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#099明治期の地方名望家層と"noblesse oblige"(2)

 今回は前回に引き続き、大阪府下で初めて貴族院多額納税者議員となった地方名望家の久保田真吾の地域貢献について紹介したいと思います。
 前回は、恐らく明治中期ごろではないかと思われる、淀川左岸の水害の多い地域での小作地経営について記しましたが、今回は明治初期のお話になります。

 『東大阪市史』近代Ⅰ史料編(東大阪市、1982年3月)や『枚岡市史』第4巻史料編2(枚岡市、1966年)にも記されていますが、明治一四年(一八八一)に「愛敬社」という会社がつくられます。この会社は、河内郡出雲井村(現在の東大阪市出雲井町)に所在する河内国一ノ宮である枚岡神社附近の山に梅園を作り、梅を収穫することで地域の産業に資するということを目的としていました。『東大阪市史』近代Ⅰ史料編に「愛敬社規則連名簿」(六一一頁)という 史料が掲載されており、「梅園山地所買入并ニ地所開墾及梅樹植附、尚神山へ桜樹植附料ニ引宛可申事」とあります。この愛敬社は梅園山で梅を栽培し、そこからの収穫される梅を地域の産業にするということを目指し、近隣の地方名望家五〇名が出資して運営を開始します。その代表として下小坂村の山沢益次郎(東大阪市下小坂)、久保田真吾らが中心になって組織を設立します。「明治・大正期の農業統計から見る地域の特産物」に掲げた表でも、若干梅が産出されていますが、恐らくこの中に愛敬社のもの含まれていたのでしょう。

 しかしこの愛敬社の運営は成功せずに終了します。これにより地域には梅園山だけが残されます。これが結果として枚岡神社の南側にある枚岡梅園となります。著者も子どもの頃に家族に連れられてこの梅林で梅の花を見ながら、レジャーシートを敷いて弁当を食べた記憶があります。この梅林は、現在も著名な観光名所として、大阪府民に愛される場所となっています。
 つい先年ですが、この梅林に危機が訪れました。梅に寄生するウィルス、プラムポックスウィルスによって梅林の梅が二〇一六年に感染してしまい、結果として翌二〇一七年には総て伐採、抜根されてしまいました。著者も何か対処方法がなかったものかと知り合いに樹木医に聞いてみましたが、このウィルスは治療の方法がなく、感染した梅の木をすべて除去して、数年間ウィルスが土壌から無くなるのを待つしか方法がない、とのことでした。著者は史料調査などでお世話になっていることもあり、伐採されて何もない梅林を数年眺めながらいつか復活することを心待ちにしていました。参考に農林水産省のプラムポックスウィルスについての情報が記載されているHPのURLを下記に記しておきます。

 昨年、やっとウィルスが土壌から無くなったとして、ようやく再度梅の木が植樹され、明治以来の梅林が復活しました。以前と比べると、梅の木が若木のため以前のような 景観には程遠いですが、明治前期の地域の殖産興業政策の夢のあとに今年も梅の花が咲いています。

枚岡梅園。北から南を望む。
東から西を望むと、枚岡梅園から大阪平野が一望出来ます。
南高梅の花。

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