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大衆社会の病理~松本人志氏の性加害問題について~


はじめに


 お笑い芸人・松本人志氏の強制性交事件が話題になっております。そして,様々な意見がSNS上で飛び交っています。肯定派は言います,「女性の権利を踏みにじった奴は,厳しく裁かれるべきだ」と。しかし,否定派は言います,「今さらしゃしゃり出てくる女は,金銭目的に違いない」と。一方で,無関心派は言います,「有名人の女遊びなど興味ないから,どーでもいい」と。
 私は,今回の事件に興味を持ちました。なぜなら,日本社会の病理が明るみに出たからです。今回の記事は,松本人志氏の事件によって明るみに出たこの国の暗部について,私見を語りたいと思います。

大衆化社会


 人類史において,19世紀は革命的な時代でした。なぜなら,民主主義が誕生し,平等の観念が広く深く浸透したからです。言い方を変えれば,歴史上初めて,大衆という平均人が出現したからです。

歴史がない人間


 大衆の本質とは,一体何なのでしょうか?第一の特徴は,「歴史を持たない人種」です。大衆は過去を省みません。また,大衆は伝統を重んじません。過去によって培われた民族の誇りも,伝統によって受け継がれた文化の独自性も,大衆にとってはどーでもいいのです。大衆とは,己自身の歴史を空にした人間であり,過去という内蔵を持たない人間です。過去を持たないが故に,歴史的運命を信じず,崇高な使命感も目的もありません。SF的な未来に熱狂しても,血と汗と涙によって形成された過去の遺産を軽んじるのです。

同じであることの欲求


 第二の特徴は,「同質性の重視」です。大衆は,良きにつけ悪しきにつけ,周りと同じことを望みます。「みんなと同じ」であることに安心を感じ,平凡な同質性に苦しむどころか,かえって満足してしまう人々なのです。ある人は言うかもしれません,「私も含め,多くの人々は異質性を求めている」と。本当にそうでしょうか?本当の異質性とは,一種の創造性であり,絶え間ない孤独を伴います。大衆の求める異質性とは,「周りと同じであると同時に,周りよりも少し上にいたい欲求」です。現代風に言えば,マウントを取りたいだけなのです。「マウントを取りたい」という欲求こそ,同質性に束縛されている証左です。

非凡への嫉妬


 第三の特徴は,「非凡な人間への嫉妬」です。大衆社会の本質は,凡俗な魂が,凡俗である権利を大胆に主張し,それを相手かまわず押しつけるところにあります。義務や責任という文字は,大衆の辞書に存在しません。大衆の辞書には,ただ一文字あるのみ。それは権利です。フランス人権宣言とは,崇高な理念でも人類の偉業でもありません。我儘な近代人の勝利宣言です。
 大衆は,自分が大衆であることを知らしめる者に我慢できません。つまり,非凡な天才に我慢できないのです。自分より優れたもの,自分より個性的なもの,自分より才能ある者を平気で踏みにじります。何がなんでも引きずり降ろす権利の怪物。つまり,大衆化社会では,みんなと同じでない者,みんなと同じように考えない者は,抹殺される危険に晒されるのです。

私刑(リンチ)の横行


大衆の傾向


 大衆の内的特徴を解説しましたので,今度は,大衆の行動様式を観察しましょう。大衆は対話(ディベート)を嫌います。なぜなら,大衆は感情的であって,理性的でないからです。また,大衆は行動(アクション)を嫌います。義務より権利を重んじる大衆は,独りで行動する意志も力もなく,ただ口先だけで物事に介入します。大衆の得意技は,口舌(こうぜつ)の刃(やいば)で人を斬ることです。対話の拒否,罵詈雑言,意見の色づけ(右とか左とか),小市民的倫理の押しつけ。つまり暴力こそ,大衆の行動様式なのです。

倫理という怪物


 大衆の暴力は,通常「倫理的要求」という形をとります。この場合の倫理とは,神から要請された倫理でも,文化的伝統から導かれた倫理でもありません。今の時代の倫理であり,普遍性のない個別的な倫理です。ある種の空気と言ってもいいでしょう。しかし,私たちは認識しなければなりません。時代の空気によって裁くことが,どんなに恐ろしいことかを。
 皆さんは,「イエスを殺害したユダヤ人」や「ソクラテスを殺したアテナイ人」を,非倫理的な民族と非難するかもしれません。そして,心の中でこう考えるはずです。「俺があの時代に生きてたら,決して殺さなかったのに」と。しかし,イエスを殺害したユダヤ人もソクラテスを殺したアテナイ人も,きわめて優秀かつ倫理的でした。イエス殺害に加担したパリサイ派の人々は,非常に倫理的かつ敬虔な人々でした。ソクラテスに死刑判決を下したアテナイ人は,非常に頭脳明晰かつ民主的な人々でした。何が言いたいかと申しますと,悪人が偉人を殺したのではありません。善人が偉人を殺したのです。とびっきりの善人が神の子を殺害したのです。

自由の担保


 時代が変われば価値観が変わります。つまり,ある時代を支配した倫理と普遍的倫理は同一ではありません。時代には時代的限界が存在する。だからこそ,敬虔なユダヤ人が神の子を殺し,頭脳明晰なギリシャ人が賢人を殺したのです。私たちは,ある時代の価値観を絶対視してはならないのです。
 試みに,現代と30年前を比較してみましょう。30年前,教師が生徒を殴ることは普通のことでした。しかし今は,暴力として非難されます。30年前,「男らしく生きなさい」「女らしく振る舞いなさい」という忠告は当然のことでした。しかし今は,性差別として批判されます。たった30年間でさえ,時代の価値意識が激変するのです。いかに時代の風潮が当てにならないか,これでお分かりのことと思います。
 このように,倫理(時代的価値観)が当てにならないからこそ,人間の自由を担保するために「法」が作られました。法は,悪を裁くために存在するのではありません。正確には,自由を守るために存在するのです。倫理的要求によって他者を破滅させないこと。時代的風潮によって善人を裁かないこと。倫理と法は違います。倫理は自分に向けるべきであり,法は他人に向けるべきです。それなのに,法意識の欠如した日本人は,他人に倫理を求めながら,己自らを法によって守ろうとします。他人には義務を,自分には権利を。本末転倒です。

おわりに


 さて,松本人志氏の件に戻りましょう。彼を裁くべきは法であって,我々でも週刊誌でもマスコミでもありません。各人が職業を持つ資本主義社会において,人間は才能によって評価されるべきです。決して倫理によって裁いてはなりません(裁きは法の仕事です)。現代の組織社会が発展するためには,個人の能力発揮が必要不可欠です。つまり,社会人は仕事の成果によって判断されねばなりません。
 お笑い芸人であれば,人々を笑わせられればよいのです。教師であれば,生徒の学力向上に資すればよいのです。首相であれば,正しく国を導ければよいのです(わざわざ被災地に行く必然性などない)。漫画家であれば,多くの人々を楽しませる創作をすればよいのです。不倫しようが,変な性癖を持とうが,顔が不細工だろうが,漢字を読み間違えようが,そんなことは枝葉末節です。
 こうした意見に対し,多くの方は反対意見を表明されるかもしれません。もしそうであれば,一つの問いに答えて頂きたい。もしあなたが病人で,明日死ぬかもしれないと仮定しましょう。生き残るために,今すぐ手術が必要です。目の前に二人の医師がいます。一人は「腕の悪い人格者」であり,もう一人は「神の手を持つ偏屈者」です。さあ,あなたはどちらの医師に己の命を託すでしょうか?私ならば,倫理よりも才能を重んじ,性格が悪い腕利きの医師に己の命を託します。
 いずれにせよ,リンチが横行する大衆社会の中で,その大衆の一人にならぬよう注意したいものです。
 

参考書籍です。


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