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#038海外経験から地域の問題を考える―論文執筆、落穂ひろい

 今回は前回に引き続き、大阪東部の河川改修の問題についての落穂ひろいです。

 こちらの論稿を書く少し前、2005年に個人的な旅行でイギリスに行きました。約10日間の旅行で、エディンバラ、ロンドンに滞在しました。初めての海外旅行でもありましたので、出来るだけ気になる場所を見て回りたい、ということで、エディンバラではエディンバラ城やリンリスゴー宮殿、ロイヤルヨットのブリタニア号、ホーリールード宮殿など、ロンドンでは大英博物館、ロンドン博物館、ウエストミンスター宮殿などの見学をするという盛沢山の旅程でした。

 ホーリールード宮殿では、屋根が失われた廃墟のような史跡でしたが、中では、当時3作目まで映画が公開されていた「ハリー・ポッター」のような格好の小学生くらいの子どもたちが見学に来ていたのか、そのような扮装で体験学習をしていたのか、定かではありませんが、何人もの子供たちがいました。廃墟のような見せるべき展示物の無い空間でも、このようにして来場者に見せること、体験させることで、学習効果を上げることが出来るんだなぁ、と感心させられことを記憶しています。また、エディンバラ城では、エディンバラ城駐屯の連隊が第2次世界大戦で日本軍と交戦したことがあり、その戦闘についてや戦利品についての展示が行われており、非常にわかりやすい英語でキャプション、展示解説板が書かれていたのを見て、日本の博物館施設と異なり、異邦人である筆者でも理解出来るような形での誰にでも理解しやすい展示解説に驚かせられました。

 ロンドンでは、ロンドン博物館で、学齢に達しない子供を連れた20代のお母さんが、子どもに解説をしながら展示を見進めていたことが非常に印象的でした。ちょうどこの時に見ていた展示室では、バイキングの時代の展示をしていたので、お母さんが子供に向かって、「バルバロイ、バルバロイ」という単語を連呼していたのが非常に微笑ましかったです。おそらくこのイギリス人のお母さんは特に歴史や文化財に詳しい方ではなく、平均的な20代のイギリス人女性としての知識しかなかったのだろうとは思いましたが、日本でこのような光景が博物館施設で見られるだろうか、と考えてみて、普通の20代の女性でも大した予備知識もなくキャプションを読むことで子供に説明をしてあげることが出来るくらいに判りやすく書かれていたということだと思います。何せ中学生英語程度の知識しかない筆者にも展示解説は判りやすかったのですから。そう考えると、特に日本では、博物館施設はというと年配の方ばかりが集う場所という印象ですし、展示解説、キャプションに専門用語が羅列されていて、却って判りづらくなっているのではないか、と考えさせられました。このことから、自分の研究についても、どのような研究の方向性を目指せばいいのかという点で迷いのあった筆者に、研究史の発展を目指した専門家のための研究というものよりも、誰にでも理解出来るような内容、書き方で、社会一般に貢献出来るようなものを書けるようになりたい、と思うようになり、また、この親子の光景を見て、このような楽しみ方を出来る施設を作ることが出来るのであれば、学芸員の仕事を目指すのも悪くないな、と思ったことが思い出されます。

 前置きが長くなりましたが、こういう経験を経てから初めての論稿になったので、専門性という点よりは、より一般の疑問に答えることが出来るようなもの、学校教育などの一助としてフィードバック出来るもの、という色彩の濃いものになっているのではないかという気が、筆者個人としてはしています。

 今回は、先にご紹介した郡長の史料を使って、河川改修とその地域とのかかわりを、治水、産業、そして記念碑といった視点から検討しています。宝永元年(一七〇四)に付け替え工事を敢行した大和川。当初の河川の経路は奈良県から東に進み、河内平野に入ったところで北上、二筋に分流して、現在の東大阪市北部にあった新開池から再び西に大阪湾にそそいでいた大和川。これを河内平野に入って二筋に分流する直前に、そのまま西へ直進させることでに河川の付け替えを行った訳ですが、これ以降、問題視されていた水害はなくなったのか?小学校での郷土学習では、付け替えた段階で物語が終了してしまうので、それ以降には問題が無かったのかを追ってみました。

 また、河川改修後の河川敷の利用して、江戸時代には河内木綿が産業として発展を見せるようになります。しかし明治維新以降、安価な外来綿の輸入によって綿織物産業は衰退していくことになります。地域の産業が衰退するにあたって、地域の人びとはそのまま手をこまねいていたのか、衰退後にはどのようになっていったのか?こういう疑問も湧いてくるわけですが、地域住民が産業がなくなったからといって別な場所に移住するのか、というとそうではない。その場所で新たな産業を模索して逞しく生きていくわけです。この地域では、河川敷を利用していた綿畑が減少していく中、河川敷=非常に平坦な土地という利点を活かして、鉄道敷設を計画します。というのも、当時の鉄道は技術的な問題から5パーミルの傾斜しか上ることが出来なかったので、鉄道を通すためには圧倒的に平らな土地が必要だったそうです。これに河川敷を利用して、鉄道を敷設し、駅を設置することで、運輸によって経済効果を求める方策が地域では求められていきます。これが、後には工場地化した際の運輸の利点となっていきます。河川敷の再利用による産業の転換、という地域の強みになる訳です。鉄道の傾斜登坂力の問題については、青木栄一『鉄道忌避伝説の謎』(吉川弘文館、2006年11月)に詳しく書かれています。

 河川の改修には、広域行政の活動というのも見逃せません。ここでも広域行政の担当者として郡長が活躍します。明治二〇年(一八八七)、大和川が水害に見舞われますが、郡役所、地域の協力の元で被害は甚大であったものの、何とか納めることが出来ましたが、この際に河川の取水口である二番樋が破損します。この二番樋は直近に修復したところであったため、地域としては再度修復する費用の捻出が困難でした。そこで、郡役所が間に入って、これまで費用負担をしていなかった範囲の地域にも費用負担の協力をさせることで、何とか費用の捻出を計ることを行います。また、この修繕に際しては、郡長が大阪府の土木課に掛け合って、技師を派遣してもらって、これまで木造であった樋から煉瓦構造のものへとすることで、今後の定期的な修繕の間隔を長くして費用負担がより少なくなるよう、洪水の際にも破損しにくいようにするという建設計画を立てることになりました。これによって翌年には煉瓦構造の二番樋が竣工します。現在の姿が農林水産省のサイトに掲載されておりますので、下記にURLを記します。

  こちらは設置されている柏原市のHPでの記載です。

 こちらの工事は非常に大規模な工事だったこともあり、その堤防上に記念碑を建設されることになります。現在も残るこの記念碑の様子はこちらで確認出来ます。

この記念碑は、揮毫を藤沢恒(南岳)、題字を大阪府知事・建野郷三が行っており、記念碑の設置や落成式に郡役所と郡長が大きくかかわっています。 

 木綿畑から鉄道や駅の敷設に変化して行くことや、木造から煉瓦構造への樋へと工事を行うことなど、物理的にも目に見えて地域の状況が変化していく様をここでは追っていきましたが、学校教育ではなかなか習うことの無い、「その後の物語」として、明治時代には物理的にも風景が変化していくという転換点を迎えていたといえるでしょう。地域の発展の歴史を追うことでの、さまざまな問題を抱えつつ、地域開発は進められており、現在に続く風景を原点を確認することも出来ると言えるでしょう。

いただいたサポートは、史料調査、資料の収集に充てて、論文執筆などの形で出来るだけ皆さんへ還元していきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。