20190925序章表紙

憑羽に寄す:十八 作戦

 草を踏む音が近づく。
 まるく広がる灯りの中に、徐々に、大男……ネストレの姿が現れた。
 ルチアは身をちぢめた。血の気の戻りかけていた頬がさっと青ざめる。
「見苦しいところを、お見せしました」
 消え入りそうなルチアを見下ろして、ネストレは口元をゆるめた。灯りを囲んでルチアの向かい側、イスラの隣にどかりと腰を下ろす。
「見苦しいかはともかく、ご令嬢。ずいぶん派手にやりましたね。
 あの、森の傍の街。外門がどちらとも踏みつぶされて、酷い騒ぎになっていましたよ」
 言いながらネストレは首をめぐらす。ルチアを眺めまわすしぐさはどこか空々しくも見えた。
「しかし驚いたな。憑羽ってのはみんなこんななのか?
 体の形も大きさも、あんな急激に変わるなんて、知られてる病の範疇じゃない。どう見ても質量の不変を無視してたぞ。学者先生方の定義がひっくり返っちまう」
「ネストレさん」
「まさかとは思うが、魔物憑きってのは、ほんとうにいるのか?」
「ネストレ」
 イスラはネストレを睨んだ。奇妙なくらい流暢にしゃべっていた男は肩をすくめる。
「不用意なことを言ったな。
 だがほんとうに、憑羽の症例は、数が少ないんだ。調べようにも、患者はだいたい、隠されるか棄てられるかするからな。私も生きた憑羽、それもふたりも並んでいるのは、初めて見る」
 ネストレの声の調子が、だんだんと細く、遠くなる。
「記録がないんだ。みんな口伝か、尾ひれの生えた寝物語の類だ。聞いたこともない。あんな」
 ふいに声が途切れる。
 自分の膝を掴んだまま、ネストレはがっくりとうなだれた。
「ご令嬢」岩が軋るような呻き声だった。「あなたは、無害でなくてはならなかった」
「ずいぶんと、投げやりですね」
「投げやりにもなるさ」
 応えは酷く弱々しかった。
「シウスがここ二十年近く、外交に徹してきたのは、当代のティーア当主も理由のひとつだ。
 少なくとも彼が生きている間、武力に訴える利は少なかった。それを」
 ネストレの息が詰まる。両の目はかたく閉ざされていた。
「もう、言い訳しようがないだろう。
 ティーアの当主はご令嬢を知った。夜が明けたら、シウスへ人が走るだろう。
 ユステの家は糾弾される。ケレストはシウスに対して、世に明かすだけで事足りる優位を得る。
 北の小国に便宜を図るようなことが続けば、周辺の連盟国にも不満が募る」
 笑おうとして失敗したような、奇妙に引き攣れた声色で、だから、とネストレは締め括った。
「ご令嬢は、ご令嬢として、ただの病で亡くなっていなくてはならなかった」
「そうでしょうね」
 イスラは笑う。からからに乾いた声色だった。
「最善の道は最初からなかった。憑羽を癒せる者さえいれば、ルチアはあなたがたの望みどおり、生きてご令嬢のままでいられたでしょうに。
 シウスのような大国の、政情に詳しいお医者様でさえ、憑羽を癒せないでいらっしゃる」
 ネストレが顔を上げる。眉間に皺の浮かんだ、一息に疲れきった面差しのなかで、次第に両の眼が吊り上がりはじめる。
 自分の口の端が、嗜虐のような捨て鉢の感情で吊り上がりはじめるのを、イスラは自覚した。
「物語ができるほど昔から、憑羽の病はあった。なのに知らない。どうやったら憑羽を癒せるのか、どうすれば枝を鎮められるのか、誰も知らない。危険かどうかさえ知らなかった」
「何が言いたい」
 ネストレが口をはさむ。 怒っている、と思った。思っただけだ。
「知る前にさんざん遠ざけた、だから救いたくともそうできない。我々は自分のしてきたことに、今報いられているだけだと」
 それ以上音にはならなかった。
 イスラの喉が動くより先に、外套越しの左腕に、ルチアの指が触れていた。
「ネストレ。わたしに、できることはありますか」
 イスラの腕を引きとめたまま、ルチアはネストレに向かい合う。
「自死することはできません。どれだけ願っていても、この身が危険に遭ったなら、わたしはまたああなるかもしれない。白い怪物と言われても、何を反駁することもできない。
 けれど、ユステの主家の無事を願う気持ちは、あなたと同じです。他に、できることは、ありますか」
 言い切って、ようやくとルチアはイスラを見返した。金色の睫毛にふちどられた大きな目には、先ほどのためらいは見つからなかった。
「言ったでしょう。イスラ。わたしは、勝手に信じますから」
 イスラは目を見開いた。
 張りつめていた瞼から、力が抜けて、下りる。ふ、と呼気をひとつ。前にのめっていた肩からこわばりが抜ける。
 イスラはルチアの手をとって、自分の腕から外した。
「……お手伝いします」
「ありがとう」
 ルチアは笑っている。
 もういちど感情の名残をため息とともに吐き出して、イスラはネストレに向き合った。
「確認します。あなたの目的は、水面下のうちにシウスの不利益を防ぐこと。これで全部ですか」
 まだ戸惑いを残しながらも、ネストレは頷く。
「私の思うところは、君に伝えたとおりだ。ユステの家、ひいてはシウスの不利益を防ぐこと、そのためにご令嬢をケレストから連れ帰ること。
 ご令嬢の生死は、私が構うことじゃない」
「感謝いたします」
 ネストレは膝についていた手を離し、両の手の指を組み直す。
「さて。何にしても、まずはティーア辺境伯か」まなざしがイスラの上体、枝の描く赤い模様をたどる。「ご令嬢を背中に庇って、その枝で一戦交えるか?」
「まさか」
 イスラは首を振る。
「僕程度では万夫不当にあたりません。仮にティーアの私兵を退けたとしても、辺境伯の次は帝都の軍です。国境に兵士を集めたあげく、理由を公表できない状態をわざわざ作れば、結局外交問題になる」
「それは考えているんだな。では夜陰のうちにシウス領に亡命か」
「そちらのほうが難しいでしょうね」
 イスラの声色は変わらない。
「ティーア辺境伯の目的はルチアの捕獲か駆除です。
 こうして彼女が憑羽、しかも予想外の姿になりうるとわかってしまった今、そのどちらかの外はない。
 まして彼女の家があるうえ、手の出しづらいシウス領に逃げ込んだなんて、彼らにとっては最悪の筋書きです。
 人数の投入は夜明けを待つとしても、既に夜に乗じて人が入っていることは充分考えられる。シウス領を目指すと気取られたが最後、確実処分にかかってくるでしょう」
「なら、一体どうする?」
「一度、最後まで話してもよろしいですか?」
 ネストレが肩をすくめて口を閉ざす。唇の端が曲がっているのを見ながら、イスラは入れ替わりに口を開く。
「ティーアの者は、ルチアを追ってここに来るでしょう。関からこの森まで、ルチアが通ってきた痕跡は明らかですから。
 僕が関与していること、ルチアと共にいるだろうことも、ご領主には知れているはずです」
「勘づかれたのか」
「残念ながら。それでも、現時点で、つけいることのできる点もある」
 ルチアがぱっと顔をあげる。イスラは頷きを返す。
 真紅と薄緑、ふたいろの目に双方から見つめられて、ネストレは顎を引いた。
「なんだ?」
「ティーア辺境伯家は今回のことを、内々で済ませようとするでしょう。
 もし外部に救援を求めたり、ほとりの街の人に事情が知れたりしたら、辺境伯家が秘密裏に行っていたことまで公になる恐れがあります。少なくとも、決して帝都には連絡をとらない。
 それからネストレさん。ティーアの者は、あなたがここにいることを把握できていません」
 ふたりぶんの視線を振り払うように、ネストレが顔の前で手を振る。
「だからどうだっていうんだ。私がひとりで、辺境伯下の兵隊を相手どれるとでも?」
「それよりずっと楽なはずですよ」イスラは追いすがる。「要は、ご領主にとって、ルチアを捕まえることで得られる利がなくなればいいんです」
「しかし彼らに直接訴えたところで、利の薄さを証明できるようなものではないだろう。それこそ我々の話ひとつでは」
「証明できなくていいんです。証明をあきらめたい、証明したところで利が薄いと、判断させるだけの状況が欲しいんです」
 ネストレが顎に手をやる。黙考する。再度イスラの方を見たとき、まなざしから、苛立たし気な焦燥の色は失せていた。
「詳しく教えてくれるか」
 イスラは頷いた。おもむろに立ち上がると、以前ルチアの過ごしていた、家のほうへと歩いていく。
 残された二人が顔を見合わせている間に、すぐ戻ってきた彼の腕には、白く丸い石がいくつも抱えられていた。
「たとえ話をしましょう」
 ひとつ、ふたつ……イスラは丸い石を並べる。
「ティーア辺境伯がルチアを捕獲ないし死体を確保したい、主な理由はふたつ。
 ひとつは、稀な病である憑羽の患者の確保。
 ふたつは、外交における水面下での優位性の確保。
 このうち前者は、緊急性の薄いものです。すでに僕を被験者にして、憑羽の枝を抑える鎮静剤が形になっている。最悪駆除という選択肢が考えられるのもこのためです。病根解明のための解剖ならば、死体で充分でしょうから。
 重要視されているのは後者です」
 つやつやとした表面の白い石が、手提げ灯の明かりのもとで浅い橙に光る。
 整列を終えた石のまわりに、イスラが人差し指でなぞって円を描いた。
「次に、外交相手であるユステ家の状況です。
 どんな背景があれ、森に「白い怪物」を放したこと。その怪物が、ケレストの国境の街を破壊したこと。
 これがユステ家にとっての弱みであり、ティーア辺境伯が突きたい泣きどころ。この状況において、切り札になるからこそ、ティーアの者がルチアを確保したがっているという面もあるでしょう」
 円の中に、奥に十六、手前に三つ。石が向き合って並んだ版図を、ルチアは首を傾けて、ネストレは眉根を寄せて見守る。
 手前の三つを、イスラが指さした。
「最後にこの石、つまり僕達にできることを整理します。
 相手の石をすべて取ってしまうこと。円の外に出て、石取りの対戦相手を直接殴ること。弱みになるこの石を壊してお開きにすること。これらはどれも難しい」
 石をひとつずつ手のなかに拾い移していく。円の中から、手前側の列の石がすべて消えたところで、イスラは円の一部を手の甲ではらった。
 線が消されて、閉じていた円がかすれた口をあける。
「ですから、前提となる状況を変えます」
 ルチアが口を覆った。神妙だった面持ちが、次第に理解の色に染まっていく。ルチアの視線を横顔に受けながら、イスラは続ける。
「ユステ家に、同じくらい強力な札があれば、ティーアは無理には勝負に出ません。
 本格的な家と家との殴り合いになってしまったら、話が中央に持ち込まれる……自分たちの権限の外に出てしまいます。そうすれば結果的に、この石取りそのものを、お開きにできる。
 そして、ネストレ。あなたは今、ティーアの者の目をかいくぐって、自由に動けるだけの力をお持ちだ」
「……つまり?」
「娘を救い出しに行ったあなたの口から、赤枝の怪物がここにいると伝えられたら。ユステの北方公は、どのようにお考えでしょうか」
 ネストレはしばらく黙っていた。
 ざあざあと、騒がしいほどの風の音が、ふいに戻ってくる。肩から首にかけて、肌の泡立つ冷えを感じて、イスラは自分が緊張していたことに気がついた。
「難しいな」
 やがてネストレがぽつりとこぼす。
「明日中……日が昇りきるまでか。
 君の言うとおりだ。確かに私ひとりなら、ユステの北方領主本邸まで行って、ここに戻ってくる方法はある。
 だが手続きには時間がかかる。ましてやこの事態を説明するのは、君たちの言伝る、私の言葉だけだ。
 この状況で国境の森、北方公ひとりの権限では及ばない空白地帯の問題だ。国交に関わる文書を、即時発行することはまず無理だ」
「緊急性が認められた場合はいかがですか」
「先例は……ある。あくまで大事と判断された場合だけだが」
 暗いまなざしのままネストレはつけ加える。
「ご令嬢のことを、秘密裏に進めるためには、公は随分無理を押し通された。これ以上、強硬と邪推されるふるまいを、周囲が許すかどうか」
 イスラは黙って、左側の枝を掲げるように伸ばした。
 ネストレが目をまばたく前で、かぎに曲げた右の枝を絡めて、ひといきに引く。
 ぶつりと重い音を立てて、草の上に枝の先端が落ちた。ぱしゃり、血が跳ねる。
 外套を広げて、血の滴る切り口を押さえ、赤色が広がる勢いが収まるのを待つ。血がにじむ程度に切り口が落ち着いたところで、外套の端を切り取り、落ちた枝を拾ってくるみ込む。
 言葉を失うネストレの前に、イスラは外套の包みを差し出した。
「これを、証明に」
 ネストレが何かを口にする前に、布のほつれる音が挟まった。ふたりして振り返る。
 ルチアが服の裾を引いている。細い指では何度かちぎりそこねて、ようやく裂きとった刺繍のひとにぎりを、ルチアはイスラの伸べる布包みの上に乗せた。
「これも。お父さまなら、この刺繍をご存知です」
 ネストレが二人を交互に見やる。明らかに狼狽した虹彩はせわしなく動いて、やがてイスラの上で止まった。
「君は。こんなことに賭けるのか。
 私が戻らなかったら、それだけで終わるような、こんなことに」
「戻っていらっしゃいますよ」
 イスラは断じる。
「あなたは主家であるユステも、ルチアの命も、同じくらい気にかけていらっしゃる。だからこそ、ルチアを生かす手立てがあるならばと、わざわざ僕を同行させてまで、手間のかかる道を探ってくださった」
 ほんとうにルチアの殺害が正しいと信じていたのなら、彼はイスラもろとも跳ねのけ、とうに選びとることができただろう。正しいと信じる……そして単純で、わかりやすい方法を。
 そうできるだけの力が、彼にあることは、わかっている。
「南のお医者様が、熊より静かに速く走るってことは、じゅうぶん見せていただきましたしね。だから、賭けではありません」
 寝台で考えをめぐらせることは幾度もあった。思うままに出歩ける足と、頑丈な体が、イスラにはなかった。
 これまでの話だ。考えを現実のものとする方法が、今やネストレという人の形をして、イスラの目の前に立っている。
「もっとも僕の方は、あなたの信頼を得るには力不足かもしれませんね。
 何しろぼくは、ルチアにも不手際を見抜かれたわけですから」
 ルチアがちらとイスラを見る。申し訳なさそうに眉を下げたあと、気を取り直すように頭を振って、いっしんにネストレへと視線を注ぐ。
「お願いします」
「……わかった」
 おそるおそるといった風に躊躇いをのせて、それでもネストレは、刺繍と包みを受け取った。
「やれることはやってみよう」
 イスラとルチアは顔を見合わせて、同じ調子で息をついた。
 ネストレが苦笑して立ち上がる。
「すぐに支度する。半時のあいだ待ってくれ」
 ルチアが頷く。ネストレの後に続いて立ち上がったところで、イスラを振り返った。
 イスラは外套の襟のふちから、指を抜き出したところだった。青い数珠飾りから首を抜く。
 手の上に乗せた数珠の青玉は、灯りの橙が重なって、黒ずんで見える。一度握れば、しゃり、と硬質な音がする。
 静かに立ち上がるや、握った拳を振りかぶって、イスラは数珠飾りを投げた。
 風を切る音がかすかに尾を引く。数珠飾りは一度だけ携行灯の光を弾いて、崩れた屋根の上を越え、梢の向こうへとあっけなく見えなくなった。
 イスラが振り返る。ルチアと目が合った。
「こちらも、支度をしましょうか」
 ルチアは黙ってうなずいた。

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