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#47 ドリルのしごとをしない

書こう書こうと思いながら、エネルギーが足りなかった週末。

やっぱりこのまま書かないと、また流してしまう気がして、今おもうこと感じることだけ、書いておくことにする。

先ほど、このツイートを見た。

ドリルのしごと。

あ〜〜〜これ、私している。つまらないことを考えていたり、つまらないことで傷ついたり、総じてウジウジしてツンツンしているときは、これだ。

100点満点のテストより、絶対Aが付かないレポートを考えつくすのが面白かった。チームでプレゼンつくるのも、限界がなかった。それは愉しかった。

のに。

自分で自分の日々をつまらなくしてた。気づいてよかった。

与えられた課題を「こなす」という行為が、つまらなさを生む。つまらなさは、「こなす」の質も下げる。結果がどうでもよくなる。こだわらなくなる。

あ〜〜〜嫌だ、嫌だ。こんなの嫌、なのに、ちょっと弱るとそっちに行ってしまう。だから、何度も戻るのだ。戻ろうとするのだ。

平田さんはもちろん、気づかせてくれた人にも感謝したい。明日、伝えよう。


もう一つ。今、オンラインで今日参加する予定だった #withコロナ時代のPR  の配信を観ている。


普段Twitterで観ている人たちが話している。
聴きながら考えながら、観ている人のツイートも読みながらまた考えて。
ちょっと止めて、メモして。考えて。

京都に帰ってきたときに感じた「東京では当たり前に開催していたイベントがない」みたいなことは、withコロナ時代にはなくなっていくだろうなと思った。

こんな贅沢なトークを聴きながら、自分の生活時間も進めながら、やっぱり集中して聴こうと思わせられながら。

格差は薄くなっていって、努力をした人が残っていく気がしている。

zoom会議をすると、この人いらなかったが分かるという発言は、同じように他の場面でも「特別」を無くしてゆくだろう。限りなくオープンになっていく、本質に近づいていく動きの中で、でもやっぱり人と人は一緒に生きていくのだろう。

「必要か必要じゃないかではなく、本質的かそうでないか」
三浦さんのこの言葉が、今までの聴いた範囲では刺さっている。

今日私自身が、必要か必要じゃないかに囚われていたと思ったから。

本質的かそうでないか、で考えてみるとどうなるだろう。

ちょっとワクワクしてくる。

「今はPRの出番。この問題が落ち着いたら、欲望に対する広告の出番がやってくる」

うん、そうおもう。

だから今何をするか、がやはり大事だ。


最初に戻って、ドリルのしごとはしない。
だから、続きを聴くのはまた明日。「仕事」して眠ろう。


photo by 写ルンです│
これは去年の写真。全くおなじ景色が目の前に広がっている。自然はコロナがあろうとなかろうと、おなじように生きている。

サポートいただき、ありがとうございます! 有料noteを読んで、学びにして、また書きたいと思っています。