20190925序章表紙

憑羽に寄す:八 正体

 青緑色に透き通った、見慣れはじめた川面を、イスラは決然と見つめている。
 ことさら色濃い、流れの深い場所に、今は魚の影はない。すべて逃げ散った彼らの代わりに、丈の長い白い服が、たっぷりとられた生地をくゆらせて、悠然と流れに泳いでいる。
 ルチアの服は、これでもかと叩かれはたかれた上で、川の深いところで川底の石とイスラの右手に握られた紐で固定され、ゆるやかな流れにさらされている。
 折に触れて目の端にちらついていた裾の草染みも、少しばかりやわらいでくれればいい。考えるイスラが、頑なに川面へと視線を固定しているのは、なにも服の見張りのためだけではない。
「イスラ。さっきみたいなやり方では、わたし、素直にお礼を言いづらいのですが」
「弁解のしようもありません」ルチアの声を背中で受け取る。「ですがご理解願いたい、とは申し上げておきます」
「わかっていますよ。ただ少しだけ、腑に落ちないのも本当です」
 さり、と、布の擦れあう音がして、ルチアが身じろいだのがわかった。
 今のルチアは、袖の代わりにふっくらとひだをとった肩紐で身頃を吊るし、胸の下を結び紐で蝶々に絞った、ゆったりと白い綿の肌着姿だ。
 服をはがされるのを、ルチアは酷くためらっていたが、カタミササゲに敵味方の別はない。こればかりは容赦してひどい目に遭うのは彼女である。
 とはいえイスラにしてみれば、拍子抜けした、というのが正直な感想である。
 特に、丁寧な花の刺繍と蝶結びが裾と胸元を飾り付けているあたりなど、肌着とはいえ市民階級の者にしてみれば充分な……羽織りものでも肩に乗せれば、このまま街中でも歩けそうな着込みぶりだとさえ思われた。
 とはいえルチアが恥じらうなら、これ以上否やを唱える必要もない。そしてイスラは黙って川の向こう側を眺めている。
「もう、来ないでしょうか」
 ルチアがぽつりと口にする。イスラは視線を 木の枝に移動させる。
 ほとりの街から廃村までの目印にもなっている、枝折れの大杉の傍は、周囲が開けていることもあってか、生き物の影も少ない。仮に何か近づいてきたとしても、気づきやすく対処のしやすい場所だった。
「今日一日は大丈夫でしょうね。すぐに応急処置をしたとしても、あの具合なら、数日なにも掴めないくらい腫れますから」
「そんなにひどいんですか?」
「昔、うっかり手にこぼして、指抜きが外せなくなりました」
 返ってくるルチアの笑い声はどこか力ない。
 それでも少し緊張がほぐれたと踏んで、イスラは自分のほうから話を振った。
「ティーア邸下の店で……商人と名乗る方から、話を聞きました」
 ふと、ルチアのまとう気配がはりつめたのを、イスラは背中越しに感じ取った。
「シウスの王弟の嫡子が亡くなった。名をルクレツィア……略式名をルチアと呼ばれる、北方領の一人娘だと」
 大きな嘘を隠すために、もっともらしい疑念をあえて明かしている。後ろめたさが胸の裏側を刺したが、引き返すことはできなかった。
「ルチア。あの人を、ご存知ですか」
 沈黙が落ちた。
 さりさりと水の音が戻ってくる。
 ルチアの声が返ってきたのは、イスラが水中の服の揺らぎを心の中で数え始めて、十とつけ加えたころだった。
「ネストレ。お医者様です」
「医者?」
 イスラは自分の腕を見下ろした。記憶にある限り、男の腕は倍以上の太さをしていたように思う。
「南の医者は、熊の治療でもするんですか」
「外科の知識もお持ちなのだそうです。患者さんを押さえるのには役に立つと」
「それは、なんとも」
 想像を超えてまっとうな返事が帰ってきた。どう答えるか考えた後、イスラは結局無難にやりすごす。
「それでそのお医者さまが、どうしてルチアに殴りかかるんです」
 ルチアは黙っている。イスラも黙って待っている。
 色の濃い葉が枝の高い場所で広がっている。
 清々しい日和だった。互いに着の身着のまま、住処を逃げ出してきた身でなければ、もう少し穏やかな一日を過ごせただろう。
 そうした暮らしを、知らず期待していた自分に気がついて、イスラは肺腑の裏が冷たくこわばるのを感じた。
「イスラ」
 いつしか枝の先まで見上げていたイスラは、足元に視線を戻した。
「どうか妄言とお思いにならないで、聞いてくださいますか」
「聞きましょう」
 ルチアの声の質が変わったのがわかった。イスラは背を向けたまま背筋を伸ばす。
「わたしの名はルクレツィア。シウス北方公家ユステ、カイウスの第一子です」
 何か白い、閃光のようなものが脳裏に爆ぜたのを、イスラは自覚した。
「憑羽の病を得た者がいては家名に障ります。わたしの幽閉か暗殺を迫られて、ユステの家の者たちは、できる限りの知恵をつたえて、わたしを屋敷の外へ逃がしてくれました。
 わたしが今まで生きていられたのは、父から持たせてもらったもの、教えてもらった知識に加えて、この枝があったからです」
 声色は澱みない。水が低いところに流れるように、あらかじめそう決まったものを読み上げる、諦念のような静けさをまとっている。
 ルチアにとってはむしろ、こちらが普段の姿なのだろうと、何ともなくイスラは悟る。
「ルクレツィア……様は、病で亡くなったと聞いていますが」
「ちょうど胸を患って、臥せっているときに枝が生えたんです。病が悪化して、そのまま見罷った、公にはそう伝えると聞いています」
 ルチアは一度、言葉を切った。
「本当なら、父の行いは許されないことなのでしょう。
 ネストレもそう考えたのだと思います。ユステの家の憂いを、本当の意味で断ちたいと」
 しまった、と気づいたのは、イスラ自身、振り向いた後だった。
 ルチアは俯いていた。腕が二本重なり合って、折り曲げた膝を抱いている。声色だけが、まるで別人が傍で語り聞かせているかのように、嘘寒く凛々しい。
「わたしがこうして、誰かに話してしまう前に、口を封じたかったのだと思います」
 イスラは手を伸べかけて、指を折り曲げて、下ろした。
 ルチアを労りたいという、なかば反射のように生じた思いはある。一方で、イスラの脳裏には、小石を踏みつけたような違和感があった。
「青のない服……」
 ケレストでは、青は神聖視されている色だ。紺青の石のうち特にやわらかいものを、粉に砕いて溶いて染めつけた真青は、諸侯の正装として貴人の身を飾っている。
 そうした青には流石には手が届かずとも、ケレストでは階級問わずに青が好まれている。花や水色に近いごく淡い青ならば、髪結い紐や帯といったかたちで、平民階級のものまでが身につけようとする。裏返せば、青を一切身に着けていない者は、それだけで敬遠や蔑視の対象にさえなりうるとなる。
 違和感の正体……狩人装束の男が思い起こされる。ルチアを探して訪れたとき、ほとりの街の南門で行きあった、丈高い男の姿だ。
 彼は、青を身に着けていただろうか?
 ネストレなる男が、既にほとりの街を訪れていたのなら、ルチアを探すティーア辺境伯の動向は、ある程度掴まれているのかもしれない。
 そこまで思い至って、イスラは口元を覆う。
 今やルチアは、自らの素性を口にしている。イスラの疑念にはこれ以上ない裏づけができ、イスラがルチアを窺う理由はなくなった……なくなってしまった。
「青?」
 すぐそばで声がして、イスラは顔を上げる。ルチアがすぐ傍ににじり寄っていた。
「なんでもありません。それよりルチア、今後のことです。
 ルチア、ケレストへ行きませんか」
 代わりに……かねてより用意していた言葉は、当然のように滑り出てきた。
 ルチアはゆっくりとまばたきをした。イスラがすぐ傍に近づいても、まなざしはどこか茫漠としている。
「森のほとりの街に、知り合いが来ています。数日間滞在するくらいなら、即金でなくても部屋を借りられる。先のことはそこで考えましょう」
「でも」
 ばさばさと外套を剥ぎ、ルチアの上にかぶせる。
 落ちてきた外套は、ルチアの体には大きかったが、背中の枝を覆ってなお、足元まで覆う丈がある。
 ルチアの背中は、枝の形をうつして、荷物でも背負ったように丸くなった。
「あなたのことは、まあ、腰の具合が悪いとでもいっておきますよ」
 外套の端からルチアの白い顔がのぞいている。
 胸の前で分厚い布の合わせ目を押さえて、まん丸い目をしてイスラを見つめている。
「イスラ」
「なんです?」
 訊き返して、イスラははたと今の自分の格好に思い至った。
 素肌に直接布を巻いた上に、赤い枝が巻きついているだけの上体を見下ろす。裸一歩手前の軽装だ。
 見ればルチアが顔を伏せている。そういえば振り向くなとも言われていたのだった。
 失礼にあたっただろうか。一瞬背中が冷えかけたが、ルチアのうつむいた顔に垂れた前髪が震えているのに気づいて、イスラは肩を落とした。
「笑わなくてもいいでしょう」
「ごめん、なさい」
 はたせるかな、ルチアの目の端には、涙が粒をつくっている。
「だってあんまり、おかしくって」
「こうしておいたほうが使いやすいんですよ、枝」
 イスラは後ろ頭をかきむしる。
「なんならルチアもやってみればいいんです。服、どうせ濡れたままでしょう」
「お断りします」
 ルチアはまだ震えている。

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