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哲学者もみんな幸せになりたい

私が哲学科卒論のテーマに選んだのはキルケゴール『死に至る病』でした。
この段階でキルケゴールも私も病んでいるように見えます。

人を死に至らしめるのは何であるか
そんなことが確か述べられていたような。師事していた教授のパウロ研究も当てはめながら自身の「人は何のために生きているのか。そこには幸せを求めていい。生きることには希望がある」問への答えをその当時はそれなりに見つけられたような気がしました。

最もよかったのは哲学者たちが性善説を唱えたり、幸福論を書いているように難しい言葉でこねくり回している理論の根底に
希望や幸せ、平安な心の境地があると
信じている、信じたい、証明したい
そんな極めて人間的でシンプルな想いがあるとわかったことです

偉大な哲学者も幸せになりたいし
どうしたらそうなれるのかって考えている。
それは誰にとっても根本で一緒。そう感じられたことに救われました。

難しい理論を学んで学んで学んで思考し続けたら、その先になにか楽に生きられる答えというか境地があるのでは。そう思って哲学科へ行ったのですが
それは私の大学4年間ではとてもたどり着けない境地でしたし、何十年血のにじむような思考の日々を送ってきた教授もまだまだということです。
到達された哲学者たちもいたかもしれませんが、私が選んだキルケゴールはずっと悩んでいたようです。


それが親近感というか、人間らしさに救われるといいますか
偉い人でも悩んでいたんだからが私が悩んでも当たり前、と思わせてもらいました。

キルケゴールはせむし(背中が生まれつき曲がっていたということだそうです)にひどくコンプレックスを抱いていて、それが彼の思考する人生へと誘ったというような背表紙を見たときにとってもほっとした私です。
こんな哲学者でも外見のコンプレックスに悩んでいたの⁈
みんな一緒なんだね、と。

心の平安を求めてバカみたいに考えたり
幸せは存在していると信じていい。

哲学者たちだってそう思ってたんだから。
それが哲学科へ行って一番良かったことでしょうか。
そこに希望があると思いました。

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哲学って就職できないし、お金にならないし、生産性がないから
学ぼうという学生が少ない。
と、ある大学の教授が肩を落としてお話しされていたことがあります。

そんな話しを聞くと、いつも絵本『フレデリック』を思い出すのです。
みんなが冬に向けて食料集めに勤しんでる間、岩の上にぼーっと座って太陽を感じているフレデリック。そんな彼に周りの仲間は「何してるんだ」「怠け者だ」と非難します。
それでもフレデリックは意ともせず、太陽の光を集めているんだよ。広がる緑や光のきらめきを覚えておくのさと話します。
バカにしていた仲間たちですが、冬になり寒くこもっるばかりの冬ごもりで次第に生気を失いかけていく中、フレデリックが温かい太陽の光、木々の緑、春の喜び、集めていたたくさんの記憶を話すとなぜか体が温かく、輝く外の世界が広がるのをみんなが感じたというお話しです。

哲学はフレデリックのようだと私は思います。
確かに就職に有利な技術や経験にはならないのかもしれません。
教授にでもならない限りお金に変えるのは難しかったかもしれません(これからは変わっていくかも!)
でも、苦悩や希望を失ってどうしていいかわからなくなったとき
哲学は希望を与えてくれる。
根底に生きる希望があるからです。
今そうじゃなくても、先の希望が見えたなら人は生きていける。生きる活力が湧いてくるのだと思います。

哲学にはそういう力がある。
そこだけははっきり言い切れる私です。
そう、哲学は希望を与えるのです。


哲学科には希望かありますよ。そういう学問だと思います。
先生にそう答えました。

そう思う⁈
目を輝かせて、笑顔になった先生。

「うちの学生にそう話して欲しいなあ」とご自身の著書をくださいました。

日本語が日本語でない(これは1年目の私の実感です)
原書で読まなければ読んだことにはならないと言われる(これはどうだろ。でもそんな風潮ありますね)
変な奴が議論をふっかけてくる(ないのでは⁈みんないい人です。変でも)

哲学にはそんな砦があるかも。ないかも。
近寄りがたい印象が大きいのが問題ですね。


そんなときにはフレデリックを思い出して。
哲学はフレデリック。
みんなに希望を与えるために存在しているのです。

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