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「自分を甘やかす」は、自分に楽を許すこと

深い悲しみ、寂しさ、孤独感に怯えている時、世の人びとはどんな風に心を保っているのでしょうか?
わたしは「こんなもの感じなくなればいい」と本心をひた隠し、抑え込もうとすると嫌なことを考えてしまって、余計に苦しくて枕を濡らしていました。

悲しいのなら、耐えようとしなくてもいい。
寂しいのなら、誰かのそばに行ってもいい。
孤独を感じるのなら、もっとわたしを大事にしてと主張していい。

そういったことができませんでした。
誰かに何かを求めて、何も返ってこなかったり拒否されるのが怖いから。
人となるべく距離を置いて、いつ関係性を失っても最低限のキズで済むよう、いつも気を付けていました。
これ自体はだめな行為ではなく、手当たり次第に体当たりしていては身が持たないのである程度は必要です。
ただ肥大化した失うことへの恐怖だけを背負った状態になると、辛かった。

必死に人を拒否しているのに、一番欲しいのは人から得られるぬくもりなんですよね。
これを認めるのに随分と時間がかかってしましました。
時間をかけて見つけた答えだから、とても大事にしています。

矛盾したことを言うのって抵抗があるから、ふたつあれば片方を隠す場合が多いんじゃないかと思います。
人間は心のなかに小さな矛盾をいくつも飼っていますよね。
それを誰かに指摘されるのが恐ろしい。
理想とする自分像が崩れてしまうから、なるべく触れられたくないです。

でも意外とどちらも出してみた方が自分に都合がよくなることがあります。
共感してもらえたり、心が整理されたり。
それに、理解してもらえました。
片方だけを出しても、もう片方が消えるわけではないので、言葉と行動に一貫性がなくなってしまいます。
その状態は自分にとっても相手にとっても違和感になります。
けど、矛盾が自分のなかにあることを伝えると相手からリアクションが返ってきて、お互いどう接したらいいか分かるので不安が和らぐ。

高校生の頃、ブレイディ―・みかこさんの『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読みました。
子どもの頃は思うがままに物事にぶつかっていたのに、自分でも気づかないうちに保身を優先して多くのものに深く触れずにやり過ごすようになっていました。
それが無性に寂しく、涙したのを覚えています。

大人になった今、等身大の自分で世界に触れていく自由を取り戻すために生活しています。
生きるための活動をしています。

最近、落ち込む出来事がありました。
その時、友達が「おしゃべりしに行かない?」と提案してくれました。
人ってこうやってわたしのことを大事にしてくれるんだ。
大事にされると自然と感謝と愛を伝えたくなるんだ。
こういう人を大事にしていけばいいんだ。

わたしは自分が誰かに必要とされない恐怖から対人関係を作ってきました。
だから誰かに必要とされる行動を徹底して必死にやっていました。
そうしている期間は孤独でしかなかったけれど、その分、わたしを必要としてくれる人を大事にする方法はよくわかります。
必要としてくれる人がいる喜びを源にこの瞬間から生きていくのです。


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