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二つの写真

 去年の夏、祖父は死んだ。死因は敗血症とかなんとか担当医が言っていたが、私には全く分からなかった。「そんな症状があるんだな」としか思えなかった。とにかく頭が真っ白になっていたが、それだけに、変に冷静に祖父が死んだこの病室を俯瞰できた。笑っていたのは頭が弱ってきた祖母一人ぐらいだったか。それと、夏だというのにやたら寒かった。病室はいつも冷房が効きすぎていた。

 通夜と告別式を終えて、久しぶりに実家に帰った。自分の部屋には、ある一つの写真があったことに気づいた。それは、数年前の元日だったかに親戚が集まったときに撮った集合写真だ。そこには祖父も写っていた。歯を見せて笑うようなことは滅多になかった祖父が、その写真では歯を見せていた。「いい写真だな」と思い、都内の自宅に持って帰ることにした。

 今年の夏、姉が結婚した。コロナ禍もあって多額の延滞料金があるとかないとかで悩んだ挙句、無理に決行したらしい。その時その場所でしか、一生に式を挙げられるのはその瞬間しかないかもしれないと、まあ思い切ったものだ。「もう少し計画性をもてばいいのに」と、ぐちぐち言っていた父は、式ではちゃんと泣いていた。

 披露宴が落ち着いたとき、写真を撮ってもらった。ワインレッドのウエディングドレスに身をつつんだ姉と、父と私のスリーショットだ。そこには亡き母の写真もあったから、実質フォーショットかもしれない。ちょっと年をとった、家族写真だ。

 後日、現像されたその写真が自宅に届いた。飾る場所を決めていなかった私は、この写真をどこに置こうかと悩んでいた。その時あの写真が目に留まった。祖父が写っている写真だ。その写真は温かみのある木製のフレームに収められている。そうだ、このフレームに式の写真も入れてやろうと、雑な閃きが私に訪れた。

 家族写真は少し小さかったようで、フレームに入れてみたものの後ろの写真が人一人分ほどはみ出している。後ろの写真、その右端には笑った祖父が写っていた。私は手前の写真を左に寄せて、後ろの祖父もこの写真に写っているようにしてみようと考えた。結婚式で撮った私たち「四人」の家族写真と、端にはいつだかに撮られた祖父の笑顔。それらが重なることで、祖父が私たちを見守るような構図になった。背が低い祖父は、その写真ではやや大きく写っているためか偉大に見える。

 写真を重ねてから、ここに写っている人間のうち二人はもうこの世にはいないのだと、私はふと思った。その時、「そうか、もういないのか」と、不思議な喪失感が私を襲った。去年の夏の出来事は、この時初めて現実となって私の記憶に刻まれた。重なった写真は、祖父の死も、そこに写る私たちの老いすらも物語っていた。決して悲しい写真ではないはずなのに。

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