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#062年功序列で選挙が決まる!?―論文執筆、落穂ひろい

 ここのところ、年度末進行で締め切りが近い原稿を書き書きしており、とんとnoteの更新が出来ておりませんでした。大体自分の中では1週間に1回更新することを何んとなく決めておりましたが、そもそも普段筆の重い方のため、論文などに書きづらいような内容を気楽に書くことで、原稿を書く癖をつけようという意図もありましたが、一年続けてみて、最後の最後で更新頻度を守れなくなってしまいました。幸いにして締め切りのある原稿の方は何とか書き仰せましたが。

 今回は、先達て書いた原稿の落穂拾いをしてみたいと思います。先達て書いた原稿は、明治二三年(一八九〇)に初めて帝国議会が開催されますが、その議会で活動する議員のうち、貴族院議員について書いてみました。貴族院議員には皇族の議員、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五つの爵位を持った議員、いわゆる有爵議員と、勲功によって天皇によって任命される勅選議員、それに各府県から納税額上位一五名の中から互選される多額納税者議員という四つの種類がありますが、今回の原稿では多額納税者議員について書いてみました。具体的に取り扱ったのは大阪府で最初に貴族院多額納税者議員に選ばれた久保田真吾という人物。彼は江戸時代以来の庄屋の家に生まれ、築留組という大和川の水利組合の役員を務め、明治時代に入ってからは副区長、戸長、村長などの村の役職や府会議員に選ばれるなどの活動をした、地方名望家と呼ばれるような人物です。残念ながら出身の地域では忘れられた存在で、筆者がこれまでいくつかの論考で分析しており、河川改修や治水、道路の拡幅など地域のインフラ整備などに尽力したことが明らかになっています。以前に紹介した論考でそのあたりを記していますので、ご興味のある方は下記のリンクからご覧ください。また、この人物を調査、研究するきっかけについても、「お化け屋敷は覚えているか?、あるいは地域史研究への道のり―論文執筆、落穂ひろい」に記していますので、ご参照ください。

 さて、今回の論考で書くことが出来なかった小ネタをここで紹介して行きたいと思います。明治二三年(一八九〇)に衆議院議員、貴族院議員が選ばれ、帝国議会が開催されますが、衆議院議員に先だって貴族院議員が選ばれます。ということは、近代に入って初めて経験する選挙が貴族院多額納税者議員の互選会でした。経験するといっても、一般の人々による選挙が行われたわけではなく、府県の多額往税者上位一五名の互選による選挙になっていました。とはいえ、一般の人々が初めて経験する選挙ですので、俄然興味関心は高かったようです。因みに衆議院議員も、現在とは異なり、選挙権の範囲は狭かったですが、何より最も異なる点としては立候補制を取っていないということです。これはどういうことかというと、現在の選挙では選挙に出たい人が立候補して、その中から投票する人が立候補者の中から投票する人を選んで投票しますが、明治時代最初の選挙は、投票による指名制だったということです。そのため、例えば中江兆民など、当時の著名人が選ばれる傾向にありました。選挙に立候補したい人は、とにかく名前を売るために名刺を配りまくり、演説会を行って、名前や主張を知ってもらうという選挙活動を行っていました。また当時は僧侶と教員には選挙権が何故かないという、不条理もありました。少し脱線しましたが、今回は貴族院多額納税者議員の話です。
 多額納税者議員選挙の有資格者は、府県の単位で税額で上位一五名が被選挙人、選挙人に選ばれます。選挙は互選会ということで、お互いに投票をし合います。投票は自選は不可で、他選のため、自分に投票すると無効票になります。一五名での互選ですので、一人でも無効票が出ると投票数が同数になる可能性があります。同数になった場合は年齢の上の人の当選となるという、年功序列の原理がはたらいています。
 選挙に当選した後、東京の議会に登庁するわけですが、初めての選挙、初めて地域から選ばれた議員であったため、横断幕などが張られたりして、鉄道の駅での見送り者が多数あったようです。また、見送りに対して、新聞に見送りのお礼の広告を出したりもしていました。上京後にはその滞在場所を明らかにしており、これは、各地の問題解決に奔走する人々が議会に対して議員から請願書を出してもらうために、院外活動を行えるように明らかにされていたようです。

 議会は、当時は現在の経済産業省のあるあたり、皇居の西側の地域に仮議事堂がつくられていました。仮議事堂内で現在の国会同様に、扇形に議席が配置されています。『大阪朝日新聞』明治二三年一一月二九日付の附録として「貴族院議員席次表」がついていますが、これを見ると、久保田真吾は一番左端の最後列に席が配置されています。この席次は、多額納税者議員の中でも席次の決定方法は年功序列によっていたので、久保田真吾は最後列であることから、各府県から選ばれた議員の中でも若手に属していたことが判ります。
 近代的な仕組みの帝国議会で、意外と年功序列の論理が踏襲されていたというのが、少し不思議な感じがしました。その不思議さと可笑しみを感じていただければ幸いです。もう少し、貴族院多額納税者議員についての小ネタについて紹介したいと思いますので、お付き合いいただければと思います。

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