見出し画像

信仰と倫理

「それ故,善い実を結ばない木は,切り取られて火に投げ入れられる」(ルカ伝3-9)
 


写本の比較


 太字の文字には,三つの読みがあります。第一に,本文として採用されている「善い実(単数)」です。ほとんどの写本は,この読みを支持しています。第二に,「実」です。この読みを支持しているのは,3世紀のパピルスやラテン語訳,及び,古代の教父オリゲネスです。第三に,「善い実(複数)」です。この読みを支持しているのは,ベザ写本やシリア語訳など西方型の写本です。果たして,どの読みが正しいのでしょうか?
 前後の文脈で述べられていることは,善い行為や悪い行為ではなく,悔い改めにふさわしい生き方,イエスに従うことです。すなわち,イエスに対する服従であって,善悪という倫理ではありません。ですから,本来の文は,第二の「実」であると考えられます。しかし,後世の写字生はこの文を倫理的に解釈して,「実」を「善い実(単数)」に書き換えました。そして,言語学的正確さを好む西方型の写字生が,文法的に訂正して「善い実(複数)」に書き換えたと思われます。

信仰の変質


 パウロやヨハネの信仰は,キリストに身を任せること,キリストに服従することでした。自由な服従,服従する自由こそ,使徒本来の信仰だったのです。しかし,時代を経るごとに,信仰は変質しました。パウロの弟子筋にあたるコロサイ書・エペソ書において,信仰は倫理的性質を帯び,キリストに対する実存的関係が希薄化しました。さらにテトス書やテモテ書などの牧会書簡の時代になると,信仰はより外形的となり,世俗的倫理を求めるようになりました。パウロの「キリストと共に生きる」信仰は,道徳的に正しく生きることに変質し,内面的緊張感ではなく外形的行動が重視されたのです。パウロにとって信仰とは,霊的実在であるキリストに従うことでした。後世のキリスト教にとって信仰とは,正統的教義に従うことでした。神に対する服従よりも,社会に対する品性が重視されたのです。

「信仰の人」と「道徳の人」


 キリスト教は,品の良さを重視します。が,キリストの弟子は,必ずしも品の良い人物ではありません。敵に対し罵詈雑言を吐いたのは使徒パウロです。烈火の如く怒ったのは使徒ヨハネです。「彼の言葉は戦争である」と評されたのは宗教改革者マルティン・ルターです。王を処刑した後,平然と鷹狩りに出かけたのはキリストの僕クロムウェルです。彼らは皆,キリストに服従しましたが,必ずしも道徳的な人物ではありませんでした。
 信仰とは空っぽの器であり,その中に神の霊を宿します。しかし,道徳は充実した器であり,その中は自負心で一杯です。信仰は己に対する不信であり,マイナスの人です。道徳とは己に対する自信であり,プラスの人です。信仰の人は,神に用いられる罪人です。しかし,道徳の人は,世に賞讃される義人です。いずれにせよ,信仰はキリストに服従することであって,善行を為すことではありません。
 

以下は参考書籍です。


画像をクリックすると、amazonに飛びます。


画像をクリックすると、amazonに飛びます。


画像をクリックすると、amazonに飛びます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?