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幼気【♯3】

「認知症…?そんなふうに見えなかったけど…結構酷いの?」
「いや、母さんは進行が遅いみたいだ。今のところは、だけど。」

嫌な予感が的中して頭が真っ白になる。少し会話が噛み合わないとは思ったけど、今までだってずっと噛み合ってきてないのだ。

「最初は、麦ちゃんとお前の名前をよく間違えるようになったんだよなぁ。麦ちゃんの話かなと思って聞いてるといつの間にかお前の子供の頃の話になってたりしてさ。でも前から母さんはそういうところあったからなかなか気づかなかったんだけど、ほら、麦ちゃんのランドセル買っただろ?」
「ああ、うん。買ってもらったね。入学祝いに。」
「あれ、暫くしてまた同じものを買ってきたんだよ。」
「え、お母さんが?」
「うん。幸いレシートがあったから謝って返品させてもらったんだけどな。」
「確かに変だね…。」
「まぁ、俺も確証持てなかったし、あまりお前に余計な心配かけてもと思ってたんだけどな…。母さんも病院嫌いだろ?何とか説得して調べてもらって、まあ、そういうことだ。」
「それが4月?」
「うん。」
「そっか…。ごめんね、来るの遅くなって。電話で話してくれても良かったのに。」
「話したら来たか?」

ドキリとする。私の心情を見破るように「うそうそ。」と浩二さんは笑った。

「いやぁ、やっぱ俺もどこかで信じたくない気持ちもあったし、お前の感想も聞きたくてさ。」
「感想って…。お医者さんが認知症って言ってるんでしょ?」

浩二さんが言うには、普段は物忘れがいつもより酷かったり、同じことを何回も言ったり、味のないスープが出てきたりする位らしい。でもたまに妄想の世界に入り込んでしまい、そこには浩二さんではなく、幼い私と私のお父さんの三人で暮らしているようなのだ。

「何それ。」
「そりゃ、もし真弓のお父さんとうまく行ってればそれが一番だったんだろうからなぁ。そしたら真弓にも寂しい思いさせることもなく、家族三人仲良く暮らせていたのにっていう想いがあるんだろう。」
「そんな…、今だって浩二さんにこんなに良くしてもらってるじゃん!」
「それとこれとはまた別の話なんだよ。」
「やっぱお母さんは勝手だよ。いつも自分が被害者で、自分の事しか考えてないんだから。」
「多かれ少なかれ人なんてそんなもんだよ。それに病気でこうなってる訳だから母さん自身でもどうしようもないことだ。」
「そうだけど…」

混乱している私に、ここからが本題なんだけど、と浩二さんは続けた。

「まだ、菜津子さんには認知症だとは言ってないんだ。今の所そこまで困ってないし、俺も中々勇気が出なくてな…。でも最近、“あっちの世界”に行くことがちょっとずつ増えてきててさ。リハビリなんかを始めるにはどうしても話さなければならない。俺もあと一年したら退職だし、まあ菜津子さんの面倒見ながらちょっとアルバイトなんか出来たら良いかなぁ、なんて思ってる。」
「…うん、なるべく私も協力するよ。まあ、私も仕事あるからそんなに頻繁には来れないかもしれないけど…ていうか、無理してアルバイトしなくても多少はうちからも用意できるように和樹にも相談してみるし。」

はっはっはと、ごちゃごちゃと
言い訳を並べ立てる私を見透かすように浩二さんは笑った。

「無理するな。それに、金の為に働きに出るんじゃないよ。あいにく俺はまだまだ元気だからなぁ、身体も動かしたいし、社会とも繋がっておきたい。もちろん菜津子さんの体調次第ではあるけど、その方がお互いに心も健康でいられると思うんだよ。」

この人は、どうしてこんなに明るく前向きなんだろう。いつもネガティブな母のどこが良かったんだろうか。浩二さんに任せておけば安心だとは思うが、浩二さんだって歳を取る。母子家庭だったときにずっと付き纏っていた不安が急速に襲ってくる。

“私がお母さんの介護をするんだろうか”

一番不安だったことだ。子供はかわいい。そして、いつか巣立つ。しかし折合いの悪い母の老いていく姿を間近で見つつ、死を見届けることなんて出来るのだろうか。何かの拍子に暴れ出したりすることがあれば、麦には決して出さなかった私の手は母の頬を叩いてしまうかもしれないという恐怖がどうしても拭えない。

想像するだけで涙が溢れてくる。そうなりたくない。しかし心穏やかに介護ができる気がしない。やっと安らげる家庭を苦労して作ったのに、またこの人に邪魔されるのかという筋違いな憎しみすら湧いてくる。どんなに他人から責められようが、これが本音なのだ。私も私の事しか考えられない。人間なんて、嫌になるほど自分勝手だ。

黙りこくって泣き出した私の頭に浩二さんの手が乗る。

「驚いたか。驚くよなぁ、急にこんな話。俺も受け入れるのに時間がかかったよ。まあ、でも心配するな。お前や和樹くんには迷惑かけないようにするから。気にするな、って訳には行かないだろうけど、菜津子さんの面倒は俺が責任持ってみるよ。」

俺が菜津子さんより若くて良かったよなぁ、と笑っている。

「でも…」
「でもじゃないんだよ。お前が会いに来てくれるまで十分時間があったから、おかげで腹が括れたんだ。お前は自分の生活を頑張りなさい。」

介護をする自信もないが、放棄する勇気もない。もちろんゼロかヒャクではないが、覆いかぶさった黒いモヤは晴れるわけもない。

「ただ一つ、相談があるんだ。」
「…うん?」
「いま、俺はこの年にしちゃあ健康な方だと思う。タバコは吸わないし、酒も嗜む程度。定期的に運動もしてるし、会社の健康診断はほとんどA判定だ。でも、いつ何があるかわからない。ずっと隠れてた末期癌が急に見つかるかも知れないし、明日交通事故で死ぬかもしれない。」
「ちょっと縁起でもない事言わないでよ。」
「でもそうだろう?現に母さんがこういうことになってる。誰にだって起こり得ることだ。」
「それはそうだけど…。」
「それでだ、俺に何かがあったとき、母さんはどうしても真弓の元に渡る。」

ドクン、と打つ胸の音を隠すように「うん。」と答える。少しわざとらしいくらい大きな声になってしまった。

「その時は、母さんには施設に入ってもらおうかと思ってる。」

浩二さんの意外な言葉に口が開く。

「今は施設って言っても色んな所がある。菜津子さんが安心して暮らせそうな施設を探して、いざとなったら入れるようにしておこうかと思ってる。真弓のことを信用していない訳じゃないぞ。ただ、今までの二人の関係を見てると、苦しい闘いになる気がするんだ。お前に迷惑をかけるのは菜津子さんも本意じゃないだろうし、俺も嫌なんだよ。」
「でも…」
「介護したいか?」
「え。」
「お前が施設に入れるのは嫌だ、どうしても介護したいというなら止めない。でも無理して共倒れになった友達を何人も見てる。施設に預けることは、親を捨てることじゃない。お互いに健康に生きていく為に専門家に任せるんだ。罪悪感を感じることじゃない。」

介護以前に、母と再び一緒に暮らすことも不可能だと思う。だからといってふたつ返事で施設に預けるとも言えない。

「本当に…色々考えてくれてありがとう。でも、ちょっとわたしも時間が欲しい。和樹にも相談してみても良い?」
「もちろんだよ。ゆっくり考えれば良い。あくまでこれは俺からの提案だから。当たり前だけど、俺は菜津子さんにも真弓にもどっちも幸せになって欲しいんだよ。菜津子さんにお前を紹介してもらった日に、そう決めたんだ。」
「うん。ありがとう。なんか、お父さんみたいだね。」
「お父さんなんだよ。」

知らなかったか?と言って浩二さんは笑った。

帰る前に母の部屋を覗いてみると、やはり眠っているようだった。ベッドに仰向けに寝ていて、布団の上にきちりと組まれた手が置かれていた。すっかり細くなったその手はシワシワでひどく頼りない。お母さん、私はその手に何度もつねられたんだよ。繋いだ事も沢山あるはずなのに、鮮明に思い出せるのは振り払われた記憶ばかりだ。私にとって母の手は鬼の手だった。ずっとこの手が怖かった。大人になった今でも私はこの記憶に苦しんでいるのに、この人は忘れてしまったのだろうか。どんなに逃げても私はお母さんの子供だから、やっぱり私のも鬼の手かもしれない。だってあの日、確かに包丁を握ったのだ。

なんとなく母の手に自分の手を重ねて見る。力を込めたら簡単に折れてしまいそうな程に弱々しい。すると母の右手が動き、私の手の上に重ねられた。起きたのかと思ったが変わらず寝息を立てている。温かい。手が温かいことがこんなに安心するなんて。また涙が溢れる。お母さん、私はずっとこの手に包まれたかった。あなたが病気になっても弱々しくなっても、今になって手を握られても私はあなたを許せないんだよ。こんなふうに思ってしまう私はやはり鬼なんだろうか。

私に出来ることは次なる鬼を生まないことだ。私は麦に包丁を握らせてはならない。本人が一番その事に苦しむことになる。幸い母を反面教師にして、良い親子関係が築けているように思う。なんて皮肉なことだろう。

帰ろう。今日は旅先で愛する娘と夫が待っている。二人の顔を見たら少しは私も冷静に考えられるかもしれない。旅行を楽しむ気分ではないが、二人が楽しんでいる姿は嬉しい。浩二さんが言った、どちらにも幸せになって欲しいという気持ちは、こんなに自分勝手な私にだってわかるのだ。


           【♯4】へ続く


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