turn on

れーじくん(@reyji_1096)のスパイパロ設定をお借りして第5話。
前回はTumblrにあります。iPad死ぬほど編集しづらい。
お借りしたよその子:シド・レスポールくん、ピピリくん(@chhh_M)、花表はやてくん(@tnyatos)、東堂紫音さん(@hixirari)、ロベルトくん、ヴァルツァくん

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 小さなグラスが折り目正しく置かれた眼前のチェス盤を見つめ、蔵未は内心苦々しいものが湧いてくるのを呑み下した。何食わぬ顔で脚を組めば、向かいに座る男もまた、何食わぬ顔で背をもたせかける。応接室に呼ばれたときから〝形式〟の見当はついたが、仕込まれた意味を考えるたび、子供じみた自分が内側で膨れっ面を作ってみせる。いくつになっても内側に幼い自分はい続ける。人は大人になるのではなく、子供の自分を飼い馴らすのが上手くなるだけだ。
「今日はブランデーですか」
「そう。私は普段酒を飲まないから、せっかくの良酒も出番がなくてね。お前には味が分かるだろう」
「どうだか。所詮は庶民(ワーキング・クラス)出身の付け焼き刃ですよ」
「それは私もそうだ。……先攻はくれるな?」
「まさか。それくらいのハンデはください」
「取られた駒は飲まなきゃならない。それだけで十分ハンデじゃないか?」
 そう。その通りだ。彼は酒に弱く、だってのに俺にグラスチェスなぞ持ちかけてくるのはすなわち、酔うほど駒を取られはしないと踏んでいるからだ。全く、腹の立つ。
 ふと、つかぬことを思う。彼を前にしたときに自らの稚さが折に触れ顔を覗かせるのは、実際に稚なかった頃を体が思い出すからではないか? 軍属の昔、——十年ほど前——当時尉官だった彼の前に少佐として現れたのがこの男、比乃朋之だった。軍属のエリートとして出世の道を駆け上がっていた彼の有能さに目を見張ると同時、さまで歳の離れていない比乃と自分自身との違いに、軽い嫉妬や対抗心を燃やしていたのを思い出す。それは憧れでもあった。やがて己は軍を離れ別の戦場に身を置いたが、比乃はルートを外れることなく中佐になり大佐になり、現在に至る。己の戦場と彼の戦場はしかし分かち難く繋がっていて、階級の違いが曖昧になった今でもこうした〝謁見〟がある。謁見、——やや大仰に過ぎるが、この気分を言い表すにはふさわしい。
「お忙しい先生をお呼び立てして済まなかったな」言葉に反して嫌味のない口調で比乃は言った。「どうにも気にかかることがあってね」
 蔵未は定石通りの手を打って答える。「気がかりですか。僕に解消できるかどうか」
「何、お前に関することだ。その気になればできるだろうよ」
 比乃の進めたグラスに目をやる。ゆっくりと、口元に手を置く。
「そう来ますか」
「今日のブランデーはきついんだ。私は守りに入らざるを得ない」
 既に察知しているのか。どこに目があるか知れたものではない。とはいえ、今回の動きはどちらかと言えば派手な部類で、彼に限らず感づいている者は他にもいるだろう、——どこから洩れたかは、今はいい。どこまで洩らすか。
「前々から折り合いの悪い組織(ところ)が一つありましてね」口元に置いた手を外し、その手で駒を一つ動かす。
「東か?」応えて、比乃もグラスを押した。
「いえ。僕はむしろ東とは近い。北ともさほど悪くない。問題は西、それから南」
「なるほどな。……今回は?」
「南ですが、どうせ背後に西もいるでしょう」蔵未はグラスを摘み上げ、しばらく迷ったのちに斜め前へと置いた。「とにかく鬱陶しくてしょうがない。狙いどころが似ているもんで、たびたび衝突しましてね。よく蹴っ躓く石みたいなものです。とはいえ表立って争うにはお互い軛が多すぎる。そんな訳でナアナアに済ませてきたんですが……つい先日、ちょっと強めに喧嘩を売られて」
「ほう」比乃は盤面を俯瞰して、隅に手を遣る。
「果たして、いきなりの攻勢は何故か。まあ、思い当たる節はいくつかありますが、……この機に上手いこと、」すると蔵未が奥からグラスをスッと進めて、比乃のグラスに当てた。
「潰せないか、とね」
 比乃は無言のうちに、そっと、向かいの青年を窺った。取られた駒を持ち上げて体勢を戻し、軽く呷る。干したグラスを見遣り、渋面を作る。
「きついな。これは効く」
「美味しそうですね。僕も一ついただこうかな」
「言うようになったじゃないか。年々勝負が際どくなる」
「そうは言っても勝てません。惜敗だろうが、敗けは敗けです」
 もし、いつか、自分が彼を負かす時が来たら——と、蔵未は思う。自分はどう感じるだろうか。案外、嬉しくも何ともなくて、むしろ寂しくなるのではないか。恐らく勝利が齎らすものはその勝利自体以外には無く、失うもののほうがずっと多い。しかしいつかは勝つだろう。俺は、この人を超えるだろう。
「そういえば、」比乃はアルコールを払うようにして大きく首を振り、振りながら言った。「姪っ子は元気にしてるか」
「紫音ですか」出ると思っていなかった話題に拍子抜けする。「ええ、キビキビと、職務を全うしてくれていますよ。実際の指揮は彼女(かれ)に任せっぱなしですが、期待も信頼も、裏切られたことがありません」
「小さな組織の長というのは気苦労が絶えないものだ。お前の〝武器〟の一人も確かそんなことを言ってなかったか」
「カーティスですか。彼は殊のほか真面目ですから……部隊長の職はきつかったでしょうね。使われる立場になってほっとした、と言っていました」
「成果は申し分なかったがね。胃を壊す前に出てくれてよかった」
「それとも案外、胃腸そのものは丈夫だったりして……」
 比乃は少し笑う。「かもしれないな」
 現在、政府の独立した諜報機関として機能している——実質は蔵未の私兵組織の——《H.O.U.N.D.》で諜報員の職に就いているカーティス・シザーフィールドは、軍の特殊部隊を経てフリーとなってすぐ《H.O.U.N.D.》にスカウトされたのであるが、さらにその以前には、比乃率いる隊の部隊長を任じられていた。シド・レスポールも彼と似たり寄ったりの経歴を持つが、空軍所属であったため、現役当時に陸軍と交流する機会はほぼなかった。
 カーティスは元々海軍付きの特殊部隊員であったのを、ある合同作戦を機に陸軍が引き抜いた(カーティスが〝逃げた〟とも言えるが)格好で、その際、当時の上司から了承を得るのに尽力したのは、比乃の軍事学校時代の先輩である。カーティスが海軍から逃げ出したかった理由はいくつかあるが、当たり障りのないものを選ぶと、曰く、たまに一ヶ月ほど海軍の一般部隊と軍艦生活をする際に、周りの目、……というより「アプローチ」が異様で怖かったのだそうだ。男ばかりの集団生活、狭い軍艦から何ヶ月も出れないのが海軍兵の定めで、そんな最中にカーティスの中性的な容姿が悪さをしたということのようだが、実際に手を出されるのと船が陸に着くのとどちらが早いかといった妙な焦燥感のさなかに生活するのは忍びなく、あれは嫌な時間だった、と彼は言う(これは知り合ったばかりの人間が彼に移籍の理由を尋ねたとき、決まって彼が肩を竦めて話し出すものである。だからつまり、その程度の話だ)。
「お前の部隊には大勢引き抜かれたな。カーティスもそうだし、ロベルト、ピピリ、……沢霧はまあ事情が違うが」
「中将の部隊から引き抜いたのはカートくらいでしょう? あとは知り合いだっただけですよ。陸軍という括りで見れば、確かに大勢持っていきましたが」
「逆になぜ、小豆屋は連れて行かなかったんだ?」
「あいつは諜報には向いてない。戦場が一番いいはずです」
 軍時代の後輩の名に綻ぶものを感じつつ、蔵未は各員との出会いのことを考える。「引き抜き」なんて言葉を比乃が使ったのは皮肉半分、賞賛半分と言ったところだろう。カーティスやシドはともかく、他の各員はその時点では大して目立つ兵士ではなかった。ピピリに至ってはただの職員だった。
 大抵の構成員は紫音が選んだのだったが、ロベルトだけは蔵未自身が直接選んで誘いをかけた。陸軍所属当時、彼は通信兵で、たまたま蔵未は彼から無線連絡を受ける機会があった。そのとき蔵未は彼が隊にいたら実にいいだろうと感じた。高い情報収集能力、素速い判断、取捨選択のセンス。こういう通信役がいれば、隊の血液の巡りが良くなる。良い臓器も血流が滞れば腐るのだから、血流を担う人材は極めて重要だ。彼なら育つと踏んだ。
 一方、ピピリを拾ってきたのは紫音のセンスの賜物、と蔵未は見做している。最初諜報課に配属したのは結果的には失敗だったが、彼が人材として必要であることには変わりない。彼の特異な勘の良さ、目敏さは、政治の場で大いに力を発揮する。紫音は彼を自身のセンサーとして選んだのだ。蔵未にとって紫音が自分のセンサーであるのと同様に。
「章吾は元気か。最近はめっきり会っていない」
「さあ、俺も詳しくは知りませんが。死んだという話は聞きませんから、相変わらず上手くやってるんでしょう」
「あいつはお前が軍を辞めることにひどくご立腹だったな」
「というより、拗ね切っていたという感じです。子供じゃないんだから……まったく」
 蔵未は沢霧についてそれ以上、思いを馳せることはしなかった。代わりに軽く腕を振り、スーツの袖から時計を覗かせる。
「用事でも?」と比乃が尋ねる。
「いえ、今日はもうフリーです。不意に時間が気になっただけで。しかしもう十二時とは」
「明日の予定は大丈夫か」
「早朝に予定はないです。お気遣いなく」
 それにしても、なぜ比乃は自分の昔の知り合いについてこうもほじくり返してくるのか——問うまでもないことだった。だが少なくとも《H.O.U.N.D.》に属する人間の足取りは、労せず掴めるはずなのに——そこでふと、思い当たる。そうか。今回の作戦には「そうでない者」が関わっている。彼は正体を掴んでいない。そして、それは、「俺の知り合い」じゃない。
「ところで、続きをしませんか。チェスの、」
 そう言ってまた盤面へと身を乗り出しかけた彼は、瞬間、背筋に冷気を感じた。
 気をつけなければならない。チェスも駆け引きも、相手に自分が「勝っている」と思う時ほど「負けている」。蔵未はもう一度身を引いて、隅々まで、駒を見渡した。


 YOU LOSE、と画面に躍る文字を前にシド・レスポールは眉間のシワを深くした。会議開始が延長されて降って湧いた空き時間、デスク上のPCを使ってオンライン対戦をしていたのだが、何度やってもそのプレイヤーに勝てない。生来の負けず嫌いがために何度も果敢に挑んでいるのだが、全く予期せぬ落とし穴にハマる。技術で負けてはいないはずだから、戦術上の問題だろう。
「そいえばどうして会議の時間ずれたんですか?」横から声がかかる。
 見ればそこにいるのは花表はやてだった。ミルクティー色の髪、猫じみたナイルブルーの瞳。西洋系とも東洋系とも一口に言い切れない見目はクォーターゆえらしい。シドは椅子を少し回して彼に向き直る。
「さあな。外部から参加予定のやつに急な用事が入って、そいつに合わせて遅らせるらしい」
「外部? 外部から参加って珍しいですね。沢霧さんですか?」
「いや? サワギリは今日は来ねえはずだぜ。作戦には参加するらしいが」
 沢霧については必要な時に彼を加えていいという旨がボスから伝えられていた。つまり蔵未が都合をつけるわけだ。《H.O.U.N.D.》内で完結しないことが想定されている作戦ならば、つまり、よほど、重要且つ困難ということになる。今作戦のリーダーであるカーティスも、「好きな人材を集めていい」と言われたとかなんとか言っていた。心なしか嬉しそうだった。
「カートが誰か呼んだのかもな」
「あの人に信頼してる人とかいたんですねえ」
「意外っちゃ意外だな。しかしまあここに来るまでのアイツのことはよく知らねえし……」
 互いに《H.O.U.N.D.》に所属したのは同時期で、なかなかウマが合うとも思う。とはいえ軍属の頃の交友関係など知るべくもない。狭い世界ゆえ互いの知り合いの顔と名前くらいは知ってようが、どこがどう繋がってるか把握するのは困難だ。ましてシドはそうした目配りにあまり向いていない。
「待たせたな」資料の束を抱えたカーティスが通りすがりに声をかけていった。「じき始める。会議室に来てくれ」
 すぐ行く、と返して見送る。最後にもう一戦、とランク画面を見たが、件の相手は三分前にオフラインになっていた。

 会議室に入ってきた男を見て目を丸くした。その長身と金髪、王子然とした華やかな顔は個人の特定を容易にしたが、とはいえ彼が自分の思う人間と同一人物であるなら、なぜここにいるか分からない。彼はたまにボスを訪ねてくる、製薬会社の営業マンのはずだ。
 今日のいでたちもまた普段と異なり、パリッとして(わざとらしいほど)爽やかなブルーのスーツの代わりに、暗く目立たないグレーのスーツを身につけている。何より表情がまるで違う。笑顔以外のコマンドがないかのような微笑みを絶えず浮かべているはずの彼は、寡黙な無表情を貼り付けて無言のままに席につく。
「知っている者も知らない者もいるだろう。紹介する」
 ホワイトボードの前に立つカーティスが彼に視線を向けた。
「彼はエドワード・スティールバード。あるいは、この名前のほうならピンとくるヤツもいるかもしれない、」含み笑いで間を置く。「彼はイーグルだ。……《カスパーゼ》の《イーグル》」
「あ!?」
 思わず声を上げてしまった。同時に、すべてが繋がった。
《カスパーゼ》とは海軍に属する秘密特殊諜報部隊で、カーティスの古巣である。作戦のほとんどが機密、同じ政府の下にいても外部はまるで詳細が掴めず、シドも自身が空軍の諜報部隊に属していなければ名前さえ知らなかったろう。そんな《カスパーゼ》の構成員に、《イーグル》と呼ばれる男がいた。もちろん実在の証拠はなく噂程度に語られていただけだが、話によれば、ソイツは常に微笑を絶やさぬ最も恐ろしい尋問官の一人——あるいは与えられた任務を着実にこなす無口な仕事人だった。噂を聞いていた当時、シドは別の二人に対するそれぞれの噂が《イーグル》という名に統合されたのだと思っていた。違ったのだ。それらは間違いなく、同じ一人に対する評判だった。
 彼は軽く首を竦めて応じた。いま目の前にいるのは〝無口な仕事人〟のほうらしい。
「今回の作戦は『必要なメンツを揃えてくれ』と言われている。俺の独断で呼ばせてもらった。彼の有能さには俺が判を押すが、とはいえ初めて顔を合わせるなら色々聞きたいこともあるだろう。もちろん彼のほうからも。今日は顔合わせということで、よろしく頼む」
「はいはーい」早速、花表がひらりと手を上げた。「カートさんとエディさんて、昔の同僚って感じですか?」
「まあそうだ、」と答えるカーティスの声を遮り、エディが口を開く。
「幼馴染みだ」
 なんだって?
 それは初耳だ。さすがの花表も驚いたようできょとんと目を見開いている。それにしてもこんな因果で捻くれた職に幼馴染み二人が揃って就くとはどうかしている。ただの偶然じゃあるまい。
「単に同僚だったというだけでこの作戦に呼ぶほどカートは軽率じゃない。俺が裏切らないと確信してるから呼んだんだ。だから俺のことを疑う手間は省いてくれ。無駄な労力だ」
「エドワード、」
「……そういう意味合いじゃないのか?」
 なるほど、花表からの質問を彼はそう解釈したらしい。カーティスが軽く息を吐き、「違うと思う」と代わりに告げる。
「ハヤテはシンプルに気になっただけだ。そもそも疑っているのならそんな回りくどい聞き方はしない」
「なぜ他人についてお前が答える」
「俺が実際似たような会話を彼としたことがあるからだ」
「……そうか」
「お前としても、俺の口から聞くほうが納得しやすいんじゃないのか」
 エドワードは無言で肯定した。シドはカートがいつ花表とそんな会話をしたのか気になったが、今そこを詳しくつついても話が乱れるだけだろう。
「より詳しく、というより実用的な話をすれば、彼はさっき言った通り俺の古巣の同期・同僚で、専門分野は『尋問』だ。とはいえ万能を求められる職場だったからその他のほとんどのことを難なくこなす。彼は特にバランスの取れた人材で、突出した専門分野が多いタイプではないが、その分どんな仕事でもフォローできる。H.O.U.N.D(ここ)は能力に偏りのある者が大半だからな。彼に色々カバーしてもらう」
「俺の渾名はいくつかあるが、」エドワードが口を開く。地の声はこうも低いのか。
「不名誉なものに『便利屋』『アーミーナイフ』、……なんてのがあった。まあ、そういう立ち位置ってことだ」
 シドは彼らの話を反芻しながら、脳内で印象と情報とを整理していく。要するに《イーグル》として語られていた彼の二つの側面のうち、微笑の仮面を被った尋問官の顔はおそらく普段オレが見ていた彼——製薬会社の営業マンとしての——に近いものなのだろう。そして無口な仕事人とは、いま目の前にいる寡黙な彼、『便利屋』だの『アーミーナイフ』だの「使い勝手の良いツール」として機能していた彼のことだ。そして専門分野を聞くに……真に脅威であるのは前者。
「都合上、俺は何らかの任務にかかりきりということにはならないだろう。中心になるのはあくまであんたらだ。だが同じ理由で、俺はあんたらのほとんど全員と関わることになる。懸念があれば先に言ってくれ」
「あの、」おずおずとシドは手を挙げた。「一応、良いか?」
「どうぞ」
 エドワードは鷹揚に頷く。シドは咳払いをしつつ、個人的な疑問点を述べた。
「お前、製薬会社の営業マンだよな? そうでなくてもこれまでお前の噂のカケラも聞いたことがない。退役後は活動せず、一般人になっていたんじゃないのか。……いいのか? 身の安全の保証も保障もない世界なのは、嫌ってほど知ってんだろ」
 もちろん、懸念はそれだけではない。退役からそう長く経っているわけではないにしろ一度前線を退いたなら、勘を取り戻すには時間がかかる。一度でも情報戦の世界に足を踏み入れた者はたとえ引退宣言をしたところで完全に足抜けできるわけもなく話は漏れ聞こえてくるものだが、それにしたって最新の情勢に即座に追いつくことはできないだろう。
「まず第一に」
 はっきりした声でそう言うと、エドワードはシドに改めて目を向けて、口の端を歪めた。
「俺は年下の〝寸足らず〟にお前呼ばわりされる謂れはない」
「んだと!?」
「それからお前が俺の噂のカケラも聞いたことがないのは、単にお前が俺の存在を把握できてなかったからだ。『戦闘バカ』とは聞いていたが、どうやら間違いないらしい」
 言い返したいのをグッと堪える。いま口を開いたところで、うまい返しは出てこない。戦闘バカとはあんまりだが、実際自分は情報戦や諜報に向いた人材ではないのだ。そのプロ中のプロに対してあまりに愚問だったと、黙り込むうちに内省した。
「……とはいえ、全く的外れな指摘でもない。俺は確かに最前線に常にいるわけではない。普段は市民の生活をしている。だがこちらの世界の話は常に耳に入れてはいたし、折を見て仕事もちょくちょくしていた。そのあたりはヴァルツァが詳しいが、この件には関わらないようだな。……実に賢明だ」
 最後にボソリと呟かれた言葉が、彼の知るヴァルツァが他の誰でもなくあの〝孔雀〟であることを示していた。隣でカートが少し目を丸くしている。どうやら初耳だったようだ。
「それにしても、」突然、聞き覚えのある、しかし突拍子もなく陽気な声が耳朶をくすぐる。
「君ってばほんとに良い子なんだねえ。一般人たる僕の安全を心配してくれたんだろう? そーゆうとこ、カートにはないねえ。まったく反省してほしいな」
「嫌なら断ってよかったんだぞ。気があるから乗ったくせして」
「やだなあ、いずれは大統領になると思しい〝伝説の兵士〟の直属組織に誘われて一般市民が断れると思う? 今後の仕事がやりにくいことこの上ないよ! そもそも市民の僕の仕事だって、完全クリーン除菌消臭済みってわけにはいかないんだから。僕らのボスは軍人ベッタリ、官僚ベッタリ諜報ベッタリ、まるでトリモチが如くなんだ。そんなお得意サマと強い関係が結べるかもしれないときに、死ぬのが怖いからってお断りします? 下っ端営業にできるもんか」
 同席した者の戸惑いをよそに淀みなく彼の言葉は流れ、それが自然に途切れると表情もまたすっと静まる。
「ま、そういうことだ。あんたらの期待に応えられるかはやってみて判断してもらうほかないが、全くの『病み上がり』でもないってこった」
「あのー、それって、二重人格とかじゃないんですよね?」半笑いで聞いたのはハヤテだ。
「違う。単なる切り替えだ。……モードの変更とでもいえば良いか。その場の情報伝達において、より適切あるいは俺に都合のいいほうを採用して切り替えている。と言っても自然に話せば今現在のようになるから、あっちはいちいち『起動』させなきゃいけないような感覚ではあるな」
 つまり、とシドは思う。つまり普段の彼——市民としての彼は、常に『起動』させっぱなしでいるということか。それはなかなかに、積もり積もれば、大きなストレスになるのかもしれない。彼がこの世界に片足を置き続けている理由が垣間見えた気がした。
「質問は以上か?」
 彼は自然な速度でメンバーを見回し、反応がないのを見てとると吐息をついた。カートが心持ち身をかがめ、着席している彼の顔を覗き込むように問う。
「エディは? 何か聞きたいことは」
「特にない。大方調べはついた。微妙に正体が掴めんのはそこのラグドールくらいだが、それも含めて納得はしている」
 ラグドールときたか。シドは無愛想で強情に見えた彼の口からそんな喩えが出てきたことに驚き、そして、イギリス人ってのは全員こうなんだろうかと思った。シドの身近にいるイギリス人は漏れなく全員、こうしたセリフを急に吐く。カートは言わずもがなとして、あの跳ねっ返りのアーネストまでもが。
 この場合ラグドールとは、一般名詞の「ぬいぐるみ」ではなく長毛種の猫のことだろう。そのくらいの察しはシドにもついた。なにせ動物に例えるとすれば猫以外浮かんでこない男だ。そして彼の言う通り、きっとH.O.U.N.D.にいる誰も彼の正体を掴めていない。トリイハヤテの実情を知っている者がいるとすれば、おそらく蔵未と紫音くらいだ。
「では、自己紹介を省略して、まずは当座の作戦について概要を述べることとしよう」
 言うと、カートはホワイトボードに向き直る。彼は脳に障害を負った際、文字を認識する能力を失っている。そのため本来であればディスレクシアとなっていたはずだが、彼は欠損を補っている基盤の機能を応用し、文字を画像認識の要領で処理しているそうだ。筆記時には記入予定の内容をテキストに起こしたデータを網膜に投影しそれをなぞっているんだそうで、よって彼の書く文字はまるでフォントそのもの、もっと言えば、Times New Romanそのものである。
 此度もその手書きとは思えぬ美しい字体がホワイトボードに整然と書写されていき、メンバーは内容を読み込む以前に妙技に息をついてしまうのだが、やがて書かれている文をやっと読み始めた一同の間に衝撃が走った。これは、どういう——
 書き終えたカーティスが、くるりと振り返り、笑う。

「まず最初の一手は、資産の強奪。簡単に言えば、——『プリズン・ブレイク』ってところか?」

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