超短編「噂」

 私の家の向かいに住む五十代の男は、録音機で録音したのか、または自分で音源を制作したのか解らないが、騒音を鳴らし続け、私は夜も眠れない毎日を送っている。
 精神疾患を患っているのかどうかは定かではないが、近所でも有名な問題のある男で、私が三十五年のローンを組んで買ったこの家とおよそ三メートルほどしか離れていない男の戸建ての間で、私と男は何度かトラブルになったのだ。
 そもそも私は何もしていない。本当に何も悪いことなどしておらず、ただ窓を開けて換気をしていただけだ。それなのに男は私が男の家を覗いているという妄想を抱き、私に対して家の壁が揺れるほどの大音量で騒音を鳴らし始めた。
 警察に相談するが、相手にしてもらえず。妻と一緒に男の家に行き、騒音を辞めるように訴えようとしたが、男の家から出てきたのは老いぼれた男の母親で、年齢を訊くと八十を過ぎているという有様であり、男は数十年引きこもって老人の母親が生活の面倒を見ていると、その母親から聞かされた私たちは、何も言えず沈痛な面持ちで帰宅した。
 しかし、あるとき私は我慢の限界に達して、怒りにまかせて男の家の窓に向かって茶碗を放り投げたところ、男は私をあざ笑い、
「やりやがった。警察を呼べ!」
 と、してやったりという調子だった。
 警察に事情を話し、何とか修理費だけで済んだのだが、このとき私は男に殺意を覚えた。
 私は妻と子どもには内緒で、男の殺害計画を立て始めた。私の家の裏庭の向かいが男の戸建てだが、風呂場とおぼしき窓が常に開いていることに気付いた。そして、何故かは解らないが、その窓には格子がはまっていない。私はこの窓から屋内に侵入することに決めた。
 そして、包丁で男を刺し殺そうと思ったのだが、厄介なのが母親である。母親に罪はない。だから、私は母親には危害を加えたくない。しかし、母親もすでに隠居しているらしく、ずっと男と一緒に家にいる。私はこのことがきっかけで殺害計画を企てるのを一時中断した。
 だが、男と母親が大笑いしているのが私の耳に入り、二人とも殺してしまおうと決意した。
 さて、二人の遺体はどうするかである。ここを考え抜かないとボロが出てしまう。遺体が腐って異臭を放ち、たちまち警察を呼ばれて、私の犯行が明るみになってしまう。
 男はかなりの巨漢である。何を食ってあそこまで太ったのか解らないが、丸々とした体をしており、まるでノルウェーの伝承に登場するトロルのような顔つきをしている。男を見たのは一度だけ。機嫌の良かった男が鼻歌を鳴らしながら窓を開け、私もちょうど騒音が止んでいたので窓を開けたところ、私と男が鉢合わせしたのだ。
「どうも」
 と男が言って笑っていた。私が殺そうとしていることも知らずに。
 でかい体をしている男と母親の二人の遺体をどこに隠せばいいか。私は考え込んで熱を出しそうになったが、二人の遺体が見つからなければいいのだということに気付いた。
 おそらくではあるが、二人に寄り添う親類はいないと思う。もし、二人を助ける兄弟などがいれば、もう少しあの母親をどうにかしてあげようと思うのではないか。男が騒音を鳴らしているせいで、母親も近所から冷たい視線を送られて生活しているのだから。
 私は風呂場に遺体を隠すことに決めた。浴槽に二人の遺体を詰め込んで蓋をしてガムテープで頑丈に隙間を埋めていく。腐食した遺体は、おそらくはガムテープも腐らせるだろう。そして、異臭が近所に放たれる。しかし、そのときには私の犯行からかなりの時間が経っているため、私が犯人であると特定するのは、優秀な日本の警察でさえも捜査は難航すると思うし、迷宮入りも狙えるのではないか。これ以上、犯罪の素人である私が考えたところで大した名案が出ないのは明らかだった。
 男は毎日、午前三時過ぎに騒音を鳴らすのを辞めて就寝するようだった。真冬の午前五時過ぎ、まだ太陽が沈んでいる暗闇に乗じて、私は男の家に侵入し、眠っている二人を刺殺して風呂場に遺体を運び込み、ガムテープで蓋を完全に閉め切った。犯行時間は三十分ほど。暗闇に目が慣れるまで少しばかり時間がかかったが、実際に犯行に要する時間はごくわずかで、自分でもここまで冷静に残酷に事を終えることができたことには驚いた。
 その二日後から、近所で男の騒音が無くなったと話題になっていた。しかし、その理由が、私が何かして男に騒音を辞めさせたと噂になっていた。なぜ、私が関わっていることを知っているのだ。なぜ、私が殺したと知っているような噂が広まっているのだ。
 それから、私が外を歩くと、近所から奇異な視線を向けられているような気がしてたまらない。噂は一向に、「私が何かして騒音を辞めさせた」と広まり続けている。
 そうか、目撃者がいたのだ。おそらく、私の犯行の目撃者が、私を苦しめようとして噂を広めたのだ。私を虐めて楽しんでいるのだ。
 妻は騒音が無くなったと意気揚々と暮らしている。子どもも元気に過ごしている。私の家族は、私の犯行を知った上で知らないふりをして無理をしているのだ。いや、もしかしたら、私を家族の英雄と思っているのかもしれない。
 私は犯罪者だ。目撃者がいる以上、私はそいつから逃げられない。そして、家族が私の行いの犠牲者になってしまう。噂は広まる一方で、私の犯行が警察に知られるところとなるのも時間の問題だ。
 なぜ、目撃者は噂を広めるという陰湿な方法を選んだのだろう。その目撃者はどんな奴なのだろう。どうして、噂を広めている近所の人々は、私の犯行を知って平然と暮らしているのだろう。どうして、私を犯罪者と知って怖いと思わないのだろう。
 しかし、これだけは明らかだ。
 もう私は生きてはいけない。家族が犠牲にならないように私は自死しなければならない。
 私は自宅の梁にロープを吊した。

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