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短編小説『誓(ちかい)の血』

敗戦を告げる玉音放送があった昭和二十年八月十五日の夜、陸軍少尉藤田省吾は切腹した。

床の間を背にして座ったまま、前のめりに倒れた省吾の下腹から血が流れ落ちて畳に広がっていく。水平一文字に切られた腹から生暖かい血が溢れ出ている。

省吾は荒い息をしながら、横に正座して見守る妻の百合子を見上げた。

「百合子、先に行って待ってる・・・幸せだったぞ・・・」

省吾は最後の力を振り絞ると、刺さったままの小刀を更に上に切り裂いたた。

「うおー」

省吾は暫く言葉にならない声を叫んでいたが、やがて絶命した。

百合子は震えながら手に持った懐刀を喉に当て夫の後を追おうとした。

しかし、百合子は死ねなかった。懐刀を喉に当てながら泣いた。

「あなた、ごめんなさい・・・」

百合子は両目を閉じた。懐刀をゆっくり持ち替えると両目に突き当てた。目から流れ落ちた血が白い着物の膝を赤く染めていく。

「あなた、許してください。私は光を失って生きていきます。どうか、許して・・・」

まだ若い夫婦には子供はなかった。百合子が死ねなかったのは子供のためでも死を恐れたのでもなかった。

命を惜しんだというのが近かった。これは軍人の妻としては恥ずべき倫理だったが、百合子は自分の命を終わらせることができなかった。生きたかった。

百合子は、恥ずべき倫理を光を失うことで詫(わび)たのである。

百合子は血に混ざった涙を流しながら、夫の前にうつ伏せた。

この家には先代の頃から仕える忠治という下男がいた。

省吾の父親も陸軍の上級将校であったが開戦の翌年にフィリピンで戦死している。母親は省吾が陸軍士官学校に入った年に病死していた。

忠治は父親の元部下だったものの口利きでこの家の下男になった。この家にやってきた時は尋常小学校を出て、三年程自転車屋に奉公した後だったから十五歳前後だったが、敗戦の年には二十二歳になっていた。省吾より二つ若かった。

忠治は嫁に来た百合子が好きだった。身分も違い、恥ずかしがりの忠治は遠くから百合子を慕った。

省吾が切腹した日の朝、忠治は省吾から暇を出されていた。

「今日は玉音放送がある。私は静かに皇(すめらぎ)のお言葉を聞きたい。お前はどこか好きなところへ行って遊んで来い。明日には帰って来いよ」

省吾からそう言われても、忠治には行くところはなかった。仕方なく奉公元の自転車屋に行って一晩泊まって帰った。

翌朝忠治が戻ると、奥の座敷は血の海で、その中で省吾と百合子が倒れていた。

省吾は見るからに死に果てているのがわかった。忠治はうつ伏せの百合子を抱き起こした。百合子の両目から流れた血が固まっている。だらりと垂れた百合子の左の手首からまだ血が流れていた。

百合子は両目を突いた後、明け方を過ぎて外が白み始めると、思い直したのか懐刀を拾い上げると手首を切った。忠治が来たのは百合子が失血のために気を失った直後だった。

忠治は百合子を背負うと近くの近藤医院に飛び込んだ。百合子はなんとか一命をとりとめた。

「どうして助けたの・・・生きてちゃいけないのに・・・」

気がついた百合子が忠治に最初にかけた言葉は、忠治には「生きたい」という気持ちが隠れているように聞こえた。

体が回復するまでのしばらくは、百合子自身も、自分が生きるべきなのか、死ぬべきなのかの間で気持ちが揺れていた。

「奥様、どうか生きてください。だんな様の分まで生きてください」

忠治にそう励まされる度に、百合子は夫との約束を裏切った罪深さを思うのだった。

それでも時が心の傷を浅くしていくのか、百合子は恥と罪を晒(さら)しながらも生きていくしかないと思うようになっていった。

まだ若いとはいえ、目の見えなくなった未亡人が、戦後の混乱の時期を乗り越えていくのは楽ではなかった。

二代続いた軍人の家系の藤田の家にもいくつかの田畑があった。これまで下男の忠治に任せきりだったが、百合子も見えないながら、草取り程度の手伝いをするようになった。

「まるで夫婦みたいじゃないか、あの二人」

畑を鍬(くわ)で耕す忠治の側で、腰を下ろして草をむしる百合子の姿は、狭い田舎の噂の種になった。

畑の行き帰り、百合子を乗せた荷車を引く忠治は、このまま時が過ぎればいいと、幸福を噛み締めていた。

「奥様、しっかり掴(つか)まっていてくださいよ」

「忠治さん、重いでしょ?」

「そんなことはないですよ」

畑からの帰り道のゆるい上り坂、夕焼けの中を荷車の二人の影が登っていく。

「汚いから自分で洗うわよ」
物置小屋の横の野菜の洗い場に百合子を座らせて、汚れた百合子の足を忠治が洗っている。

「すみません。奥様に畑仕事なんかさせてしまって」
忠治は百合子の足に触れられることが嬉しかった。百合子の額に光る汗も拭いてやりたかったが、それはできなかった。

目の見えない百合子の顔を近くで見られるこのひと時が、忠治には神聖な時間だった。忠治は百合子の手をそっと導くと、盥(たらい)の水で洗った。
「手は自分で洗えるわ」
「爪の間に泥が入ってしまってますんで」
忠治は百合子の細く白い指の先を丁寧に洗った。

親戚の間でも、百合子の今後の身の振り方をあれこれ詮索するものが出てきた。

「藤田の家を絶やすわけにはいかん。どうだ、忠治と一緒になる気はないか。あんな働きもんは他にはおらんぞ、どうだ百合子?忠治の方もいいと言ってる、どうだ?」

省吾の叔父から忠治の名前を聞いた時、百合子は自分の気持に気がついた。

「これからの人生、忠治さんと生きていきたい」

百合子も忠治の思いを心の隅で受け止めていたことを認めるのだった。

「再婚とはいえ、下男を婿に取るのはどうかな。世間体が悪いんじゃ?」

忠治を相手として相応しくないというものもあったが、当の百合子の気持ちが優先されて話はまとまった。

昭和二十五年四月、桜の花の咲き誇る季節に忠治と百合子は祝言を挙げた。忠治二十七歳、百合子二十五歳の新たな門出は、藤田の屋敷で身内とごく近所のものだけの席で行われた。

百合子は夫婦になってからも新しい夫を「忠治さん」と呼んだ。意識しているわけではなかったが、「あなた」というのは前夫への呼び方で、同じ様には呼べなかった。

忠治はそれでも構わなかった。むしろ名前で呼んでくれることが嬉しかった。

湯上がりに髪を梳(と)かす百合子を横で見つめながら、畑仕事で日焼けしているが今でも美しい顔だと忠治は思った。

省吾の嫁入りの時に初めて見た、大きな黒い瞳に惹かれた忠治だが、盲目になって瞼(まぶた)を伏せたままの百合子もまた違った美しさを感じた。

「とうとう自分のものになった」

忠治は、手の届かない宝物を手に入れた子供ように、身に余る幸せを感じた。

忠治が藤田の家の婿になってから半年ほど過ぎた頃だった。午前中の畑仕事から戻って、百合子は台所で昼飯の支度をしていた。目が不自由でも、台所仕事はほとんど百合子に任せられていた。

忠治は玄関を入った三和土(たたき)の淵に腰掛けて地下足袋(じかたび)を脱いで汗を拭くと、庭の外れの便所に用を足しに出ていった。

百合子は煮立ったうどんの鍋を流しに運ぼうとした。その時、腹をすかした飼い猫が百合子の足元に絡みついた。百合子は鍋を持ったまま倒れた。鍋の熱湯が百合子の顔にかかった。うどんの溶けたぬるみが百合子の顔にへばりついた。

「あー、うー」

百合子の悲鳴を便所の中で聞いた忠治が台所に飛び込んで来た時には、百合子の顔は真っ赤になって水ぶくれが出来ていた。

忠治は急いで流しの横の水瓶(みずがめ)から柄杓(ひしゃく)で水を汲むと百合子の顔にかけた。忠治は何度も水をかけた。

赤く腫れた百合子の顔の皮膚は、水ぶくれが破れそうになっていた。忠治は柄杓を捨てて百合子を背負うと玄関を飛び出した。

駆けつけた近藤医院ではやけどの応急手当しか出来なかった。

「先生、百合子は大丈夫ですか?顔は大丈夫ですか?」

近藤医師は首を横に振った。

「ちょっといいかな」

顔全体に包帯を巻いた百合子を診察室に残して、近藤医師は忠治を廊下に出させた。

「ここじゃ応急処置しかできない。直ぐに市立病院の方に行って診てもらってください」

「先生、やけどの痕(あと)は残らないよね?先生」

近藤医師は難しい顔をした。

「かなりひどいやけどだから、痕は残ると思うが・・・。とにかく早く連れて行ってくれ。市立病院には電話を入れておくから、早く」

忠治は直ぐに荷車を取りに家に戻った。引き返して、痛みで苦しむ百合子を荷車に乗せると、急いで市立病院に向かった。忠治は走るように荷車を引き続けたが、市立病院に着いたのはそれから一時間半後だった。

直ぐにやけどの手術は行われたが、百合子の顔の半分以上に醜いケロイドが残った。

「百合子の目が見えなくて良かった」

忠治は百合子の包帯をとった時の顔を見て思った。

それからも何度か再手術が行われたが、ケロイドが消えることはなかった。

やけどの痛みはなくなったが、百合子は自分の顔を触る時、涙を流した。

「罰(ばち)が当たった・・・」

百合子は、死にきれなかった自分が、醜い顔を晒して生きていくのが、これからの償いなのだと、自らに言い聞かせた。

百合子は以前に比べると口数は少なくなった。それでも、顔を手ぬぐいで覆い、麦わら帽子を深くかぶって畑に出た。

畑の行き帰りに、忠治と百合子の会話はなくなった。荷車を引く忠治は、黙ったまま荷車に乗る百合子を振り返るが、かけることばが見つからなかった。

ある晩、小便に起きた忠治が部屋に戻ると、灯りの具合か、横で寝ている百合子が目を見開いているように見えた。ケロイドの顔から覗く目が化物のように見えた。

その時から、忠治は百合子を愛せなくなった。

忠治の変化を百合子も敏感に感じ取った。

「こんな姿の私を妻にした忠治さんが気の毒・・・。でも、どうすることもできない・・・。ごめんなさい」

百合子は、自分は男の人を不幸にする悪い女だと思った。

しかし、忠治は百合子を愛せない自分を責めた。

「百合子は何も変わっちゃいない。俺は百合子の何を愛していたんだ。俺は百合子の顔の美しさだけを愛していたのか?」

忠治は、初めて百合子を見た時の情景を思い浮かべた。角隠し(つのかくし)の下で慎み深く微笑む百合子。初めて声をかけられた時の百合子の薄い唇と、声にも色があるなら緑色とも感じられた涼やかな声。

次の瞬間、盲目でケロイドの百合子の顔が浮かんだ。

「醜いのは俺の方だ。百合子は何も変わっちゃいない」

忠治は屋敷の奥の納戸に行き、百合子の持ち物をしまう桐の箪笥の前に立った。一番上の引き戸を開け、紫の布にくるまれた懐刀を取り出そうとした。

布には懐刀と小さな写真立てがくるまれていた。忠治は写真立てを手に取った。

「だんな様・・・」

写真には百合子の元の夫、省吾が、軍服を着て着物の百合子と写っていた。軍刀を杖のように前にした省吾が椅子に座り、夫の肩に手をかけて微笑む百合子。省吾はこちらを睨むように身構えている。

「だんな様・・・許してください・・・」

忠治は写真立てを置き懐刀を手に取ると、床の間のある座敷の中央に正座した。この部屋は省吾が切腹した部屋である。

忠治は目を閉じた。両手で握った懐刀を持ち上げると、両目を突いた。

「うっ!ぐっ!」

忠治の両目から真っ赤な血が流れ落ちる。

「だんな様、奥様を大事にします・・・許してください」

忠治の目から血と共に涙が流れた。

「これで、奥様の、百合子の美しい面影、美しい心だけを見て生きていきます」

省吾の切腹の血が流れた畳の上を、今、忠治の誓(ちかい)の血が流れていく。忠治は醜い自分の心が、血で清められるような幸せを感じていた。

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