた家の軒下に立っていた。
「ヤノシュ、じゃねえだろうよ」
 ヤノシュは長銃をかけた肩を怒らせて歩み寄ってくる。
 イスラは頭を振る。ヤノシュの態度は、最後に言葉を交わしたときと、なにひとつ変わらない。
「知ってるんだぞ。おまえなあ、俺の名前でほとりの馬持ち出しただろう」
「それは」イスラは言い淀む。「申し訳ありません」
「違うんだよ。いや、違わねえんだが。このさい馬のことはいいんだ」
 ヤノシュは頭をかきむしる。足元に視線を落としては、もごもごと唇を噛みつ放しつしていたが、やがて表情を決めかねた顰め面でイスラを見た。
「なあ、どうしたんだよ。おまえこないだからおかしいぞ。何があったんだよ」
 ヤノシュが一歩踏み出すのに、イスラは一歩後ろに下がる。
「今は、離れていてくださいますか」
「おまえ、いつもそうだろう。肝心なとこはそればっかりだ。ご領主に、なんかしら難しいこと言われてんのはわかるけどよ」
「ヤノシュ」
「今回はちと度が過ぎるぜ。俺やレーカに、心配のひとつもさせちゃくれねえのか」
「ヤノシュ!」
 イスラは遮った。目を丸くするヤノシュを捨て置き、ぱっと背後を振り返る。鉄の靴底が地面を踏み荒らす音だ。
 広場をぐるりと取り囲んで、白い軍装と、同じだけの銃口が、まばたきのうちに整列する。
 あとのひとつの足音は、ゆっくりと訪れた。ひときわ背丈の高い、青い礼装……ティーア辺境伯家現当主。
 アンゼルムの右手には、遠目にもぬめるような光を弾く、胡桃の銃床の散弾銃が握られていた。
「おかえり。イスラ」
 アンゼルムの口調は、いつもと同じに穏やかだった。
「ここに来ると、ご存じだったのですね」
「他でもない、きみのことだもの」
 アンゼルムはゆるく首を振る。
「それになんにも労なんてないよ。僕はここで、勢子が獲物を置いて立ててきてくれるのを、待っていただけなのだから」
 アンセルムはぐるりと周囲を見渡す。
「さてイスラ。今の自分が、傍目にどう見えているかはわかるかい」
「ご婦人を目当てに職務放棄した由々しき部下」
「うん、それは面白そうだ。一番単純で、深く追求せず納得しやすく、何より尾ひれをつけやすい。舞台作家の原案に送ろうかい」
 笑うアンゼルムはどこまでも鷹揚だ。
「だけど実際、私にはとてもそうは思えない。君を評価していたつもりだったからね。
 どうしても生きていたいと、君は常から言っていただろう? そんな君が、こんな先の見えない真似をするなんて、私には不思議で仕方ない」
「僕にも、不思議に思うことがあります」
 肩をすくめるアンゼルムへと、イスラは声を被せた。
 アンゼルムが首をかしげて、それでも許可を示すべく、手のひらを持ち上げて見せる。
「ご領主は、最初から、ルチアが姿を変えるものなのだと、ご存じだったのではありませんか」
 わずかな沈黙があった。
「なんとも、突飛なことを言うね」
 アンゼルムが肩をすくめてみせる。
「なんでまた、そんなことを思いついたんだい?」
「あなたしかいないんです。すべてにおいて、望みどおりになる人が」
 イスラはつとめて一度、息を吐く。
「ルチアがただの病人で、ほんとうに捕獲したいだけなら、もっと確実なやり方はあった。最初からこうして、外には狩りと嘯いて、多くの人手を駆り出せばよかった。
 あなたはそれをしなかった。
 ルチアに僕を近づかせて、同じ憑羽の者と交流する時間を与えた。ルチアを捕獲する折には、ティーア辺境伯たるあなた自らが、わざわざ辺境の街まで、確認のために訪れた。
 そしてティーア領に入ったのちには、檻を破って逃げ出す恐ろしい怪物だと、怪我人を出してまで知らしめた。結果、ルチアは誰の目にも怪物で、辺境伯家による討伐は正しい行いだ。
 あなたが、ほんとうに、どれも防げないなどということがあるでしょうか」
 アンゼルムは黙っている。黙って、イスラの言葉を聞いている。
「すべてを手の内にして行動できるとしたら、普段の生活では憑羽の病が感染しないこと、彼女が怪物になりうること、両方を知っている人くらいでしょう。
 それだけの事情を知っていて、かつ自由に行動に移せる人といったら……。
 ご領主。僕の知る限りでは、あなたくらいです」
 イスラは締めくくった。
 誰も動かない。動揺もない。
 居並ぶ兵士も、微笑んだままのアンゼルムも、壁に描かれた絵画のように、静まり返ってそこにある。
「少しばかり性急だよ。今の帝都の有様はね」
 やがてアンゼルムが口を開く。
「新しいものを組み立てる楽しみ、省みずひた走る楽しみに、困ったことに帝までがご執心だ。誰かが水を浴びせなければならない。
 大国が放ったわかりやすい怪物。絵空事と思われていた病が、平和を謳歌する市民を襲う。熱を覚まさせてさしあげるには、ちょうどよい力加減の事件だと思わないかい」
「そのために彼女を使ったのですか」
「イスラ。彫刻石のことを覚えているかい」
 アンゼルムがはっきりと苦笑を浮かべる。
「君の選んだ瑪瑙は、自分が何へと作り変えられるのか、選ぶことができたと思うかい。
 自分がどんな役割を持っているか、誰のために役立てるのか、当人だって知らないことはあるものだ」
「だとしても」
 真っすぐに視線を据えたまま、イスラはアンゼルムの言葉を遮った。
「ルチアは怪物ではありません。死を望まれて、容れねばならぬと思い定めるような娘です。望んで人を害したりはしない」
 アンゼルムの微笑が、寂しげに陰る。
「あれが望んでそうしたかなんて、大した問題にはならないんだ」
 笑みの形の唇が、ひそやかな声色でささやいた。
「君がもうすこし謹み深かったら、今まで通りの生活が送れた。あの憑羽も不用意に傷つかずに済んだだろうに。
 ようやくと形になってきた、きみの育った鴉の庭を、君は、君の一存で壊すのかい」
 イスラはつかのま、目を閉じた。
 どちらでもよかったのだ。
 ルチアであろうと、イスラであろうと……憑羽が捕まろうと、逃げ出そうと、アンゼルムにとってはどちらでもよかった。
 白い怪物を火種として、対処できる程度の問題さえ起こればいい。国境の緊張に、王都の目が向きさえすれば、……今の状況もまた、アンゼルムの「目的のひとつ」にかなう。
「戻っておいで。イスラ」
 アンゼルムが手を差し伸べる。
「あの怪物と君が同じものだなんて、誰も思っていやしない。
 白い怪物が、あんな姿になるのなら、なおのこと君の過失ではないよ。落ち着いてこちらへ戻っておいで」
「……君は、何を幸いと思うかい」
 アンゼルムの頬から表情が失せる。
 仮面が落ちた後のような、ティーア辺境伯の顔を見たのは、向かい合うイスラひとりだったかもしれない。
「ご領主は僕が、イスラが何を望んでいるのかと、一度も訊きませんでしたね」
 イスラは静かに続けた。
「たとえ誰にとって美しかろうと、僕の幸いを、僕のいないところで決めてしまう庭には、いられません」
 静寂がさざなみのように広がる。
 言葉の意味が行き渡ったとき、アンゼルムの背後に控える正規兵の列が色めき立った。
 身を乗り出しかけるものへと、横に倒した銃身が翳される。しぐさひとつで静止をくれてから、アンゼルムはイスラへ向き直る。
「それで、白い怪物を逃がしたのかい」
 アンゼルムは薄く笑んでいる。
 その微笑が……ふいに裂けた。
 軽く合わせられていた唇が綻び、押し殺した声が漏れ、次には呵呵と笑い声があがる。
「ああ、ああ、そうか。それじゃあ仕方ないねえ。
 仕方のない子だ、おまえがどうしても欲しいものは、確かに僕の手の外だよ」
 笑いに笑って、とうとう滲んできた涙を、拳の背で拭い落す。絶え絶えの呼吸をようやくひきとって、アンゼルムは少し前にのめったまま、ようやくイスラへと顔を向けた。
「ではここで聞かせてくれるかい。憑羽の望みがどんなものか」
「生き延びる道を」
 イスラは硬い声で答える。
「白枝の娘と、私とを、このままシウスへ行かせてください。
 ケレストには戻れずとも、公には死人となってもかまいません。ですが命は持ってゆきます」
 アンゼルムは名残のような笑い声を立てた。散弾銃をつかむ右腕がまっすぐ差し伸べられる。
 茶器を机に置くときのときのなにげなさで、アンゼルムは握っていた手のひらを開く。見目より軽い音を立て、散弾銃は一度草の上に突き立つと、草の中に倒れて見えなくなった。
「聞き届けよう」
 軽やかにアンゼルムは宣言した。
「ただ、我々にも都合がある。
 こうして大事になってしまった以上、もはや保身の問題ではない。帝都に裁可を仰ぐことだろう。
 ひいては事件の証明、怪物を討ち取った証拠がほしいところだ。
 六歩。そこから前に出て、立ってくれないか」
 一拍の間をおいて、イスラは歩みでる。広場のちょうど中央で立ち止まったイスラへと、アンゼルムは歌うように続けた。
「鹿の枝角、獅子の毛皮の代わりとしよう。君の背の枝を、片方くれるかい」
 自分で、片枝を切り落とせと、アンゼルムは言っている。
 イスラは暫く黙って、右の枝を持ち上げた。曲げた肘に乗せて、鉤に曲げた左の枝の上へ乗せる。
 幾分か短くなった左の枝を、いくらか手間取りながら、昨夜とは逆のかぎに曲げて、引く。
 びしゃりと血飛沫がいびつな弧を描く。
 血の滴る枝を右手に、イスラは腕を差し伸べる。
 アンゼルムが小さく顎を上げる。イスラは一歩、前に出た。
 草が潰れる。繊維のひしゃげる耳慣れた音に、金属音が重なった。
 イスラは体ごと背後を振り返った。
 ――銃声。
 左の枝のなかばほどから先が、自分の体を離れて飛ぶのを、イスラは見た。
 ぼたぼたと血の飛び散る切り口を、背中に回した手で掴んでうずくまる。赤色が次々に溢れて、指の上に太い筋をつくる。
 こわばりそうになる喉を無理やり開く。下手に噛み締めれば歯が割れる。
 痛い。自分でそうと決めてちぎるのとは勝手が違う。他人事のように考えながらイスラは瞼をこじあける。
 ガアン。
 二度目の銃弾は、残った右の枝がかろうじて逸らした。
「いつから、ですか」
 ヤノシュは大股に歩み寄ってきた。銃身を油断なく両手で構え、煙を引く銃口をイスラのこめかみに突きつける。
「最初っから。おまえをご領主に紹介されたときだな」
 ひといきついてヤノシュは続ける。
「なあ、イスラ。誰がおまえの世話をした。誰がおまえの、枝を試すのにつきあった?
 いったいなんだってご領主が、おまえみたいな危険物を、野放しにすると思うんだ」
 イスラは目を閉じた。体の芯が溶け失せるような、郷愁に似た感覚が薄れるのを、ほんの少しだけ追った。
「気の毒だとは思うが、こっちにも都合があるんだ。最後まで仕事させてくれや」
「ああ、もういいんです」
「何言ってんだ、おまえ」
 ヤノシュがあからさまに舌を打つ。イスラのこめかみに黒い銃身を押し当てる。
 失血に唇を震わせながら、イスラは微笑む。
「もう、来てくれました」
 ヤノシュの片眉が上がり……その下の目が開かれる。
 イスラが手をついた下草が、地面ごと細かに揺れている。
 揺れはやがて地響きと、はっきりとした濁音を伴って近づいてくる。
 一瞬の後、黒々とした風が翻る。
 目の前に馬蹄が迫って、腰を抜かすようにヤノシュは後ろざまに逃れた。
 イスラは差し込む影を見上げる。
 旗。深紅の布地に、白と金の、日射しにきらめく光る糸で、羽ばたく大鳥が縫い取られている。
 陽に住まう大鳥……南の大国、シウスの軍旗。
 旗持ちが地上で、全身を使って支える重量を、いとも軽々と片手に打ち振り、真っ白な馬を駆る男は、ヤノシュをなかば跳ね飛ばし、イスラとアンゼルムの間を遮るように駆け込んだ。
 男の後ろ、馬上から白い塊がまろび落ちる。塊はよく見れば、白い枝を生やした娘だったが、注視するものは今やいなかった。皆、馬上の偉丈夫に目を奪われている。
「ティーア辺境伯爵家当主、ティーア・アンゼルム?」
 男は朗々と呼ばわった。孔雀緑の上着に、覚めるような赤の装飾帯、それらを纏う男の体格も相まって、生粋の軍人のようでさえある。
 もっともこの場にいる者は、ほとんどがそう信じただろう。見上げるような上背と堂々たる体躯を、軍装に包んだ大男は、誰の目にも名のある軍人だった。
 アンゼルムが歩み出る。静かに頷いた。
「火急ゆえ馬上より失礼する。我が主家、シウス国がユステ家、北方領伯家当主カイウスより、書簡を預かり罷り越した」
 あくまで静かに、太い声色が文面をかかげる。
「先日国境を侵犯した憑羽が、貴君の縁者であるとの報を受けた。
 真偽のほどの確認、および今後の対応のため、正式に拝謁の機会を賜りたく、ここに申し出る」
 アンゼルムが視線を走らせる。
 青い袖から伸びた手が合図を意図してひらめくのと、ヤノシュが銃を持ち上げるのと……イスラが草を蹴って飛び出すのとは、同時だったろうか。
 ……火薬が炸裂する。
 ヤノシュが短い悲鳴をあげる。
 引き金がひかれるよりほんのわずか早く。赤の枝に覆われ捩じ曲げられた銃身は、火薬と銃弾の行き場をなくして、持ち主の手指を吹き飛ばしていた。
 五指のなれの果てがぼたぼたと草の上に散る。
 一部始終を見届けて、長い息をついたあと、アンゼルムは馬上の男……ネストレに向き合った。
「お話をおうかがいしましょう」

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