20190925序章表紙

憑羽に寄す:十五 決別

 足音を殺して、イスラは二階への階段を上がる。
 関の脇に儲けられた宿所に入ったところで、イスラは門衛から言伝てを受けた。
 ……到着次第、ご領主に報告を。
 黒々とした関所の影が、街道の向こうに見えたあたりで、イスラは馬を降りていた。道中に取り決めたとおり、ネストレは馬を連れたまま、街道脇の林に潜んでいる。
 関に入り込むだけなら、イスラひとりのほうがたやすい。万が一交戦する事態になったとき、自分の身とルチアを同時に守れるだろうネストレは、最後まで身を隠しているほうが都合がよかった。
 ……合流は夜が明けてからだ。朝を待って、ほとりの街を抜ける心算だった。
 南棟の端の部屋で、イスラは立ち止まった。
 外套ごしに、喉に触れる。首に回った数珠飾りを握りしめる。瞑目のうちに、青玉の滑らかな硬さを味わったあと、イスラは目を開いた。
 手のひらには、爪のあとが残っている。赤くくぼんだあとを眺めたあと、拳をつくって、イスラは扉を叩いた。
「お帰り」
 応えがあって、イスラは扉をあけた。
 簡素な机の備えつけられた休憩室で、アンゼルムは茶を淹れていた。銀の匙が、まるい銀色の缶に差し込まれては、乾いて黒ずんだ葉が茶器の中へとすくい落とされる。
「報告を」
「いや、かまわない」
 イスラは目をみはる。アンゼルムはいたずらっぽく笑って見せた。
「何を報告するつもりだったんだい? 君の仕事はもう終わっている。
 消耗品の申請なら、戻ってからそうしてくれればいいよ」
 湯が注がれるにつれ、重く甘い香りが漂う。大抵は冬に嗜まれる、香辛料をふった発酵茶の香りだった。
 アンゼルムが茶器を持ち上げる。窺うように首をかしげた。
「つきあってくれるかい。今日は冷え込む」
 一礼して、イスラは向かいの席に腰を下ろした。
「君も久しぶりに、あたたかい寝床につけるだろう」
「ええ」
「気になることがあるかい」
 イスラはまばたきして、時計を見やるアンゼルムの横顔を見つめた。彼の意図がつかめない。
「気もそぞろって顔をしているよ」
 アンゼルムが茶器を傾ける。注がれる琥珀色をイスラは見つめた。
「あの娘はどうしていますか」
「気になるかい?」
 イスラは知らず唇を湿らせた。言葉を選ぶ。
「同じ枝つきですから」
「そうか。そうだね」
 木製の椀が差し出される。アンゼルムが椀を傾けるのに合わせて、イスラも口をつけた。
 重く甘い、ゆるやかに渦を巻いて凝(こご)るような、癖のある香りが喉を過ぎていく。
「大人しいものだよ」手のひらの茶器を机に預けて、アンゼルムはひとりごとのように言う。「念のため鎮静剤を与えているけれど、いっそやめたほうが、敬意を示すことになるかもしれない。あれだけ潔いと見事だね」
 はっとイスラは顔をあげる。
 アンゼルムは落ち着き払っている。顔の半分は、机についた肘の先、組まれた指先に隠れてうかがえない。
 微笑んだ緑色の目だけがイスラに向かっている。
「君には感謝しているんだ。
 これまで憑羽は君だけだった。憑羽用の鎮静剤も、形になるまで、君に試用を頼むほか道がなかった。辛い思いをさせただろう。
 あの憑羽が使えるようになれば、君の負担も少なくなる」
 イスラの表情に何を見たのか、アンゼルムは笑みを濃くして指を解く。
「心配には及ばないよ。あれは君にも、ケレストそのものにも役に立つ」
 あらわになった口許は、目元とは裏腹に、真摯に結ばれていた。
「あれはシウスの遺棄した怪物だ。生きていて初めて、役に立つことも多いだろう」
「それは」
 まばたきを忘れた目の縁が乾く。ひりつく痛みが追ってくる。
「薬の試用のほかにも、使う機会はあるのでしょうか」
「考えてごらん」
 こつりと音がして、アンゼルムの手が机上から離れる。
 イスラは息を飲んだ。
 机の上には、深い緑の瑪瑙がひとつ、乗っている。層になった瑪瑙の、白い部分を浮き彫りに、見るものに背を向けた女性が描き出されている。
 イスラが彫り上げて間もない、彫刻石だった。
「この彫刻石を、君たち鴉が彫っていると知るご婦人はいないだろう。
 歪だよ。自分達が愛でて誉めそやすものの成り立ちさえ、今の帝都の者は知らないでいる」
 アンゼルムの指が石の表面を撫でて、弾く。
「悍馬(かんば)は慣らせれば崖を越え、銃声にも怯まぬ名馬になる。
 常ならぬ者たちの有用性が知れれば……誰の目にもわかる業をなしとげれば、君たちのいる鴉の庭が、宝とされる日も来る。
 私がどうして、ここにいるのか、知っているだろう?」
 イスラはネストレを見つめた。
 この人は、憑羽にまつわる昔語り……あぶくのような噂話を無闇に容れるほど、傲慢でも、弱弱しくもない人だ。
「必要な場所に、必要な形で収まればいい。それを幸いとして受け入れられる者なら、皆歓迎するだろう。
 そうやって今の世の枠組みはできている」
 アンゼルムの指が瑪瑙を持ち上げて、イスラの方へと差し向ける。彫刻の繊細な意匠の向こうで、アンゼルムの、つくりもののような顔が微笑んだ。
「イスラ。君は優秀だ。これから君が楽になれることを、私は嬉しく思うよ」

 階段を下りる途中、イスラはふと自分の爪先を見つめた。段に下りる感覚が鈍い。
 片側を中庭に接した廊下をわたり、一階の宿所へ向かう。青白い月明かりに濡れて、石造りの廊下が、銀砂をまぶしたようにちらちらと光って見える。
 ……眩暈がする。
 額を押さえた、と思った瞬間、目に映るものが斜めにずれた。
 なにが起こったのか、一瞬イスラは混乱した。ようやく我が身を検めたときには、イスラの片膝は、石造りの床の上についている。
 もう片方の足、立てた右ひざの上に突っ張った、手の甲が震えている。
 立ち上がろうと力を込めた爪先が滑る。イスラは半端な格好で横倒しに倒れて、回廊から中庭へと滑り落ちた。
 反射で息を吸おうとして、喉奥の狭まる感覚に、身をこわばらせる。
 塗りつぶすように濃い、香茶の香りを思い出す。なにか混ぜられていても気づくのは難しい。
(ご存じだった……)
 イスラは細かくぶれる人差し指と中指をそろえて口に差し入れる。一度は喉を突いてえづきながら、中指で舌根を押さえて、吐いた。
 ひりひりした唇の痛みを拭って、腕をつっぱる。草の間についた腕ががくがくと肘から震えている。かひゅ、ひゅう、狭まった喉が鳴る。
 等間隔に並ぶ、庭木の影に身を寄せて、イスラは体の下敷きにした肘と膝とで、いざりながらじりじりと進んだ。
 背中を冷やす、月明かりがかげる。
「!」
 突き込まれた槍の石突を、イスラは芋虫が転がるようにしてようやっと避けた。
 首をねじって逆光を見上げる。
 ……鴉。
 外套に身を包んだ人の姿が、ふたり、立っている。槍が持ち上げられて、反転し、穂先がイスラへと切っ先を向ける。
 もがいて草の上を後ずさる。槍を握る鴉の手に、力がこもるのが見えた。
 その手が、縫い止められる。
 イスラの外套のしたから、枝が四条、滑りでた。昼間の光のもとなら、異様な赤をさらしていただろう枝が、威嚇するように身をうねらせる。
 枝つき、と、憎々しげな呟きがイスラの耳に届く。
 控えていたもう一人が槍を上げる。動けない同僚を回り込んで、掬い上げた石突で、イスラの胴を強かに打った。
 イスラの体が折れ曲がる。さらに柄が回され穂先が真上から打ち下ろされる。
 その柄に、枝が絡んだ。すさまじい早さで、穂先を這い上がって、男の腕を捉えた。
 ぱんっ、と、生木のへし折れるような音がして、鴉の腕が折れた。
 外側に曲がった手首を抱え込んで、丸まった背中へ、枝がうち下ろされる。鴉はそのまま草に沈んだ。
 もう一人は二本の枝に絡めとられたまま、体ごとイスラへと突っ込んでくる。その腕を枝が這い上る。
 胴へとたどり着き赤い枝は、外套越しに喉の中央、気管を皮膚の上から叩いた。
 鴉が殴られたようにのけぞる。しゃがみこんだまま、イスラは槍の端を掴んで振り上げる。顎を強かに打って、今度こそ男は昏倒した。
 イスラは荒い息のまま、槍を手放してへたり込んだ。着ていた外套が、からだから滑り落ちて、包帯におおわれた肩があらわになる。
 四方へ延び広がっていた枝が、次第に戻ってくるときの、体の中を蛇が這い進むような感覚がある。  
 心臓が耳の奥で脈を打っている。高揚が血管の中をかけめぐって、イスラの体を時間の感覚から切り離していた。

 るーーーううううううう……

 枝が唸り声をあげるのを、イスラは聞いた。
 それは凱歌だった。イスラの知らない、誰が聞き取れるとも知れない言葉で、内緒ごとを打ち明けるような、たくらみに満ちた喜びをうたっていた。
 ひそやかな枝の歌に囲まれて、イスラはしばらく動けないでいた。
 我に返ったのは、倒れたままの鴉のひとりが噎せこんだ音のためだった。
 慌てて引き起こして、頭を傾け、つまらせかけていた気道を確保してやる。
 もうひとりも同じように、中庭の端まで引きずっていく。壁にもたせかけて姿勢を整えているところで、いくつもの人の足音をとらえて、イスラは顔をあげた。
 ここに転がる、二人からの報告を、待つ者がいる。
 体が冷たい。打ちつけた腹のあたりが熱い。
 イスラはよろめきながら廊下に上がる。つきあたり、最奥の扉をつかんだ。扉はあっさりと開いた。
 うすく開いた隙間に、転げるように身を滑り込ませる。
 からん。
 固い音があがる。イスラは枝のひとすじを掴むと、切っ先を部屋の奥へと向けた。
「……イスラちゃん?」
 携行灯の灯りがともる。
 木板を継ぎ合わせた大机の上で、木の皿が小さく揺れている。灯りの照らす丸い円のうちには、他にも木製の食器や、乾燥して黒ずんだ果物が束ねてある。
 食堂だった。
 机の向こうに、鴉の外套が影のように立っている。
 くるくると回る皿を拾い上げながら、レーカは目の前の……包帯で巻かれ、赤い枝をくゆらせて、猟犬に追われた鹿みたいに佇む若者を見た。
「何があったの?」
 イスラは無言で枝を下げた。背中の扉を振り返る。
 人の足音が近づいていた。
 レーカが動いた。机をまわって近づく。反射的に持ち上げかけたイスラの手を、一瞥で制して、レーカは傍をすり抜けて外へ出た。わざわざ派手な音を立てて戸を閉める。
 イスラは厨房の奥へ体を寄せて、大机の陰に身をかがめた。
 手のひらを握っては開く。指の痺れはだいぶとれてきているようだった。
 わめくような声色が幾度か、イスラの潜む影の空気を震わせる。そのあとは青い薄闇と、想像を許さない静けさばかりが広がっている。
 扉がきしむ。開くまでの時間が、妙に長く感じた。
「出てきていいわよ」
 イスラは机の端から顔を出す。レーカ一人が扉の前に立っていることを確かめてから、その場に立ち上がった。
「ありがとうございました」
「お礼を言うのは早いわよ。あたしは話が聞きたかっただけなんだから」
 レーカは厳しい表情を崩さない。
「鴉の同僚をふたり、大怪我させて逃げたって聞いたわ。イスラちゃん、あなた、何をしたの?」
「するのはこれからです」
 レーカが眉を潜める。イスラは続けた。
「牢に友人がいます」
 レーカが熱いものに触れたように手を引いた。
 関にある牢はあくまで簡易収容のためにある。今日運び込まれた護送馬車は一台しかない。
「イスラちゃん。イスラ」
 レーカは後ずさりながら首を振る。
「冷静になってちょうだい。あれは怪物よ。同じ枝が生えているっていうだけのことが、そんなに大事なの」
 イスラは目を細めた。レーカはいいつのる。
「あれはあなたとは違う。ご領主もわかってくださるわ」
「まだ、そうおっしゃってくださるんですね」
 イスラは靴に手を添えた。短刀を抜く。
「あたしたちには、わからないっていうのね」
 レーカが身を抱くように、自分の外套に腕を回す。
「イスラ、あなたにとって、ここは、信用に足りない場所だったの?」
 イスラは微笑した。
「レーカ、あなたは、なにをご所望ですか」
「なにを?」レーカの頬に苛立ちがよぎる。「どういうこと」
「感謝ならいくらでもさしあげられる。けれど、あなたが欲しいのは、そういうものではないでしょう。
 感謝を理由に従えとおっしゃるなら、僕には、それはできません」
 沈黙があった。
 レーカは半分伏せた瞼の下から、イスラを見据えて、唇を噛んでいた。外套をつかむ指が、暗色の生地の上にいくつもの太い皺を作っている。
 イスラはまっすぐと立っていた。軽く足を開いて、どんな行動にも移れるようにと、つとめて静かに呼吸を整えていた。
 やがてレーカが、すうと右手をあげた。
 手のひらのない棒の先が、壁際の棚の途切れる場所、天井近くに施された、黒ずんだ窓枠を指す。
「煙窓から出て」
 レーカがつぶやく。
「屋根をつたいなさい。中庭から見えないように、南側の屋根をを通ることね。
 突き当たりで中庭に下りたら、すぐそばの廊下が牢に続くわ」
 イスラは黙ってレーカを窺う。レーカが後ろざまに一歩下がって、閉めたばかりの扉に背をつける。
「あたしは同僚に起こされて、はじめてあなたの話を聞いた。その他の場所では会っていない」
 差し伸べられた右腕が、指す先を窓枠からイスラへと変える。袖の奥、携行灯の灯りを受けて、何かが光った。
 枝が伸びるのは、一瞬だった。
 イスラの枝は机越しにレーカの喉を捉え、垂れ下がったレーカの袖からは、小指ほどの太さの針が落ちる。
 残る三本の枝を伸ばして、イスラはレーカを抱え起こした。扉の内鍵を下ろして、力の抜けた体を重し代わりにもたせかける。
 鴉に属しているとは思われないほどに、レーカは優しい人だった。優しさを主な対価に生きてきた人の、拒まれることをまるで想像していない失望に、否を伝えることには、少しの心苦しさがあった。
 イスラは机に上がる。棚に手をかけて、上る前に、扉を振り返る。
「ありがとうございました」
 答はなかった。

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