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日記が続かない問題/複数の現実の問題

 何年かに一度「日記を書くぞ」と思い立って書いてみるも、最初はその初動のエネルギーで楽しく書けるのだけど、だんだんと交感神経が副交感神経に切り替わっていくみたいに批評的に自分の日記を読むようになって、それならまだしも、なぜかわからないのだがだんだんと日記のために日々を過ごしているような感覚になっていき、よくて数ヶ月、悪くて数日で「日記は俺には合わないのかもしれない」と思い結局のところ頓挫するというリフレイン。昼飯を食べながら、ああこの天津飯の味のことをまた日記に書くんだろうな、と思うと気が滅入るし、日記の空白を埋めるために寄席に行こうとしている自分に気づいた瞬間もすこぶる自己嫌悪。そして日記を書いている時期に限って自分の身の回りで嫌なことが起こったりして、それをまた日記に書かなければならないのか、というため息はもう不幸じゃんか。

 そのくせ人が公開している日記を読んだりすると「ほんとに日記って素敵だな」「もっとこの人の日記を読みたいな」と心底感動したり尊敬したりするわけで、ようしこの憧れのエネルギーで自分も!と思って死にかけた日記を2日ぶりに再開するも結局はやっぱり頓挫する。たぶん日記頓挫星に生まれたんだと思う。

 先日6歳の娘と喧嘩になった。深夜、寝室で娘がなにやら喚いていて、俺は寝ぼけていたのもあって「寝室で大声出すのやめて」とちょっと強めに言った。娘は泣き出して「ととはそうやって”やめて”ばっかり。だから嫌われるんだよ」とパンチラインを。俺は見事にそれを喰らってとても落ち込んだ。「だから」という接続詞が「嫌われるんだよ」より悲しかった。抽象的に娘からそのいっときに嫌われるのならば腹は括れるも「だから」がつくことによって一層の具体性とリアリティが増されたのだ。「具体的に俺を嫌っている人がいる・・・そして娘はそれを知っている・・・」という自己嫌悪を超えて人間不信になりそうな言葉を前に「ああ、このことを日記に書かねばなるまい」と頭抱えたらそれはもう苦行じゃんか。

 もちろんこのエピソードには後日談があって娘とは仲直りをしたのだけど、和解までの一連を詳細に書こうと思うともうなんていうか日記っていうより随筆じゃんか。だったらもうnoteに書くさ。

 娘は俺にダメージを負わせたくて、俺が一番傷つく言葉を選んでそれを見事に俺の顎に喰らわせたのだった。

 その日の夜、俺は泣きながら夢を見ていた。泣きながら夢を見る夜は年に何度かある。悪夢と呼ぶにはあまりにセンチメンタルだけど、限りなくそれと似たダメージを負う夢のさなか。死んだおじいちゃんが出てきては去っていったり、もう会えない人たちが出てきては去っていくような夢。要するに外から見ればうなされている現実のさなか。それを娘がなぐさめようと「ととが泣いているから頭を撫でてあげよう」と思って俺のベッドに寄ってきた。俺は夢の延長にいて感情が乱れていて、娘のなぐさめの手が外敵と思って「こわい。やめて」と言った。娘からすればなぐさめようとした自分の善意を俺にそう言われたのだからそれは傷つく。娘は「なんなの!」となり俺は「寝室で大声出すのやめて」となり例のパンチラインへと続く。うん。自己弁護の余地もない。それは嫌われる。でもこのプロセスをその夜俺ははわかっていなかった。いきなり大声で泣かれて「だから嫌い」と言われたという現実が俺に残っていた。別の現実を知ったのは翌朝妻に聞いてからだった。

 そういうわけで翌朝、複数の現実を照らして、改めてととが悪かったねごめんねとなった。抱きしめて「怒ってごめんね」と俺は言い、娘は「嫌いと言ってごめんね」と言って互いを許し合った。「だから」の接続詞は忘却の彼方へ、娘はケロッとしてYouTubeの「ちろぴの」を見る作業に戻った。いよいよ俺は日記を書く気がすっかり失せていた。落ち込んでいた。ただ落ち込みながらも俺は、ゲリラ豪雨をコントロールできないのと同じように、申し訳ないが年に数回のセンチメンタルな夢を見ることをコントロールはできないと思った。寝ぼけないという約束も申し訳ないができない。ただただこうして、自分の現実と娘の現実と妻の現実を照らし合わせて、謝ったり仲直りしたり対話しながら毎日を楽しく共生していく努力をしようね、という約束ならできる。それならできる。と思った。

 人間関係は、共生していくということにおいて、どうしてもこの、複数の現実を照らし合わせて互いの感情や傷を理解し、(できる限り)許し合っていくプロセスが必要になる。共生しない、という判断においてなら文字通りの離散が許されるのかもしれないが、長い対話と根気と自己開示のなかで、我々は共生するという選択をいまとっている。

 娘の言う「だから」はあながち間違っていないと思う。自分から好かれようとも嫌われたいとも思っていないけれど、世界のどこかの誰かは「だから」俺を嫌っていると思う。マラカイ・コンスタントの「たぶん、天にいるだれかさんは俺が気に入ってるんだよ」を「だから、どこかのだれかさんは俺が嫌いなんだよ」と言い換えることは俺には延々とできる。「俺って嫌われてるのかな?」と妻に聞く。「わからないけど、私たちは好きだよ」と言ってくれる。だから、我々が共生する理由は、いまはそれで充分だったりする。

 ほらこれ日記にならない。

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