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短編小説『沈まない死体』

山奥の沼

死体が中々沈んでくれない。

もう、何日になるだろう?いつになったら沈んでくれるのか?

私は今、山の中の小さな沼のほとりにいる。あの死体が沈むのを待っている。

投げ込んだ死体は、直ぐに沈んでくれると思っていた。だから、こんな山奥の沼まで運んで来たのに。全く思い通りにならない。

死体を捨てたのは夜中だったから、投げ入れて直ぐに逃げ帰った。不安だったが、一週間ばかり様子をみた。ニュースになるか心配だった。幸いニュースにはならなかった。

それからまた暫く様子をみた。二週間経った。まだニュースにならない。私は少し安心した。

「あんな、誰も行かない山の中の沼なら見つかるはずがない」

私はそう思って、安心したかった。しかし、安心できなかった。死体はどうなったか気になって仕方がなかった。一度だけ確かめておきたくなった。

人気のない山の中だから、普通の格好をした人間がうろついたら怪しまれる。私は考えた。釣りをしに山に入ったように装えばいいと。

釣具屋へ行って、いかにも釣りをやる人に見えるようなものを買った。帽子にベスト、長靴に釣り竿、それからクーラーボックスまで揃えた。折りたたみの椅子は、前に百円ショップで買ったものがあったので、それで済ませた。

ここまでする必要があるかと思ったが、用心に越したことはなかった。辺鄙(へんぴ)な山の中とはいえ、誰に見られるかわからない。山菜採りとか、キャンプに来る人がいないとも限らない。

浮かんだ死体

誰が見ても魚を釣りに来た人だと思われる格好をして、また山の奥の沼にやって来た。知らない人が見たら、この沼に釣りをしに来た人に見える。

私は釣り竿やクーラーボックスを置いて、死体を捨てた場所の辺りを眺めた。それらしいものは見えなかった。

「良かった、死体は見えない」

そう喜んだ瞬間、沼の中央に落ち葉が盛り上がっているところがあるのに気がついた。私はもっとよく見えるところまで近づいた。

「あっ!」

落ち葉の下に、膨らんだ白いワイシャツが見えた。私は思わず周りを見渡した。当然だが誰も居なかった。

「くそっ!」

落ち葉で隠れて死体の顔は見えなかった。よく見ると顔と足の方は、濁った水の中に沈んでいるようだった。首から腰までの胴体の部分が浮いているようだ。

私の捨てたのは沼の端の方だったが、どういうわけか死体は今、沼の真ん中辺りに浮いている。沼の中にも水の流れがあるのかもしれない。

落ち葉のおかげで、ちょっと見ただけでは死体が浮いているとはわからない。捨てた本人だからわかるのだ。私はそう思いたかった。

「直ぐには、誰にも気づかれない」

そう思っても、安心することはできなかった。なんとか沈んでくれないかと思った。

どうすることもできなかった。釣り竿も届かないところに浮かんでいる。釣り針で引っ掛けて引き寄せるかとも考えた。

「それからどうする?」

そんなことはできなかった。あんなぶくぶくに膨らんだ死体など触りたくなかった。

私は辺りに落ちている木の枝を何本か拾って、死体の方に投げてみたが、死体を沈めることはできなかった。むしろ、死体の場所を目立たたせるような気がしてやめることにした。

「いつになったら沈むんだろう?」

何もすることができなかった。死体はしっかり浮いている。

静かな山奥の小さな沼。

私は今、イライラしながら、沼のほとりで釣り糸を垂らして座っている。こんなことを後なん日続ければいいのだろう?

「あの死体さえ沈んでくれれば・・・」

枯れ葉の下の死体は、静かに沼の上に浮いている。

見知らぬ釣り人

今日は朝はやくやってきたのに、沼の中央に浮かんだ死体を眺めたまま、もうすぐ昼になろうとしている。

「今日は帰って、また出直そうか・・・」

そう思い始めた時、左の方の山道から、見知らぬ男が姿を現した。釣りをする人の格好から、川釣りにでも来たのだろうと思った。私は緊張した。

「落ち着け、落ち着け・・・」

私は釣りをしている振りをした。目の前に垂らした浮きを見ていた。男は近づいて来た。

「釣れますか?」

私はその男を見た。黒いサングラスをした男の口の片側が少し緩んでいた。

「あ、いや、駄目ですね」

私は短く答えて、直ぐに浮きの方に目を移した。男は立ち去らなかった。暫く無言のまま、私の横に立っていた。

私は、男が死体に気が付かないか緊張した。男が死体のある方を見ないで欲しいと願った。

「ちょっと、やってみるか」

男はそう言うと、沼のほとりを歩いて行き、丁度沼を挟んで私の向い側に荷物を下ろした。男は釣り竿の用意をして、折りたたみ椅子に座り、沼に釣り糸を投げた。

私は嫌な気分になった。私と男は向いあいながら、釣り糸を垂らして座っている。男のサングラスがこちらを見ているようで落ちつかなかった。

山奥の小さな沼。音のない、静けさしかなかった。

ワイシャツの色

男と私は、ほとんど身動きもせずに、じっと沼の水面の浮きを見つめていた。

沼の水は濁っていて、淀んでいる。水面からは水の流れは感じられない。私は子供の頃、近くの川で遊んだきり釣りの経験はないが、魚が棲んでいるようには見えなかった。

二人共、魚の反応がないまま時間だけが過ぎた。

「早く帰らないかな」

私は、男が居なくことばかり考えていた。

「もう、昼はとっくに過ぎたのに、あの男は何も食べない。もうすぐ引き上げるつもりなのか?」

私も空腹を感じていたが、とても食事をする気になれなかった。あの男の見ている前で、何もさらけ出したくなかった。あの男の記憶に残りたくなかった。

魚の反応など全くなかった。最初に付けた餌は、何度上げて見ても、付けた時のままだった。浮きもまったく動く様子がなかった。

「全然釣れないのに、どうして帰らないんだ」

私は男を睨んでいた。男のサングラスはどこを見ているのだろう?こっちを見ているのだろうか?

私は視線をそらすようにして、沼の中ほどに目をやった。相変わらず落ち葉に隠れた死体が浮いている。その時、私ははっとした。

「待てよ、白いワイシャツ?あいつが着ていたのは水色じゃなかったか?」

私はあの夜を思い出していた。投げ捨てた死体が着ていたワイシャツの色が、月明かりの下で水色に見えた。

「そうだ、やっぱり水色のワイシャツだった」

あそこに浮いている死体のワイシャツの色は白にしか見えない。あれからだいぶ経っているとはいえ、色あせて白くなったようには思えなかった。

「どういうことだ?思い違いか?」

私は胸の中がざわざわしてきた。

あの男はじっとして動かない。浮きを見つめたまま動かなかった。釣り竿を上げようともしなかった。

だいぶ陽も傾いてきた。

男も私も、お互いを見つめ合っているようだった。男のサングラスがどこを見ているのか気になって仕方がなかった。

「釣れないのに、どうして帰らないんだ?」

突然私の脳裏に、変な考えが浮かんだ。

「まさか、あの男も人を殺して、この沼に沈めたのか?」

私は、男を見た。どうしても、こちらを見ているような気がしてならない。

「どうして、こっちを見てるんだ?」

私の頭は余計なことを考えていた。

「あの男も、私のように殺した奴を確かめに来たのかもしれない。死体が浮いているのを見て、帰れないのだとしたら・・・」

私は、そんなことがあるはずはないと打ち消した。

「でも、ワイシャツの色が違うのはどうしてだ?それに、なんとなく私の捨てた死体より身体が大きいようも感じる。水に浸かってふやけたせいなのか?」

もう陽が沈んでしまった。辺りはだいぶ暗くなってきた。

「あの浮いている死体は私のではなくて、あの男の捨てた死体だとしたら・・・」

私は男の方を見た。

「夜釣りでもないのに、こんな遅くまでいるのはおかしい。どうしてあの男は帰らないんだ。こんな魚のいない沼で、いつまでも帰ろうとしないのはおかしい」

私の疑問は大きくなっていった。

白い手とナイフ

その時、男の垂らしていた釣り糸の浮きが、水の中にグーと引き込まれ、釣り竿が大きくしなった。

男はすかさず釣り竿を上げた。釣り糸がピンと張って、水面に水しぶきが立った。男は釣り竿を立てて魚を引き上げようとしている。魚は逃げようとして水面を暴れまわった。

やがて疲れ切った大きな魚が、しなった釣り竿によって引き上げられた。男は、釣られてもまだ暴れている魚から釣り針を外している。

男は傍らの道具箱を開けて、何かを探していた。男がこちらに顔を向けた。私はドキリとした。男が立ち上がった。男は歩き出した。こちらに来るようだ。

「どうしたんだ?こっちへ来るのか?」

私は男から目を離さなかった。

男はゆっくりこちらに歩いてくる。またこっちを見た。どんどん近づいてくる。

「やっぱり、こっちへ来るんだ。何しに来るんだ?」

男は直ぐ近くまで来た。

「なんだ?何しに来たんだ?」

男は私の横まで来ると、軽く頭を下げた。

「あの、魚の腹をさばきたくて、ナイフかなんか持ってないですか?忘れちゃったみたいで。ナイフあったら、貸してもらえませんか?」

男はそう言って、右手を出した。その手は細くて白かった。冷たそうな手だった。釣りをするような手には見えなかった。

私はナイフを持って来ていた。釣りのためではなくて、こんな山の中にくるので、用心のため持って来ていた。

私の頭は、男が私のナイフを手にした場面を想像した。この白い手にナイフが・・・。

「ウワッ!」

恐ろしくなった私は、全てを残したまま、その場を逃げ出した。

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