黄金餅

「落語」という芸に惚れて、気が付いたら15年以上が経った。いつから好きになったか、なんぞを勘定するのは人生で役に立たない事だし、野暮な気もするが、改めて勘定してみると「早いもんだ」と思う。

色んな芸を、色んな芸人を、色んな噺を見聞きした。どれだけ見聞きしたか、そんなのいちいち勘定していたら身も心も持たないが、世間一般の人生と比べたら、割と膨大な量を聞いているのではないかと自惚れている。しょうもない自惚れだが、これくらいしか誇れる物が無いのである。

一期一会の如く、一度聞いて今日まで再び聞く機会に巡ってこなかった芸もあれば、もう何度も何度も繰り返し繰り返し聞いて、その空気、世界に酔いしれまくっている芸もある。今回はそんなもう何度も繰り返し聞いてきた芸、というか噺についての思いを書きたい。おそらく自分の人生で間違いなく一番聞いている噺であり、もし何か一席好きな噺を選ぶとしたら、問答無用でこの噺を挙げる。

「黄金餅」

金に未練を残した乞食坊主が自分の溜めた金を餅にくるんで飲み込んで死んでしまう。その金を何とかして欲しい金山寺味噌売りの金兵衛が坊主の亡骸を焼いて金を手に入れて、その金で餅屋を開いたら、大層繁盛したという噺。

簡単な概略を書いてみたが、やっぱり物凄い噺である。行き倒れになっている自分の遺体を引き取りに行く「粗忽長屋」や、生理現象である「あくび」を稽古しに行く「あくび指南」、吉原好きの若旦那が自宅の二階に吉原を作ってしまう「二階ぞめき」…シュールと狂気が横行する落語の世界でも、この噺の中に吹きすさぶ「剥き出しの人間味」には適わない。だが、こんな陰惨の権化みたいな噺が、めちゃくちゃ笑えて楽しいのだ。「病が下るんじゃねぇか」から始まり、遺体を早桶の代わりに菜漬けの樽に押し込んだり、下谷から木蓮寺までの道中付けのリズムの心地よさ、「金魚~、金魚~…」という読経の強烈なでたらめ感、「焼かないと、てめぇ焼くぞ!」、そして世間一般の常識に中指を立てるが如きサゲ、と30分程度の噺の中に、魅力的なワード、ギャグ、ギミックがこれでもかとぶち込まれている。

ファーストインプレッションは、古今亭志ん生である。あのお決まりのフワフワとした口調から語られる物凄い陰惨なあらすじ、でもその中には病みつきになるようなくすぐりやワードが宝の山のように組み込まれていて、そのギャップの凄まじさに一気にこの噺の虜になった。「死」を取り扱った悲惨な噺のはずなのに、強烈にナンセンスな悲喜劇へと昇華させてしまっている所に、落語の、演者の底知れない凄さを感じた。

金に気が残って死ねない西念が金兵衛に買ってこさせたあんころ餅に金を包んで飲み込んでいくシーンのおぞましさ。飲み込んだ金を何としても盗みたい金兵衛。焼けた西念の腹に包丁を突き刺して、狂喜しながら金を奪ってゆく金兵衛の強烈な浅ましさ。無事に金を奪い取ってそれを元手に商売をしたら大いに繁盛してめでたし、めでたし、チャンチャンで終わる構成。こんなにもおどろおどろしくて、楽しくて、人間を、世間を堂々と真正面から描いている噺なんて無い。普通ならこの後、金を奪われた西念の怨念に祟られるとか、因果応報的な展開が待っているかと思えば、まさかのハッピーエンド。初めてこのサゲを聞いた時は思わず「えぇー…」とズッコケて、でもなぜだか自然と拍手をしている自分がいた。あのカルチャーショックは今でも忘れられない。

これこそが本来の世間であって、「怨念に祟られる」なんてのは社会が相手との関係を存続させるために求められている「建前」である。「人間なんて、世間なんてこれが本当はめでたいんだろ」と、無言の皮肉を突き立ててくる。現に、金兵衛が腹を割いて金を奪ってゆくシーンなぞは、日常生活では感じられない得も言われぬ爽快感を与える。

この噺、頻度は多くないものの、未だに脈々と演じ続けられてはいるが、やはり古今亭志ん生と立川談志には適わない。というか、この噺はこの二人で完成されてしまっているから、これ以上に手の付けようがない。生半可な改変は間違いなく蛇足になる。もし演じるなら、徹底的に先人を踏襲するか、この二人を凌駕する新しい趣向を発明するか、しか無いだろう。

古今亭志ん生の真骨頂は、あのフワフワ飄々とした語り口と、噺に吹き荒れる「これぞ志ん生」というべき陰気とナンセンス。「黄金餅」が持つ陰と志ん生が持つ陰気が掛け合わさる事で、より噺の陰は色濃くなり、よりナンセンスが際立つ。中盤のあの「金魚~金魚~…」というデタラメなお経なんぞは、まさに志ん生と噺の陰気がマッチし、エクスプロージョンを起こしている最たるシーンだ。自身の葬式の際、お経は「金魚~金魚~…」で良いという落語ファンは今も昔も一定数いるはず。自分もそうだ。

この「THE志ん生」というべき世界観へ、「現代」と「人間」をぶち込んだのが立川談志。談志も、志ん生とは違う「陰気」の味わいを持つ落語家だ。先人を踏襲しながらも、常に俯瞰から噺を眺めている談志自身が見え隠れし、現代に沿った注釈・持論・評論・たまに脱線を施したり、メインである道中付けを現代の地理に置き換えるなど、志ん生とは違う笑いの裾野を開拓している。自分が談志の「黄金餅」で好きなのは、物語が後半に差し掛かる頃、木蓮寺での葬儀(?)を済ませて、西念の死骸を背負って焼き場へ向かう際の金兵衛の独白のシーン。志ん生は死骸を背負う事に怯え、全部終わったら改めて西念を弔おうといった具合に、独白を3~4言で簡単に済ますが、談志はここで金兵衛に、金と生への執念、執着を恥も外聞もなく真正面から語らせる。西念が餅を詰まらせ悶え苦しむシーンよりも、腹から金を奪い取るシーンよりも、自分はこのシーンに得も言われぬおぞましさを感じる。迫力に対する恐怖なのか、貪欲なまでの金と生に対する渇望に魅了されたか、何度聞いてもこのシーンに差し掛かると、自分の内から何だか分からない薄気味悪くて、どこか安心も感じさせる震えが湧き上がってくる。

志ん生の実子である古今亭志ん朝も、この噺を継承しているが、申し訳ないがこの人の芸風にこの噺は合わない。志ん朝の代名詞である「立て板に水」が如くの陽気な語り口が、不思議なもので、ものの見事に噺から外れてしまっている。志ん朝の芸そのものを否定するつもりなんて毛頭ない。むしろ志ん朝でなければこの演目はいけないという噺も沢山ある。挙げだせばキリがない。だが「黄金餅」に関しては、「そういう事じゃないんだよなぁ」と思わざるを得ないのだ。

志ん生も談志も亡き現代、もう満足できる「黄金餅」には会えないと思っていた時に巡り会う事ができたのが、立川志らくの「黄金餅」だった。何年か前にネットでふと聞く機会に巡り会えたのだが、これが実に素晴らしかった。基本的には師匠である談志を踏襲する形だが、欲への渇望の描写は談志以上に踏み込んで、さらに掘り下げている。ここまでやると引く人もいるだろうが、自分は「もっとやれ、もっとやれ」と、前者2者とは違うエネルギッシュな爽快感を感じた。そして、あのサゲに何てことない一言を付け加わえた事で、「黄金餅」の持つ皮肉が一気に引き締まった。またいつか巡り会いたいと思わせてくれる一席である。会いたい。今度はネット画面を通じてでなく、絶対に眼前で。

古典落語「黄金餅」。「常識」にがんじがらめにされて生きている内に、自惚れてしまっている人間へのアンチテーゼ。「常識」に従って生きていればいるほど、この噺への羨望は増してゆく。


…以上、江戸落語の最高傑作「黄金餅」への思いという、誠に愚にもつかない駄文でございます。

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