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ペーパー・ムーン【♯3】

翔と会った日から翔の言葉が頭の中をぐるぐると巡っている。教師になることを後悔したくないのに、本当に良かったのかと思い始めてしまっていた。そりゃ、僕だって好きな事だけして生きて行きたかった。でもそんなに世の中は甘くないんだと自分を納得させてきたが、翔みたいなやつを目の当たりにすると、ただ覚悟がなかっただけなのだと思い知らされる。だって、もう嫌なんだ。僕のすることで周りの人が傷つくのは。


教師になる覚悟までゆらぎそうになりながらも、予定通り冬休み中に卒論を仕上げられた生真面目さが更に自己嫌悪を生んだ。高校の時の担任に「お前はバカになりきれないのが唯一の欠点だ。」と言われた意味がやっと分かった気がした。

翔に貰ったウィルキンスのチケットをどうしようか考えあぐねていた。大学では音楽好きを伏せていたから、大学の友達の中で好きな奴がいるかどうかわからない。高校の友達を誘ってもいいが、何となく久しぶりに会って近況を話したりする気になれなかった。かと言ってこの貴重な1枚を無駄にすることはファンとして出来ない。貰ったものだからネットで売るのも気が引けた。翔に行けないのかと聞いてみたら「俺が行けるなら最初から譲ってねーよ。」と言われた。続けて「喜んで行ってくれそうな人が近くにいるじゃんか。」とも。

誰のことを言っているのか直ぐに分かった。僕だって思い浮かばなかった訳ではないが、二人で出かけるなんて暫くしていなかったし、僕から誘うなんて照れくさくて躊躇う気持ちの方が大きかった。しかしライブはもう再来週に迫っていて迷っている暇はなかった。

夕飯の後、ソファに座って音楽をかけながら本を読んでいる父さんに声を掛けた。

「何だ。」
「いや…あのさ、再来週の日曜って何か用事ある?」
「再来週?何かあったかな…。どうした?

壁に掛けてあるカレンダーを見ながら僕に聞く。

「あぁ、ゴルフの予定だったけど先方の都合でなくなった日だな。せっかくだからバイクのメンテナンスにでも行こうかと思ってたけど…。」
「そっか、じゃあ良いや。」
「何だよ。お前が俺の予定を聞くなんて珍しいじゃないか。」
「いや…。」
「彼女を紹介してくれるって言うなら喜んで予定空けるぞ。」
「そんなんじゃないよ。」
「じゃあ何だよ。」

父さんは穏やかに笑っている。ウィルキンスよりも、翔よりも、僕はこの人に憧れていた。仕事を全うしながらも沢山の趣味を持ち、僕にも優しかった。ただ一つ、ずっと気になっていることがある。その沢山を選んで来た中で、犠牲になったのが母さんなんだろうか。僕の中にもそういう部分があることに薄々気付いて来た。母さんが出ていった後も僕達は仲が良かったけど、そのことだけは聞けずにいた。二人で出かけられたら色々話せる良い機会かも知れない。

「あのさ、翔覚えてる?中高の同級生の。」
「あぁ。お前が一番仲良かった友達じゃないか。」
「今度、ウィルキンス解散するじゃん。あいつ今音楽系の企業に勤めてて、チケットが手に入ったからって正月に会ったときに二枚くれたんだよね。」
「お前が取れなかったって悔しがってたやつか。持つべきものは友だなぁ。」
「うん、それでさ、もし良かったら父さん、一緒にどうかな…と思ったんだけど。」
「何だよ、貴重なチケットなんだろ?友達と行けば良いじゃないか。」

それができるなら誘ってないよ、とは言えなかった。そりゃ父さんだっていい年した息子と出掛けるなんて嫌だよな…、と一人で行く決意をした。

「…そういや、まだ就職祝いしてなかったな。」
「え?」
「その帰りに、旨い肉でも食いに行くか。」
「え、あ、いいの?」
「終わる時間に合わせて予約しておくよ。」


解散ライブ当日は見事な快晴だった。僕も父さんも一日休みだったけれど、家から二人で出掛けるのは気恥ずかしくて午前中は用があるから、と現地集合にしてもらった。食事に行くからと父さんも車やバイクは置いていくと言っていた。父さんも電車に乗るんだな、と当たり前のことに驚いたりした。こんなに近くに居ても知らないことだってあるのだ。

早めに家を出た僕は、家の近くの喫茶店で大学の図書館で借りた本を読みながら時間を潰すことにした。しかし実際には、今日父さんと何を話そうかということばかり考えてしまっている。僕は母さんのことを聞いてどうするつもりなんだろう。その答えによっては教師になるのを辞めたりするんだろうか。いや、そんなことは出来ない。電車は既に走り始めてしまっているのだ。僕自身が敷いたレールの上を。今日だって父さんは僕の就職を祝ってくれるのだ。裏切ることは出来ない。世界一尊敬している人を。

全く本に集中できないので、すっかり冷めたコーヒーをぐいっと飲み干し、早めに現地に向かうことにした。駅前の立ち食いそば屋で昼飯を済ませ、鈍行でゆっくりと新横浜に向かう。ライブに行くのなんて何年ぶりだろう。憧れのウィルキンスを前にして、また自分の中の熱が疼き出すのが怖い気もする。逆に、憧れは憧れとして見ることができれば、ケリがついたのだと前に進めるはずだ。あれだけ楽しみにしていた日なのに、近付くほど怖くなっていたもやもやの正体が、やっとわかるのだろうか。

結局やることがなく駅の周辺をぐるぐると散策して、近くのカフェで、今日二杯目のコーヒーをチビチビと飲みながら時間を潰した。胃がむかむかする。折角のライブなのにコンディションは最悪だ。待ち合わせの時間に会場の入口へいき、父さんを探しながらフラフラしていると、すれ違った女性の横顔に心臓がバクンと大きく鳴った。

「仲村先生…?」

小学校5、6年の時の担任によく似ていた気がした。世界の疫病で気を病んで辞めてしまったあの先生に。先生はウィルキンスが好きだったけど、クラスター事件のせいで音楽が聴けなくなっていたそうだった。でもあれから十年経っている。心が回復していれば、ここに居てもおかしくない。それとも僕の願望が見せた幻想だろうか。

「蒼。」

女性に向かって一歩出そうになった足に急ブレーキがかかる。

「悪いな、遅くなって。」
「いや、大丈夫だよ。」
「急ぐか。」
「…うん。」

後ろ髪を引かれつつも父さんと会場の中に入る。追いかけたって何を話したらいいかなんてわからない。僕のことを覚えてさえいないかもしれないんだ。

落ち着かない気持ちで席に着くと、父さんが「そういえば」と口を開いた。

「お前の担任だった仲村先生…小学校の。ウィンキンス好きだったんだよな。」

父さんの口から仲村先生の名前が出てまた胸がざわつく。

「うん…。」
「あのときはかわいそうだったなぁ。」
「…。」

返す言葉に困っていると、会場が暗くなった。暗闇の中で微かに父さんの声が続く。

「見間違いじゃなければ、ここに向かう途中で見掛けたような気がするんだよなぁ。」
「え…」

それってここに来てるってこと?
聞き返す間もなく、ギュイーーンとギターが鳴ると一斉に客の歓声が沸く。ダダダン!というドラムの音を合図に眩しいほどの照明がたかれ、曲が始まった。激しいサウンドに身体の芯が揺れる。ああ、ウィルキンスの音だ。声だ。ウィルキンスがいる。あの憧れたウィルキンスが。いるんだ。先生も。きっと、いる。聴けるようになったんだ、ウィルキンスの曲を。音楽を。克服したんだ。

色んな感情が湧き上がり、溢れる涙も拭うことはしなかった。高揚感に身を任せ、父さんが横にいるのも忘れてステージにいるウィルキンスに向かって叫び続けた。最後のライブが最高のものになるよう、僕もその一部になるんだ。

            【♯4】へ続く

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