選書で広げる教育社会学ブックリスト

誰かの役に立つのではないかという気持ち半分弱、リストを作りたい欲半分強で新書・文庫で入門する教育社会学ブックリストなるものを作って公開しているのだけれど、意外と好評で日本教育社会学会の若手研究者交流会で紹介していただいたりもした。
そうなると第二弾を作ってみようかなという気持ちにもなってきてしまい、次のネタは何にしようかと考えていて、リストを作っているときに選書も入れようかとちょっと考えたことをおもい出した。「入門」という性格を考慮して結局入れなかったのだけれど、せっかくなので選書版も独立して作ってみることにした。選書という分け方のリストが何の役に立つかと聞かれるとあんまりわからないけど、教育社会学に関心がある人で、新書よりややマニアックなネタでおもしろそうな本を読みたい、という人には使えるかもしれない。
選書の広い定義としては学術書のシリーズなども入るのだろうけど、筑摩選書や新潮選書、中公選書といった「選書」を冠したレーベルの特徴としては、新書以上学術書未満の専門性の一般書、というイメージがある。あとソフトカバーで、みんなだいたい同じくらいの大きさ。こういう基準で考えると、選書を名乗ってはいないけれど、河出ブックスやNHKブックス、青弓社ライブラリーも同じグループだとおもう。ということでこの辺のレーベルを狭義の「選書」だとしておこう。
それほど数が多くないのと、新書・文庫と比べると分野がバラバラなので、分野ではなくレーベルで分けてみた。ただそれでもレーベルごとの違いがテーマの違いとわりとはっきり対応していておもしろい。あと歴史研究が多いのも特徴だとおもう。ちなみに新潮選書には該当しそうな本はなかった。


〈講談社選書メチエ〉

柳治男(2005)『〈学級〉の歴史学』

理想論・タテマエ論への違和感の根源――「学級」という幻想! 我々はどうして席に座って教師の話を聞いていたのか? それは教育の普遍的システムなのか? 〈崩壊〉という事態は何なのか? 近代の発明品〈学級〉の歴史性と限界を暴き、自明視された空間で暮らす子どもと教師を救済する!

有本真紀(2013)『卒業式の歴史学』

「最高の卒業式」を目指し、教師と生徒が努力を重ね、みんなでともに歌い、感動し、涙する「感情の共同体」が達成される――。この、日本独特と言える「儀式と感情との接合」は、いついかにして生まれたか。涙の卒業式、この私たちにとって当たり前の光景の背景には、明治初期以来の学校制度構築の歴史が横たわっている。日本の近代と教育をめぐる、まったく新しい探究! 

小針誠(2015)『〈お受験〉の歴史学』

お受験といえば現代社会特有の現象のように思いがちです。しかし1930年代にはすでに、幼稚園の教師から合格のお墨付きをもらっていたのに、入学資格を与えられなかった母親が嘆きの手記を残しています。進物をしなかったからかと自分を責めるその姿は、子を思う親の心がいつの時代も変わらないことを教えてくれます。子と同時に親も選抜されるお受験。ママカーストについても、その実態を数字から暴き、お受験の今に迫ります。

山口誠(2001)『英語講座の誕生』

ラジオ放送の開始とともに生まれ、真珠湾攻撃の朝にも発信された「英語講座」。教養として難解な英文学、受験英語=解読技術をへて、総動員体制下の実用英語会話へ。電波にのる「英語」の変遷に、いかなる力が作動したのか?現代日本の英会話熱、英語教育の原点を抉りだし、メディアと英語と教養の節合過程を解明する。

〈河出ブックス〉

橋本健二(2013)『「格差」の戦後史【増補新版】』

日本社会はいかにして、現在のようなかたちになったのか―格差拡大は1980年代に始まり現在も続いている巨大なトレンドであることを実証的に示し、根拠なき格差論議に終止符を打った現代社会論の基本文献。東日本大震災後、もはや避けては通れない「地域間格差」の戦後史、さらには「若者の貧困」「主婦の変質」をめぐる章を追加した大増補版。

浅野智彦(2015)『「若者」とは誰か【増補新版】』

消費社会化、「個性」重視の教育、自分探し、オタクの浮上、コミュニケーション不全症候群、ひきこもり、多重人格ブーム、「キャラ」の使い分け、分人主義…若者たちは自らのアイデンティティをいかに探求し提示してきたか。大人たちはそれをいかに捉え語ろうとしてきたか。消費からコミュニケーションへ、そして自己の多元化―若者のリアルと大人の視線とが絡み合いながら変化してきた30年の軌跡を鮮やかに描き出す。

佐藤卓己(2017)『青年の主張』

毎年「成人の日」に放送され、紅白歌合戦とともにNHKが誇る「国民的番組」だった“青年の主張”。それはどのようにして生まれ、一九五〇年代から昭和の終わりへといかなる変遷を遂げ、そしてなぜ忘れられていったのか―。日本社会に向けられた若者たちの「まなざし」を象徴し、大人たちの若者への「まなざし」も鏡のように映し出してきたこの一大弁論イベントを初めて徹底総括する画期的な戦後メディア史。

〈筑摩選書〉

福間良明(2017)『「働く青年」と教養の戦後史』

高度経済成長が進む中で、経済的な理由で進学を断念し、町工場や商店などに就職した若者たち。低賃金、長時間労働、そして孤独な日々。そんな彼ら彼女らが熱心に読んだのが「人生雑誌」と総称される雑誌だった。その代表格『葦』『人生手帖』は、それぞれ八万部近く発行されるまでになった。「生き方」「読書」「社会批判」を主題とするこの雑誌に、読者は何を求めたのか?人生雑誌の作り手側にも光を当てながら、この雑誌とその読者がいかなる変容を遂げていったのかを描き出す。戦後史の空白を埋める貴重な労作である!

竹内洋(2018)『教養派知識人の運命』

大正教養主義の代表者・阿部次郎。その著『三太郎の日記』は自己の確立を追求した思索の書として、大正・昭和期の学生に熱烈に迎えられた。だが、彼の人生は、そこをピークに波乱と翳りに包まれていく──。本書は、同時代の知識人たちとの関係や教育制度から、阿部次郎の生涯に迫った社会史的評伝である。彼の掲げた人格主義とはいかなるものであったのか。落魄のなかでも失われなかった精神の輝きに、「教養」の可能性を探る。

大澤聡(2018)『教養主義のリハビリテーション』

「知の下方修正」と、「歴史感覚の希薄化」が進む現代日本。
いまや読書そのものが、消滅しかねない――。
こうしたなか、教養をバージョンアップさせるには、何が必要か?
気鋭の批評家・大澤聡氏が、鷲田清一、竹内洋、吉見俊哉の諸氏と、それぞれ対論。
第4章には大澤氏の語り下ろし、「全体性への想像力について」を収録。
教養主義の来歴を問い、現在を照射し、未来を展望する、比類なき書!

〈NHKブックス〉

大澤絢子(2022)『「修養」の日本近代』

何が「働くノン・エリート」を駆り立てたのか?
明治・大正期、旧制高校を出て帝国大学に入るようなエリートになれなかった多くの人々は、どうやって「立身出世」すべきか分からなかった。昭和期、サラリーマンになることで身を立てる人が増えたが、何を拠りどころにして働けばいいかが分からない。会社で「研修」に励んだ彼らは、平成以降の低成長期に入ると、派手な成功を望みづらいなかで、自己啓発やビジネス書の消費者となっていった 。近代日本の歴史の根底には、「働くノン・エリート」の「自己向上」への意欲が、常に「宗教っぽいもの」をまといながら、水脈となって流れていたのだ。明治から現代まで連綿と続く営為の系譜をたどり、“日本資本主義の精神”の展開史を描き出す!

〈青弓社ライブラリー〉

本田由紀・伊藤公雄(2017)『国家がなぜ家族に干渉するのか』

個人の権利を制限する一方で、「家族・家庭」や「個々人の能力・資質」までも共同体や国家に組み込むような諸政策の問題点の核心はどこにあるのか。他方で、家族や子育て、性的マイノリティを支援する社会制度の設計は喫緊の課題である。国家の過度な介入を防ぎながらどう支援を実現していくのかを、家族やジェンダー、福祉、法学の専門家がそれぞれの立場から縦横に論じる。

橋本健二(2010)『家族と格差の戦後史』

映画のヒット、当時の社会状況や文化を紹介する書籍の相次ぐ刊行などを受けて「昭和30年代」がブームになり、ノスタルジックな商品・消費はもはや定着したといってもいい。温かな地域コミュニティがあり、貧しいながらも夢や希望にあふれた時代と捉えられている高度経済成長初期は、しかし現実的にはどのような社会状況だったのか。1965年のSSM調査に残る貴重なデータを使い「思い出語り」を剥ぎ取るなかで見えてくる当時の家族の実態や世帯収入、職業、格差の現実を、いくつかの具体的なテーマから照らし出す。戦争の爪痕が残る「昭和30年代」の家族構成や厳しい所得格差を明らかにして当時のリアリティを浮き彫りにする。

相澤真一・土屋敦・小山裕・開田奈穂美・元森絵里子(2016)『子どもと貧困の戦後史』

2000年代後半から一気に問題化した子どもの貧困。日本社会における格差の拡大に注目が集まるなか、若者・女性・高齢者の貧困の問題や待機児童の問題とともに、解決すべき喫緊の課題として議論されている。
しかし、歴史的なスパンを広げてみれば、貧困環境にある子どもはこれまで多くいて、保護や福祉の対象となってきた。にもかかわらず、新しい事態かのように子どもと貧困の問題を見てしまうとしたら、私たちは何を看過し、何を忘れてしまっていたのだろうか。
敗戦直後の戦災孤児や浮浪児、復興期の家庭環境と子ども、高度成長期における子どもの貧困の脱出と、不可視化する経済問題――復元した1950・60年代の貴重な社会調査データやマクロ統計で当時の実態に実証的に迫り、新聞報道や児童・生徒の「声」も織り込んで、子どもと貧困の戦後を立体的に照らし出す。

上田誠二(2018)『「混血児」の戦後史』

戦後、日本女性と外国人兵士、特にアメリカ兵との間に生まれた「混血児」は、現在は「ハーフ」としてあるイメージをもって語られるが、いまも昔も、様々な差別と日常的に接してきた。
性暴力と売春、貧困と格差、優生思想と差別など、重層的な社会的困難を背負ってきた彼/彼女たちは、「混血児」としてどのような教育を受け、労働に従事して、戦後日本の社会を生きてきたのか。
占領・復興期から高度経済成長期、そして現在までの聖ステパノ学園における混血児教育の実践を縦糸に、各時代の混血児の社会的な立場や語られ方を横糸にして、「混血児」をめぐる排除と包摂の戦後史を活写する。

元森絵里子・高橋靖幸・土屋敦・貞包英之(2021)『多様な子どもの近代』

工場や曲芸で稼ぐ年少者、虐待された貰い子、孤児・棄児・浮浪児、金銭を積極的に消費する年少者――日本の戦前期の多様な年少者の生とそれを取り巻く社会的な言説や制度を丁寧に掘り起こし、素朴な誕生論とは異なった多様なまなざしと実践の交錯を明らかにすることで、子どもと子ども観の近代を描き直す。

〈中公選書〉

ジェレミー・ブレーデン/ロジャー・グッドマン(2021)『日本の私立大学はなぜ生き残るのか』

2010年代半ば、日本では、大学の「2018年問題」がさまざまに議論されていた。18歳人口の減少によって、日本の弱小私立大学は次々と経営破綻すると予想されたのだ。しかし、日本の私立大学の数は逆に増えている。なぜなのか。
 著者たちは人類学者ならではのフィールドワークとデータの分析によってその謎に迫っていく。導き出されたのは、日本独自の「同族経営」の実態であり、それは私立大学のみならず、日本社会の本質をも炙り出している。他に例をみない私立大学論であり、卓抜な日本社会論ともなっている。

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