20190925序章表紙

憑羽に寄す:十一 オノグルの関にて

 ケレスト最南端の関所、オノグルの関は、ティーア邸下街とほとりの街の、ちょうど中央あたりに位置している。街道は細く、今でこそ人通りもまばらになってきているが、立地の重要性は変わらない。南北のふたつに分かたれた棟と、物見窓や武器庫、拘束用の簡易牢をも有する関所には、今も戦時の機能の一部が残されている。
 鴉の暗色の外套を着込んだまま、窓のそばからレーカは中庭を見下ろした。
 黒々とした夜のなか、向かいの南棟の一階、庭に面した渡り廊下では、等間隔に火が灯されている。灯りのつくる赤橙の円の外、まだら模様の暗闇のなかで、ふぞろいに光る銀色が、ちらついては遠ざかりを繰り返す。星の光にも見えるそれらが、実際のところ、正規兵の腕に抱かれた銃の金具だと知っている。
 ふだん静けさに塗り固められたこの関が、ひそめられた熱気に満ちている。レーカはそっと外套の合わせを握りしめた。
「面白いものは見えるかい」
 誰何の声はすぐ後ろからかかった。
 手にした小さな油灯りを机の上に預けてから、アンゼルムは机を回り込んで、窓際へと近づいてくる。
「いえ、なんにも。お耳を煩わせることはありません」
「話してくれと、乞うたほうがいいのかな」
 アンゼルムはゆったりと微笑んでいる。月は天頂近いにも関わらず、青い礼装はわずかも崩されることなく、銀色の釦が詰め襟を留めている。
 少しの沈黙があって、レーカは喉を震わせた。
「かわいそうなものだと思いまして。少しだけ。
 あたしは、あの子を、本当の子どものように思っておりましたから」
 不意に笑い声があがって、レーカは身をすくめた。
「驚かせてすまないね」
 口許に手のひらを押し当てて、アンゼルムは肩を震わせている。
「意地の悪いことを思いついてしまった。
 もしも君に子どもがいたら、それでも同じように感じただろうかと」
 レーカはうつむいた。とっさにいくつもの言葉が浮かんだが、ひとつも声にはならなかった。
 目尻をぬぐうそぶりさえ見せながら、アンゼルムは足を踏み出す。レーカの隣で、窓越しの空を見上げた。
「あの子はやめておいたほうがいい。
 あの子が鴉になってから七年が経つ。きっともう、君の望むような子どもを演じることはできないよ」
「演じる、ですか」
「知らないかい」
 レーカは首を横に振る。
「賢い子だとは存じております。先見(さきみ)の才があるのではないかと言うものは、鴉にもいくらかおりましたが」
「予言とは違うよ」
 アンゼルムが首を巡らす。レーカを見下ろす眼は微笑んでいる。
「あの子はね、底が抜けているんだ」
 じじ、と、油の焼ける音があがる。
 アンゼルムが笑みを崩さずまばたきする。大きな一重の、きらきらと光る緑色の目は、曖昧にぼやけはじめた部屋の灯りのなかでも、猫のそれのようによく目立った。
「常ならぬ子、不具の子ども。自分が望まれたかたちで生まれなかったことを、今もどこかで気にかけている。
 だからだろうね、あの子の思いつく考えには「ありえない」こそが存在しない。無意識にあってさえ、自分を守ろうと思わない。
 単純に……ほんとうに単純に、あらゆる選択肢を想定して、ふるいにかけることができる。そうやってあの子が指す道は、たいてい最良の道なんだ」
 レーカの当惑しきった顔と、アンゼルムが向き合う。
「大抵の人はこんなことはできない。自分を守れない鴉なんて、兄弟に押し負けて、雛のうちに飢え死ぬだけだろう?
 仮に生きていけるとしたら、人間のもとで、飼われ養われている間くらいだ」
「おっしゃっていることが、よく」
「うん。だから君に話すんだ」
 微笑みに細められた目がレーカを透かし見ている。
「君は優秀だ。わからないほうがいいことは、わからないことにしてしまえる。
 それだって立派な才だろう?」
 三日月の眼が半月のかたちに開かれていくのを目の前に、レーカは|腸(はらわた)から震えるような寒気に襲われた。
「そう、さっきの質問のことだけれどね。
 あの子は自分を償おうとしているんだ。ティーアのために働くことが、生まれつき抜けた底を塞ぐことになると信じている。信じ続けている間は、どこへやっても帰ってくるし、演技でも自傷でもするだろう。だからこそ、あの子の底を塞ぐ可能性のあるものは、できるだけ遠ざけておきたいんだよ。
 見えない首輪は、見えないことに意味があるものだろうから」
 レーカは跪いて頭を垂れた。できるだけ自然に、ゆっくりと膝を曲げるべく、冷たくなる手足を叱咤する。
 たとえばよく卵を産む牝鶏。たとえば足が速く、動じない胆力を持つ軍馬……アンゼルムの口ぶりは、家畜をどうつがわせるかと、母に持ちかけていた父の言葉に似ている。
 そしてアンゼルムは知っているのだ。「レーカに話すことは、自身にもティーアの家にも、何の痛痒にもならない」と。
 だからレーカは膝を折る。
 体が震えにさいなまれるのは、とてつもない畏敬のためだと知っている。この人が、権威でなく脅しでなく、口の堅さと命令への堅実さのために、自分を取り上げてくれたのだと知っている。
「あの子」が、彼にとって、必要に満たなかったから、今の場所に据え置いた……憎悪でなく失望でなく、ほんとうにただそれだけなのだと知っている。
 身の内に震えを抱えていたレーカは、傍にあった何者かに、アンゼルムが向き直るまで気づけなかった。
 いつやってきたのか、暗い青の外套の人影が、影のように立っている。
「おかえり」
 頭の覆いが持ち上げられる。痩せて、どこか険しい、男の顔があらわになる。
 ヤノシュ、とレーカが呟いた。
 ヤノシュはうかがうようにレーカへと視線を投げる。アンゼルムがうなずく。
 ヤノシュは頭を下げて、二言、三言、なにごとかささやく。
 レーカにはそれとわからない、歌のような細やかな音の連なりが、束の間流れて、消える。
 瞼を伏せて聞いていたアンゼルムは、やがてレーカに向かって快活に腕を広げて見せた。
「いい知らせだ。白い怪物が網にかかったよ」

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